萌え萌えになれない。


 以前から書きたいと思っていたことなのだが、どうにもうまくまとまらないので、つらつらと書き連ねてみることにしよう。オタクと疎外感の話。

 先日読みあげた『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』に、オタク第四世代の特徴は「素直」だということだ、と書いてあった。かれらはとにかく素直で屈託がない、前世代が持っていたコンプレックスやルサンチマンをまったく持っていないのだ、と。

 じっさい、それは当然のことに思える。ニコニコ動画が会員数一千万を超えたいま、オタクだろうが腐女子だろうが、ごく一般的な趣味だ。ある意味ではオタク趣味は「普通」になった、ということもできるだろう。そしてそれはたぶんいいことだと思う。

 ぼくは上の世代の、また同世代の屈折と韜晦がろくでもない結末に繋がるところを見ているから、なおさらそう思う。しかし、その一方で、一種の疎外感を感じることも事実だ。オタクがどれほど「普通」になったとしても、結局、ぼくは「普通」じゃないんだよね。ぼくはファンタジーがあって初めて現実を生きることができる人間なのだから。

 ぼくにとってフィクションは、単に楽しいとかおもしろいとかいう以上のものだ。ぼくは全身全霊でもってフィクションに耽溺する。フィクションなしで生きていくことなど考えられもしない。ぼくにとっては虚構こそ真実、それはいかなる意味でも仮初めのつくりごとなどではない。

 よく皮肉交じりに「『CLANNAD』は人生」なんていうけれど、ぼくにとってフィクションはたかが実人生などとは比較にならない。それは世界の真実の破片だと、心から信じている。オタク趣味は普通になった。大変結構。でも、ぼくはやっぱりそういう「普通」の人たちには馴染めないと感じる。

 もちろん、単なる中二病の特権意識に過ぎないかもしれない。しかし、それでもやっぱり、「違う」という感覚はぬぐえない。ぼくは違う、と。みんなで騒ぎながらカジュアルに作品を消費していくのはいいのだが、でも、ぼくは本質的にどうしようもなく暗くて重いひとなんだよなー。

 この疎外感はべつにいま初めて感じるものではなく、学校に通っていた頃はずーっと感じていたものなんだけれど。同じはずのオタクのなかでもやっぱりそういう疎外意識を消せない。ぼくは暗く重たい自意識を手放せない。明るく楽しく萌え萌えに作品を消化しつづけるなんてできない。

 そういう意味では、ぼくはまったく「痛いやつ」なのであって、どうあってもそうでなくなることなどできそうもない。正気になどなれない。冷静になど見れない。適度な距離を置くことなど考えられない。ただひたすら一途に作品に没頭することしかできない。

 良くも悪くも、ぼくはそういう奴なので、『げんしけん』あたりを読んでいると、ここにぼくの居場所はないと感じるんですよね。いくらオタク趣味が普通になっても、ぼく個人のパーソナリティが重たいということはどうしようもないんだよなー。

 などと考える昨今なのでした。