作家は読者の期待に応えすぎてはいけない。


 Twitterで呟いたことをまとめて記事にしてみる。

 最近、でもないけれど、ここ数年、よく見かけるライトノベル批判として、「内容がマンネリ化している」「どれを読んでも同じように感じる」というものがある。

 ぼくはそれは必ずしも事実ではないと思っているけれど、一方で、一部の突出した作品を除けば、たしかに内容がワンパターン化しつつある、とも思う。もしそうだとしたら、それは『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』で言うところの「需要に応えた」結果なのだろう。

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

 『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』では、ライトノベルとほかの文芸ジャンルの落差として、ライトノベルが常に需要に応えてきたジャンルであることを挙げている。しかし、それはやはりもろ刃の剣だと思うのだ。

 読者の希望をあらかじめ予測してそれに応えていると、同じようなものばかりになることは当然だ。それは「需要応答型」の作劇が必然的に抱えるひとつの限界なのではないだろうか。

 で、ここで「日経ビジネスオンライン」の井上雄彦インタビューと合わせて考えたい。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20120322/230136/

 井上はこのインタビューのなかで「需要に応えるのは、本末転倒への道でもある」といい、また「相手に合わせて、相手の距離で戦っていると、自分が戦いのイメージを先取りできない、ゲームを作れない感じになってしまう。」ともいっている。

 ここで井上がいわんとしているのは「作家が主導権を握ることの大切さ」、みたいなものだろう。作劇するとき、作家が主導権を読者に渡してしまうと、その物語は先を予想しやすい、退屈な代物になってしまう。

 これは非常によくわかる話だ。よくあるはやりの要素だけを集めた作品が(ライトノベルでも、他のジャンルでも)そう簡単に受けないのはここに理由がある。エンターテインメントの作劇は作者主導でなければならないのだ。

 ただ、そうかといって読者の需要(あるいは期待、あるいは欲望)を完全に無視してしまっても、やはりおもしろい物語は成り立たないだろう。ここで、話は非常に微妙な領域に突入する。

 井上は、おもしろい漫画とは「作者が一方的に作っているものを見せているというより、作者と読者が一緒に作っている感覚が生まれる」ものだという。これも非常によくわかる話。

 ただ読者の需要に合わせるのでなく、かといって作者の勝手を押し付けるのではなく、「共同作業」的にひとつの作品を作っていく。『SLAM DUNK』はまさにそういう漫画だったし、『バガボンド』はリアルタイムでそういう作業を行なっているように見える。

 たぶん、ほかと差別化できていないライトノベルは、そこらへんで失敗しているのだと思う。逆に独創的な作品は「作者が主導権を握る」ことに成功した上で、読者とのコミュニケーションを成り立たせている。それは「先手を取ってゲームを組み立てる」ことに近い作業だ。そういう作品はおもしろい。

 この作劇をゲームに例えるアイディアは素晴らしく興味深い。つまり、作劇とは作者の都合だけでできるものではないけれど、しかし同時に決して相手(読者)に主導権を渡さない、一方的に防御に回らないことが大切だということ。

 「読者の需要に応える」ことは重要だが、しかし、それも結局、バランスの問題なのだ。需要の奴隷であってはならない。むしろ、その主人であるべきなのだ。常に創造的に需要を生み出していくこと。それができるひとを「作家」と呼ぶのだと思う。

 つまり、創作とは読者なしでは成り立たない作業ではある。しかし、それは読者の期待に一方的に応答していくことでは決してない。また、それを完全に無視して、自分の趣味を押し付けることでもない。それは作者と読者のあいだで行われる「ゲーム」なのであり、しかも、作者はそこで「先手を取る」ことが大切である。井上の言葉をぼくはそう解釈した。

 作家は読者の期待に応えるべきであり、しかも応えすぎるべきではないのだ。創作が相手(読者)なしでは成り立たない「ゲーム」であることを認めた上で、なおかつ決して相手に主導権を渡さないこと。常にゲームをリードし続けること。ほんとうにおもしろい作品はそうやってしか生まれないのかもしれない、とぼくも思った。