小児性愛者差別を告発する。「異性愛や同性愛は性的同意が前提」というウソ。

性倒錯者 だれもが秘める愛の逸脱

「小児性愛」はおぞましい邪悪なのだろうか?

 Twitterでいま、「小児性愛」が大きなトレンドとして話題になっている。

 発端は少年型ラブドールを購入したある人物のレポートマンガで、その内容が賛否を呼び、結果として「小児性愛」を巡る苛烈な議論となっているのである。

 いまでは、そのレポートは消去されてしまい、確認できないので、それについてはこれ以上記さない。

 この記事では、「小児性愛者と性的少数派の人権」を擁護する立場から、感情的になりがちなこの問題を、可能な限り冷静に考えていきたい。

小児性愛者は危険に決まっている?

 まず、「小児性愛者は危険な犯罪者予備軍なのか?」という問いについて考えてみよう。

 小児性愛者を一律に危険な犯罪者の予備軍であり、病院での治療が必要な存在とみなす人は少なくない。Twitterで少し検索しただけでそのようなツイートは大量に出て来る。

 しかし、ほんとうに小児性愛者は一律に危険な存在といえるのだろうか?

 もちろん、実際に犯罪に手を染める小児性愛者はいないわけではないだろう。

 そのような人物は、まちがいなくわたしたちの社会にとって危険な存在であり、何としてもかれらから子供たちを守る必要がある。

 おそらく、この点について異論がある方はほとんどいないと思う。問題は、じっさいに罪を犯していない小児性愛者である。

 そういった人物を人権を無視して非難することに正当性はあるだろうか?

それはやはり差別なのだ。

 わたしの考えでは、そのような正当性は存在しない

 なぜなら、じっさいに犯罪を行っていない人物を、その性的志向によって「こいつは罪を犯すかもしれない。いや、犯すに違いない」という憶測と偏見で糾弾することは差別以外の何ものでもないからである。

 この、小児性愛者以外に対してならあまりにあたりまえといえる原則が、小児性愛者が対象だと急に通らなくなる。それはやはり偏見であり、差別だと思う。

 そうではない、小児性愛者は実際に子供を対象とした性犯罪を行うに違いないのだ、あるいは少なくともその可能性が高いのだ、という人には何か明確な根拠を出してほしい。

 根拠もなく人を決めつける行為は卑劣である。「ユダヤ人は人さらいだ」といった風説が卑劣であるように。

「小児性愛者」と「小児性犯罪者」を区別しよう。

 もちろん、この社会ではじっさいに子供を対象とした性犯罪が起きており、そうである以上、多数の性犯罪者も存在する。

 もし、小児性愛者がその卑劣な性犯罪者とイコールであるのなら、小児性愛者が非難を受けるのは当然のことだろう。

 だが、ここで注意するべきなのは、「小児性愛者だからといって必ずしも子供にみだらなことをするわけでもなく、また小児性愛者でなくとも子供にみだらなことをする場合はある(Wikipedea「チャイルド・マレスター」の項目より)」ということだ。

 小児性愛者(ペドフィリア)と小児性犯罪者(チャイルド・マレスター)はまったく違う概念なのである

 小児性愛者であっても、一生を子供に手を触れることなく終わる人は大勢いるはずだ。

 異性愛者でも、同性愛者でも、自由恋愛と性的同意のうえでの性行為を経験することなく終わる人は大勢いるのだから、当然といえば当然ではある。

小児性愛は「病」なのか?

「小児性愛」という病  ―それは愛ではない

「小児性愛」という病 ―それは愛ではない

  • 作者:斉藤 章佳
  • 発売日: 2019/11/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  たしかに、小児性愛者を治療が必要な犯罪者とみなした研究は存在する。

 たとえば、最近刊行された斉藤章佳『「小児性愛」という病 それは、愛ではない』には、さまざまな児童性犯罪者たちが登場し、そういった人物が治療を受けるさまが描写されている。

 自分の加害行為の責任をまったく自覚していない性犯罪者の自己正当化は、まさにおぞましいとしかいいようがない。

 とはいえ、だから小児性愛者は忌まわしい自己欺瞞の化身なのだ、ということにはならない。

 この本で斎藤が扱っているのは、あくまでチャイルド・マレスターであってペドファイル一般ではないことに注意してほしい。

 チャイルド・マレスターにならなかった小児性愛者がどのような人物であるのか、この本からではまったくわからない。

 斎藤が、自分が扱ったチャイルド・マレスターのほとんどが「後天的」に認知の歪みとともにその欲望を身に付けた人物であると語っているのは、逆にいうなら「先天的」で、認知の歪みのない小児性愛者は斎藤の研究の対象となるところまで出て来ないということなのではないかとも考えられる。

 もちろん、わたしがここでいいたいのは、「後天的」に小児性愛者になった人物は危険だが「先天的」な人物はそうではない、などというまさに差別的な言説ではない。

 「小児性愛者」として一律に扱われている人物のなかにも多様性があり、全員が一律に悪魔的な性犯罪者ではない、ということだ。

「異常」という差別用語。

 あるいは、「たとえ実行に移さなくても、その欲望を公にすることそのものが罪なのだ」と考えられる人もいるかもしれない。

 わたしはそうは思わない。どのような「異常」な欲望であれ、相手の同意を無視して実行に移さない限り問題はない(そして、「正常/異常」という二元論自体が差別的発想であることはいうまでもない)。

 もちろん、社会通念上、過度に性的な話題は一般の場で話すことはつつしむべきだというコンセンサスはあると思うが、それはべつだん、児童性愛でなくても同じことである。

 そもそも実行に移さない欲望段階の児童性愛のどこに問題があるのだろうか?

 これには、「相手の同意を得られないから邪悪なのだ」という意見が多数ある。

 しかし、「性的同意を得ていない相手に欲望を抱くこと」が一律に邪悪で許されない行為だとするなら、いわゆる「片思い」はすべて邪悪ということになる。同意を得ている片思いなど存在しないのだから。

 また、同性愛者が異性愛者に、異性愛者が同性愛者に欲望を抱くことも邪悪になる。この場合も同意は取れないのだから。

「異性愛や同性愛は性的同意を前提にした欲望である」というウソ。

 もちろん、成人を対象にした異性愛や同性愛においては、同意を得てから欲望を抱くことが理論的に可能ではある。

 しかし、ごく当然のことだと思うのだが、現実には通常、恋愛や性行為は片方が他方に対し一方的に何らかの欲望を抱くところからスタートする。

 両者が目と目があった瞬間まったく同時に恋に落ちるというようなことは、一部の恋愛マンガのなかではともかく、現実にはほとんどありえない。

 ということは、異性愛者であろうが同性愛者であろうが、あるいはバイセクシャルやトランスジェンダーであろうが、同意を得ず「勝手に」欲望を抱かなければ関係が始まらないことが大半であるといえる。

 そのような欲望は、欲望を向けられた相手にとって「気持ち悪い」、「おぞましい」と感じられることもしばしばだろう。

 だが、それをも一律に邪悪だとするなら、合意の上での恋愛やセックスもほとんどが成立しない。

 よって、異性愛者や同性愛者も、一切の性的欲望を抱かないとされるAセクシャル以外は、「性的同意を得ていない欲望を抱くことがある」という一点において、小児性愛者と変わらないことになる。

 つまり、小児性愛者はその意味ではまったく特別ではないのだ

欲望は自分の意思で出したり消したりできない。

 児童性愛者が特別なのは「性的同意が取れる場合が存在しない」という一点のみである。しかし、これとて純理論的には特別とはいえない。

 たとえば、人類社会が壊滅してひとりの異性愛者の男性とひとりの同性愛者の女性しか生き残っていない場合を考えてみよう。

 この場合、仮に男性が女性に対し欲望を抱いたとしたら、それは即座に「邪悪」になる。なぜなら、その女性から性的同意を得られる可能性はないからだ。

 したがって、倫理的にいうのなら、男性は自ら異性愛者であることをやめ、女性に対するすべての欲望を即座にストップしなければならない。

 そんなことできるはずがない? その通りだ。たとえ、それが性的同意を得られる可能性のない欲望だとしても、すでにある欲望を都合よくなくすことなどできるはずがない

 それは異性愛者であれ、同性愛者であれ、両性愛者であれ、小児性愛者であれ同じである。欲望は自分の意思でどうとでも操作できるようなものではないのだ。

同意が得られるのは「たまたま」。

 あまりにも極端な喩えに思われるだろうか。そうかもしれない。

 だが、この場合、重要なのは異性愛者や同性愛者が性的同意を得たパートナーを持つことができるのは究極的には「たまたま」であり、そうでない場合も十分に想定できるということなのだ。

 そして、その「そうでない場合」においても、人は急に欲望を霧散させることなどできない。だからこそ、性的少数派を差別することは悪なのではなかったか?

 もし、欲望が社会的に適切とされているか不適切とされているかによって自在に消したりできるようなものなら、人は性の問題で悩んだりしないだろう。

 そうではなく、欲望は(それが生まれつきのものであるか、後天的に身に付いたものであるかはともかく)、自分ではどうしようもない形で噴出して来るものであるからこそ、人間にとって重要なのだ。

 もちろん、この場合、「自分ではどうしようもない」とは、その存在自体を自分の意思でなくすことはできないという意味であって、まったくコントロールが効かないということではない。

小児性愛非難のロジック。

 おそらく、小児性愛そのものを非難する人は、無意識に「小児性愛は同意を得ることができない。→よって、小児性愛は実行すれば加害にしかならない。→加害にしかならないような欲望は「悪い欲望」である。→「悪い欲望」を抱くのは、悪い人物に違いない。→悪い人物であるからには、悪いことを実行するだろう。」といった飛躍した論理を展開しているのかもしれない。

 しかし、人はもともとさまざまな「許されない欲望」を抱きながら、それを「理性」と「良心」によって操作して生きているものなのである。

 理性的な人、良心的な人物とは、べつに「許されない欲望」を一切抱かない人のことではない。

 たとえば「ああ、こいつ、ぶん殴ってやりたい!」という欲望を抱いたとしても、それをどうにか抑えることができるのが理性的で良心的な人だといえる。

 つまり、カギとなるのは欲望ではなく、理性や良心の有無のほうなのだ。

 そして、小児性愛者にはそのような理性や良心はないと考えることには根拠がない。

 「悪い欲望」を抱いているのだから、「悪い人間」に違いなく、理性や良心など持っていないだろうというのは、まったくの偏見なのだ。

「安心」の代償。

 もちろん、小児性愛者を片っ端から精神病院へでも送り込み、「治療」を受けさせて「完治」しない場合は社会に出て来れないようにすれば、ひとまず子を持つ親はひとまず「安心」できるかもしれない。

 だが、そんな真似をしても実際には子供を対象にした性犯罪はなくならない。なぜなら、くり返すが、「ペドファイル」は「チャイルド・マレスター」だとは限らず、その逆もまた真であるからである。

 仮初めの「安心」のために、実在する人物の人権を踏みにじるのなら、それこそが理性や良心を欠いた行為といえるのではないだろうか

 じっさいにTwitterではすでに「児童性愛者を皆殺しにしろ!」といった虐殺予告とも受け取られかねないツイートが確認されている。

 この上、問題を児童性愛者の人権侵害に発展させないために、わたしたちはいまこそ「揺れ動く感情」ではなく、「理性」と「良心」に沿った言動を行うべきである。

 たとえそれが、どれほどむずかしいことだとしても。感情的反発を理性によって封じ込め、他者を踏みにじりたい心を抑える、その自制と倫理を「人間らしさ」と呼ぶ。

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 海燕(@kaien)。1978年生まれ。男性。ヲタク。汎発(全身)性円形脱毛症で闘病ちう。

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