『タイタニア』のアリアバートとジュスランは田中芳樹によるキャラクター造形の最高傑作である。

 

DVD付き初回限定版 タイタニア 1<疾風篇> 2<暴風篇> 3<旋風篇> (講談社ノベルス)

 文芸業界でよく使用され、最近はだいぶシニカルに語られるようになったクリシェ(決まり文句)に「人間が描けている」というものがある。

 反対に「人間が描けていない」という形で使われることも多くあり、これはミステリ界隈などで批判的に使用されてはさまざまな議論を巻き起こして来た。

 おそらくまあ、「人物がリアルな人間のように迫力と実感をともなって浮かび上がって来る/来ない」という程度の意味だと思う。

 で、それと近く微妙に異なる意味の言葉に「キャラクター」がある。Wikipediaによるとこんな意味だ。

「キャラクター(語源:character)は、小説、漫画、映画、アニメ、コンピュータゲーム、 広告などのフィクションに登場する人物や動物など、あるいはそれら登場人物の性格や性質のこと。また、その特徴を通じて、読者、視聴者、消費者に一定のイメージを与え、かつ、商品や企業などに対する誘引効果を高めるものの総体。」

 ここでは「小説、漫画、映画、アニメ、コンピュータゲーム、 広告」と一列に並べられているわけだが、ぼくは「小説」と「それ以外」のキャラクターは微妙に異なる意味を持っていると考える。

 つまり、アニメやマンガなどにおけるキャラクターは、まず、図像として視聴者、読者の目に飛び込んでくる。

 たとえばミッキーマウスやピカチュウのキャラクターは、その性格描写以前に「キャラクターデザイン」が何より重要なわけだ。ミッキーといえばこう、ピカチュウといえばこうという視覚的なインパクトがあって初めてキャラクターが成立するのである。

 それに対して、小説は、ライトノベルという見過ごせない例外が存在するにせよ、とりあえずそれを措いておくと、基本的に登場人物の図像デザインを有さない。

 したがって、小説におけるキャラクターとは、まず第一に物語から浮かび上がって来る個性の輪郭という程度の意味になる。

 先にも書いたが、これは「人間が描けている」ということとは微妙に違う。「キャラクター」とは、あくまでときに非現実的なほどにわかりやすく強調された個性のことだからだ。

 魅力的なキャラクターを作るというとき、そのベクトルとは「リアルな人間を描く」こととは微妙に違う方向を指しているのである。

 で、その小説が「キャラクターが描けている」かどうか、すぐに判別する方法がひとつある。読んでひと月ほど経ったときに、登場人物の名前を思い出せるかどうか試してみるのだ。

 もしすぐに思い出せたなら、その小説は「人間が描けている」以上に「キャラクターが描けている」といえるだろう。一方で、たとえどれほど人間が描けていても、読んだ後しばらくすると登場人物の名前を思い出せない小説というものもある。

 そういう作品は、あるいは現代文学としては傑作だといえるかもしれないが、「キャラクター小説」として優れているとはいいがたい。「キャラクター小説」は「忘れがたいキャラクター」を生み出して初めて一流といえるのである。

 ここら辺のキャラクター論はやはり本格ミステリに絡んで、笠井潔あたりがくわしく語っているので、興味がある方は読んでみてほしい。なかなか面白い。

 で、ここまでは前置きで、ぼくは田中芳樹の話をしたいのである。ぼくは田中芳樹の『銀河英雄伝説』や『アルスラーン戦記』を日本におけるキャラクター小説の最高峰だと考えている。

 それらは「リアルな人間を描く」という方向性と「キャラクターを描く」という方向性のギリギリのマッチングの産物である。

 これほどたくさんの人物を人間として、キャラクターとしてハイレベルに描き込んだ群像劇は、日本には他に京極夏彦の『妖怪シリーズ』や、小野不由美の『十二国記』があるくらいだろう。

 西尾維新あたりまで行ってしまうと、これはいささか「キャラクター」に寄り過ぎて、「人間」としてのリアリティが欠けているところがある。それが悪いというわけではないだろうが、ここではそう述べておく。

 で、一般に田中の代表作といえば文句なしに先述した『銀河英雄伝説』ということになると思うのだが、今回は『タイタニア』について語りたい。

 『タイタニア』のアリアバート・タイタニア、そしてジュスラン・タイタニアは田中芳樹のキャラクター造形の最高傑作だと思うのだ。田中はここで、『銀河英雄伝説』から一歩進んだキャラクター造形を試みているように思う。

 というのも、このふたり、物語のほぼ主人公的なポジションにありながら、個性が「ない」のだ。いや、まったくないわけではないが、たとえば『銀河英雄伝説』のラインハルト・フォン・ローエングラムやヤン・ウェンリーといった超個性的な人物と比べると、いかにも個性が「薄い」。

 ふたりともいわゆる「美系キャラ」だが、絶世の美貌というわけではない。いわば「それなりの美系キャラ」で、しかもラインハルトやヤンのような天才というほどの才能を持っているわけでもない。

 ふつうに考えたら超有能ではあるものの、物語的には「それなり」の能力値に設定されているのである。しかし、それにもかかわらず、アリアバートやジュスランのキャラクターは圧倒的に印象に残る。なぜか?

 なぜだろう……。『銀河英雄伝説』のわかりやすく個性的な群像に比べると、相対的に「個性が薄い」ようにも見えるアリアバートたちだが、それでも「リアルな人間」というよりはやはり「キャラクター」という印象が強い。

 だが、ここにはあまりにもはっきりと矛盾がある。「個性は薄いが印象的なキャラクター」など理論上、ありえないはずなのだ。

 ある「個性の薄い」登場人物を「人間」として深みを持った描写をほどこすことはできても「キャラクター」として印象深く仕上げることは、ふつうはできないはずだ。

 なぜなら、くり返すが、少なくとも小説においては「キャラクター」とは「はっきりした個性の輪郭」を指すのだから。「個性の薄い個性」というとおかしいではないか。

 ところが、『タイタニア』においてはほぼすべての登場人物が、たとえば『銀河英雄伝説』と比べて、いわば「中途半端」な造形をほどこされているのである。

 これでは一見すると失敗作といってもいいはずだ。しかし、それでもやはり『タイタニア』は「キャラクター小説」として未曽有の傑作なのである。

 田中芳樹はここでじつに丹念な仕事を行っていると思う。つまり、田中はいくつものささやかなエピソードを積み重ねるなかで、アリアバートやジュスランのいわば「薄口の個性」をひき出しているのである。

 具体的な描写を引用することはしないが、その繊細な技量は驚くべきものがある。アリアバートやジュスランにはラインハルトやヤンのような極端でわかりやすい「濃口の個性」はないが、しかし、より繊細で微妙な「薄口の個性」が設定されているわけだ。

 しかも、それはかれらが友人として、兄弟として絡み合うことでさらに深みを増す。これは『銀河英雄伝説』のウォルフガング・ミッターマイヤーとオスカー・フォン・ロイエンタールの関係の進化版である。

 ミッターマイヤーとロイエンタールは正反対といえる性格だったが、アリアバートとジュスランはそうではない。たしかに対照的ではあるが、似通っているところもある。

 そういう意味で、『タイタニア』は『銀河英雄伝説』よりさらに細かく個性の設定がなされている作品であるといえる。こんな小説はちょっと思い出せない。

 ここら辺の話は栗尾本薫の『グイン・サーガ』や菊地秀行の『吸血鬼ハンター』、それから最近の本格ミステリやライトノベルの話などと合わせて『キャラクター小説論』として電子書籍にまとめたいところだが、はたしてまとまるかな……。まあ、お待ちください。いつか書くかも。