ほんとうの世界がそこにある。

おっと、で、それを物語の世界の真実を見たい!、言い換えると、「ここではない世界に行きたい」、さらに薄くいいかえると、より深く物語を体験したい、という感じに薄まっていって、その世界は本当にあるんだ!・・・・だとすると、そこにいるキャラクターは本物の人間であるはずだ!という反転というか、追及が始まるようなのです(笑)(←病気ですねーーー)。ちなみに、評論家中島梓が分析した、彼女がより世界の真実を見るために必要な物語の大前提は、『終わらない物語であること!』ということでした、、、そして、その理論と自らの衝動にのっとて作家栗本薫は、『終わらない物語』を目指して、グインサーガを書くことになったのです。・・・・彼女の病のせいで、終わらないと約束された(=promised land)グインサーガは、130巻で終わってしまいましたが…・

(中略)

えっと、僕が、たとえば、こういう子供向けの番組ですが、プリキュアのキャラクターにどういう「深さ」を読み取っていくかは、これまでの記事を見ているとわかると思うんですが、そんなことは製作者も考えてないよっ!ていうような(笑)暴走に突っ走るんですが、製作者とか関係ないから!だって「世界はそこにあるんだから!」というような感覚による返答になるんです。・・・・・うーん、これわかる人にしか、ほんとわからない返しだなー(笑)。、海燕さんわかりますよねぇ?(笑)

 まあ、わかります(笑)。たぶんぼくじゃなくてもわかる人にはわかる話なんだと思いますが――こういう話題になると、どうしても『グイン・サーガ』の話が出るのですが、それはこの物語がぼくがいちばん長く付き合っている物語であり――そうして、世界と登場人物の「実在感」が最も強い物語だからなんですよね。

 思い返せば数年前、ペトロニウスさんたちと初めて逢った折、「『グイン・サーガ』の世界はほんとにあるんですよ!」と熱弁したものですが(笑)、ぼくは本気でそう信じています。

 もちろん、理性的に考えれば単なる文字の連なりが生み出した空想に過ぎないし、作中には矛盾や辻褄の合わないところがいくらでもあるのですが、もうね、そういうことはどうでもいいの。だって、ぼくのなかにはたしかに、その世界があるんだから。

 作者が亡くなり、二度と新刊が読めなくなったいまでも、ぼくはあの世界がなくなったとは思っていません。ただ「接続が切れただけ」だと考えています。その後のことを知る術がなくなっただけで、べつにあの世界、あの人物たちがいなくなってしまったわけではないと。

 ぼくにとって『グイン・サーガ』の世界はどこまでも実在の、「もうひとつの現実」、「ありうるべき真世界」なのです。チューリング・テストじゃないですが、『グイン・サーガ』の登場人物、イシュトヴァーンとかマリウスとか逢って話したらわかると思いますよ(笑)。あ、こいつ、イシュトヴァーンじゃん、って。

 『ベルセルク』の三浦建太郎さんが同じようなことを言っていましたが、たぶん『グイン・サーガ』の、少なくとも全盛期は、読者にそういう感情を抱かせる、ほんとうに稀有な作品のなかのひとつだったのです。

 で、まあ、『グイン・サーガ』ほど極端じゃなくても、ぼくは多くの物語をそういうふうに捉えているわけです。このあいだも挙げた「『CLANNAD』は人生」という揶揄には、「たかがエロゲを形容するのに人生なんて大げさな形容を持ち出す痛いオタク」に対する蔑視があります。

 でも、ぼくにとって物語は人生以上のものです。それは「そうであるべき本当の人生」なのです。べつだん、いまの人生に不満があるとかいうわけではなく(いや、不満はありますがそういうことではなく)、ただ「ここは本当の世界ではない。もうひとつの世界がこの世にはあるはずだ」と信仰しているだけなのです。

 たかがエロゲ、といえるひとに対しては「ああ、そういうことをいえる人は健康だし幸せなんだな」と思いますね。でも、ぼくは健康でもなければ全くの幸せというわけでもないので、いつも「飢えて」います。素晴らしい物語がなければ半分死んでいるようなものなのです!

 この、満たされない「飢え」、どれほど物語を読んでも、「もっと、もっと!」と望んでやまない思いは、どこから来るのか。これについては、少女漫画家の太刀掛秀子さんが、名作『まりの きみの声が』の後書きでこう書いています。

 飽食の時代、本は身近なものになり、ちまたにあふれている。どこに、求めているものがあるのだろう。本好きの子供は中年になり、言葉の洪水の息苦しさの中、別世界の扉をくぐるにはつきすぎてしまった皮下脂肪を持てあましながら、それでも本にかじり付いている。
 一日の仕事を終え、オレンジ色の電灯の下、家族が遅い夕食を取っている。三世代六人の家族の夕食は賑やかだ。そんな中で、手元には読みかけの本を広げ、目は活字を追いながら、子供はもくもくと食事を口に運んでいる。どんなに注意されても叱られても、本から目をはなすことができない。その子は、今、ゴルゴダの丘にいるのだ。ベイカー街に、天山山脈に、アヴォンリーに、別世界に、心は翔んで行ってしまっているのだ。

 今も私は本を読む。
 招かれ、目の前に開かれた未踏の世界に遊ぶ、あの、至福の時が訪れることを願って。

 そうなんだ、そうなんだよ! いまの子どもたちにこの「飢え」の感覚がわかってもらえるかどうかは、ぼくにはわかりません。あるいはこの飽食の現代、とうにそんな「飢え」など克服されてしまったのかもしれない。子どもたちはもう、有り余る物語を与えられて飽き飽きしてすらいるのかもしれない。

 でも、まあ、こういう子どもは時代に関係なく一定の割合で生まれてくるものだ、という気もするのですよね。本のなかにしか「ほんとうの世界」を見つけられないいびつな魂の子どもたち。

 だから、ぼくは、いったん好きになると、本当の意味で冷静に距離を保って作品世界を眺める、などということはできません。物語のなかに徹底的に没入してしまう。その意味で、ぼくは批評家だの評論家だのといったものには全くなれない人種なんだろうと思いますね。

 まあ、わかるひとには言わなくてもわかる、わからないひとには、どう説明してもわからない、という話ではあります。たかが物語、たかがフィクション、つくりごと、と割り切った上で楽しむひとのほうが、正常かもしれないし、イタくないのかもしれないけれど、でも、ぼくにはこういう楽しみ方しかできない。

 中二病といわれようとなんだろうと、「その世界」はいまもぼくを惹く。わからないひとにはわからない――しかし、わかるひとにはたしかにわかるはずの感覚。真世界を求めてやまないほの暗い情念。そういう意味で、ぼくはどうしても「ライトオタク」にはなれないのかもしれませんね。重くて痛いオヤジなのです。