結局、間桐桜は救われるべきなのか? 弱く儚い人間の物語としての『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel]』。

アニメ版『Fate/stay night』完結編、堂々の仕上がり!

 先日、「劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel] III. Spring song」を観てきた。本来は数か月前に公開される予定だったものの、新型コロナウィルスの蔓延の影響で延期されていたわけだが、満を持して登場した三部作完結編は期待に違わぬ力作だ。

 もともとアダルトゲームとして発表された原作の映像化としてみると、その壮麗さといい、淫靡さといい、ほぼ完璧といえる仕上がりである。

 尺の短さから長大な原作を消化し切れていない部分は残っていると思うが、その一点を含めてなお、じつに驚異的なクオリティといえる。

 きわめて複雑な原作への理解と解釈を初め、この映画の美点は数え切れない。数年をかけてこの作品を最後まで観終えたこの機会に、あらためて三部作を振り返ってみよう。

『Fate』の原点はここにある。

Fate/stay night [Realta Nua] PlayStation Vita the Best - PS Vita

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  • 発売日: 2014/09/18
  • メディア: Video Game

 『Fate/stay night』という作品の始まりは2004年に発売されたゲームである。アダルトゲームの規格から大きく逸脱した壮絶な内容とボリュームによって大ヒットし、繰り返し続編が制作されたり映像化されたりして世界的に有名な作品にまで成り上がった。

 しかし、その成功も栄光も、すべては最初の『Fate/stay night』が破格に面白い物語だったということに始まっている。その『Fate/ stay night』のなかでも最後にして最長のシナリオが「Heaven's Feel」だ。そしてこれは、最大の問題作でもある。

 さまざまな倫理的葛藤を孕みながらも基本的には勧善懲悪を貫徹する第一章「Fate(セイバールート)」や「Unlimited Blade Works(遠坂凛ルート)」に比べると、「Heaven's Feel(間桐桜ルート)」の物語はあまりにも複雑に屈折している。

 それでも、三部作中の第一章の段階では既存のシリーズからの逸脱はそれほど目立たない。例によっていままでのルートとはまったく異なる展開をたどりはするが、どこか根底のところで破滅と崩壊の予感を昏く感じさせながらも、あくまで王道のエンターテインメントとして語られてゆくかに見える。

 ところが、物語が第二章に入るとその予感はあっさりと現実に変わる。メインヒロインである桜が膨大な数の人を殺害していることがあきらかとなり、主人公である士郎は「正義の味方」という理想を捨て、「桜の味方」であることを選ぶのだ。

 これはいままでの二ルートの否定とも受け取れるショッキングな内容であり、その屈曲を受け入れられない人は少なくないだろう。十数年前の原作発表の時点ですでにそうだった。「Fate」や「Unlimited Blade Works」を絶賛しながら、「Heaven's Feel」を手厳しく批判する人は少なくなかったのだ。

 じっさい、その立場からいって情状酌量の余地はあるかもしれないにせよ、自分の目的のため、あるいは欲望のため多くの人を殺める桜は倫理的に見れば「悪」でしかないかもしれない。

 その桜を認め、赦し、「正義の味方」であることを放棄する士郎も、この時点で純粋なエンターテインメントのヒーローとはいえなくなっているだろう。その意味で、単に面白い、爽快なエンターテインメントを期待する向きから批判が出てくることは当然ではある。

 「Heaven's Feel」はあらゆる意味でそれまでの綺麗な物語からはみ出ており、そこにはシンプルでわかりやすいカタルシスはない。しかし、だからこそこのシナリオは無二のものとなっていることもたしかだ。

山本弘『サーラの冒険』と、その欺瞞。

 このシナリオのことを考えていると、ぼくはSF作家・山本弘の『サーラの冒険』を思い出す。この物語もクライマックスでヒロインが殺人を犯し、ヒーローを目指す主人公は苦悩する。

 しかし、『サーラの冒険』ではこのテーマはあまり突き詰められたとはいいがたい。主人公は結局、自分たちの犯した行為の償いとしてヒロインといっしょに「ヒーロー=正義の味方」を目指すことにして終わるのだ。

 ぼくには、そこにはあまりにもわかりやすい欺瞞があるように思えてならなかった。べつだん、ヒーローとしていくら活躍したところで、私情でヒロインの「悪」を見逃したという事実は変わらない。

 そうであるならば、ひとりのヒーローとして正義を貫き通す資格は失われている。そうにもかかわらずあくまでヒーローを目指すというのなら、それはやはり欺瞞以外の何ものでもありえないと思ったのだ。

 一方、『Fate』シリーズの生みの親でありメインライターである奈須きのこはこのような逃避と欺瞞を許さない。「Heaven's Feel」においてはあくまで万人の代表としての「正義の味方」と、あるひとりに味方する態度は両立しないことが前提となる。

 そして、先述した通り、衛宮士郎は「Fate」や「Unlimited Blade Works」においてあれほどこだわり抜いた「正義の味方」という信念を自ら捨て去ることになる。賛否両論を呼んで当然の衝撃的な物語だ。

少なくない人に嫌われる展開をあえて選んだということ。

 さらにいえば、このルートのヒロインであり、士郎が愛する少女である桜のすがたは理想化された美少女ヒロイン像からきわめて遠い。

 セイバー(アルトリア)や凛と比べると、彼女はどこまでも「弱い」。しばしば「黒化」と呼ばれる堕落を経て、凛や士郎をも圧倒する強大な力を手に入れてなお、その心はどこまでも脆弱である。そして、その弱さを攻撃性へ変換し、士郎たちに襲いかかってくるのだ。

 その、いわゆる「ルサンチマン」に満ちた態度は、苦難のなかにあってどこまでも高貴で高潔なアルトリアや凛とは決定的に異なっている。このようなヒロイン像はきわめて例が少なく、独創的ではあるものの、一般的な人気を集めなかったことは当然だろう。

 結局のところ、桜の弱さ、そして「醜さ」、そして倫理的な「悪」を、多くの人は嫌ったわけである。

 しかし、この劇場版においてあらためて描写が追加された物語を見てみると、士郎にとって桜がいかに大切な存在であるかが見えてくる。もちろん、それでもなお彼女を許せないという人はいるだろうが、多くの観客にとって、桜の弱さは共感をもって感じることができるものになったのではないだろうか。

 この点は劇場版の大きな特徴であり、美点といえる。また、前回の「黒セイバー対バーサーカー戦」、今回の「ライダー対黒セイバー戦」など、アクションシーンのアニメーションはまさに圧巻であり、いちアニメファンとして至福を味わうことができた。そういう意味でも、今回のアニメ化はほんとうに素晴らしい出来だ。

「結局のところ、桜は救われるべきなのか?」という問いは残る。

 しかし、それでも最後に「桜は救われるべきなのか?」という「問い」は残る。

 この「問い」に対してはさまざまに答えることができるだろうが、ぼくはそもそもどの答えが正しいかには興味がない。物語とはべつだん、倫理的な正答を探すものではないはずだ。その意味では道徳の教科書ではないのである。

 この物語のなかで、衛宮士郎が、間桐桜が下した決断は正しいのかもしれないし、間違えているのかもしれない。だが、いずれにせよ、それは血と泥のなかであがきながらかれらが必死に下した判断であることは間違いない。

 重要なのはその温度が観ているこちらに伝わってくることであり、何が正しいかということではない。何が正しいかということが最も重要なのだと考えるならば、物語は物語の外部の思想なり哲学なりの従属物でしかなくなってしまうだろう。

 そうではないのだ。物語は物語であり、何らかの「正しさ」に従ってあるべきものではないのである。たとえその行動が外部のモラルから見て間違えていようと、それが観ている者の胸を打つならば作品は成功だ。ぼくはそう思う。

 その意味で、「Heaven's Feel」はやはり素晴らしい。善悪をも倫理をも超えて、この作品は響くものがある。未見の方はぜひ観に行ってみてほしい。そこにあるものはある意味では堕落の物語である。しかし、それはまさに、人間の物語なのだ。

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 海燕(@kaien)。1978年生まれ。男性。ヲタク。汎発(全身)性円形脱毛症で闘病ちう。

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