祭と絆。

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

 読了。

 素晴らしくおもしろかった。近年のノンフィクションの収穫であると思う。著者はネットを中心に活動の規模を広げつつある「新しい右翼(もしくはウヨク)」の中核的組織である在特会在日特権を許さない市民の会)を取材し、その「闇」の向こう側にあるものを丹念に浮かび上がらせようとしている。

 在特会とはどんな団体なのか。ひと言でいうならそれは、ネットが産み落としてしまった鬼子である。会員数は一万人余り。偏向した思想を振りかざして在日朝鮮人を排撃する、ある種の保守団体であるが、その過激な活動は、従来の右翼団体、活動からも批判を浴びせられている。

 しかし、ここでは在特会の(ある種八方破れな)活動について触れることはよそう。それはきわめて幼稚で、低次元のものだからである。ぼくが面白く思ったのは、そのような幼稚な思想団体の活動に、なぜ多数の人々が惹き寄せられたのかということだった。

 その理由を著者は会員たちの「承認欲求」にある、と分析する。かれによると、在特会に入っているのは既存の社会で「うまくいかなかった人たち」なのだという。会長の桜井誠にしてからが、学生時代は地味な存在であった。

 そうして、自分たちが少数派であることを自覚している在特会はどんな人も拒絶しない。「うまくいかなかった人たち」にとっては、在特会は、ひどく居心地のいい場所なのだ。

 著者が自分自身も「うまくいかなかった人」なのである、と語り、在特会の人々に仄かな羨望を感じるクライマックスは圧巻である。その意味で、在特会の活動は、どれほど異様で醜悪に見えたとしても、「ひとつの青春」なのだ。

 在特会はあたりまえのフラットな日常に足りないものを与えてくれる。非日常的な「祭」である。在特会の活動は、それ自体、祝祭、カーニバルであり、ハレの場なのだ。多くのひとが「薄くひきのばされたフラットな日常」に耐えられず、「祭」を求める。

 在特会はそれを提供する。祭と、そうして「絆」を。在特会の会員たちは、口をそろえて語る。在特会の活動は楽しい、会員はいい人ばかりだと。そこにあるものは「絆」への欲求である。著者は書く。「在特会は「帰る場所」なのだ」と。

 ここでぼくは『ONE PIECE』や『ぼくは友達が少ない』などのサブカルチャーコンテンツを思い出さずにはいられない。そこでは「強い絆で結ばれた仲間、友達」の関係が描き出され、人気を博していたのだった。つまりはそれもこれも同じ時代の、同じ現象の別断面なのだ。

 多くの人が薄い人間関係とフラットな日常に飽き足らないものを感じている。「ルサンチマンなき享楽の時代」にあって、なおルサンチマンを捨て切れないひとたち。生きるために強烈な「物語」を必要とする人たち。「生きながら物語に葬られ」ていて、初めて生きている気がする人たち。何のことはない、それはぼくのことだ。

 よく皮肉交じりに「『CLANNAD』は人生」なんていうけれど、ぼくにとってフィクションはたかが実人生などとは比較にならない。それは世界の真実の破片だと、心から信じている。オタク趣味は普通になった。大変結構。でも、ぼくはやっぱりそういう「普通」の人たちには馴染めないと感じる。

 もちろん、単なる中二病の特権意識に過ぎないかもしれない。しかし、それでもやっぱり、「違う」という感覚はぬぐえない。ぼくは違う、と。みんなで騒ぎながらカジュアルに作品を消費していくのはいいのだが、でも、ぼくは本質的にどうしようもなく暗くて重いひとなんだよなー。

 この疎外感はべつにいま初めて感じるものではなく、学校に通っていた頃はずーっと感じていたものなんだけれど。同じはずのオタクのなかでもやっぱりそういう疎外意識を消せない。ぼくは暗く重たい自意識を手放せない。明るく楽しく萌え萌えに作品を消化しつづけるなんてできない。

 そういう意味では、ぼくはまったく「痛いやつ」なのであって、どうあってもそうでなくなることなどできそうもない。正気になどなれない。冷静になど見れない。適度な距離を置くことなど考えられない。ただひたすら一途に作品に没頭することしかできない。

 良くも悪くも、ぼくはそういう奴なので、『げんしけん』あたりを読んでいると、ここにぼくの居場所はないと感じるんですよね。いくらオタク趣味が普通になっても、ぼく個人のパーソナリティが重たいということはどうしようもないんだよなー。

 ぼくもまた、「物語があって初めて生きることができる」人間なのだ。そうして、物語のなかに「真実」を見いだし、ネットを通して承認欲求を満たし、仲間を手に入れた。在特会と何ら変わるところはない。

 違うのは、在特会の人びとが「絆」を見いだしたのが右翼活動であり、ぼくが「真実」を見たのがサブカルチャーコンテンツであったというだけのことだ。ぼくは偉大な「物語」たちがあったからこそ、踏みとどまれた。この先、オタクカルチャーは若い層に何らかの「物語」を提供できるだろうか。

坂上:今名前の挙がった初音ミク、やる夫、『東方』というのはどれもインターネットが普及した時代と相性のいいものですよね。ここ十年のコンテンツ消費で一番大きく変わったのは、ネット上に用意された場所や素材を利用することでユーザーが制作側として参加できる環境が整えられたという点です。僕はそれが物語の内容にも影響を与えていると思うんですね。最近のライトノベルの流行を見るとそれは分かりやすい。『涼宮ハルヒの憂鬱』以降になると思うんですが、読者が共感しやすい主人公がまず置かれていて、彼とヒロインたちとの平和な日常がサザエさん的に続いていくタイプの小説が非常に多いんです。強力な物語よりも、二次創作として展開しやすい素材が好まれるようになったという印象ですね。けれど正直な感想として、そうしたものばかりが溢れていくのは非常につまらない。単に日常が続くというだけなら僕らの生きる現実と大差ないので、フィクションとしての魅力に欠けてしまう。なので、ユーザーや読者が素材になる物語やキャラクターを求めていることを理解しつつ、どうやって物語の面白さや壮大さを維持していくかということも重要になってくると思います。

 「楽しさ」に満ちた享楽的な娯楽があふれているなかで、なお、「物語」を志向する人びとも存在するということ。それを『ネットと愛国』は教えてくれた。読むべき本である。未読の方には自信を持ってお奨めさせていただく。