生きのびるための物語――脱ヒロイズムは可能か。


 上野千鶴子『生き延びるための思想 ジェンダー平等の罠』を読んだ。学術的かつ専門的な部分もあり、内容を要約することは容易ではないが、非常に簡単に割りきって言ってしまうと、タイトルの通り、「フェミニズムは生き延びるための思想である。死ぬための思想ではなく、生き延びるための思想こそ、いま必要とされている」といった内容の本であった。

生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

生き延びるための思想―ジェンダー平等の罠

 上野は男たちの「死ぬための思想」、即ちヒロイズムを否定し、「フェミニズムにとって、ヒロイズムは敵である」と言い切る。たとえば、戦争中の英雄たちは上野にとって敵である、英雄を必要とするすべての思想も敵である、ということになる。

 この本を読んで、ヒロイズムや、ヒロイックなエンターテインメントが大好きなぼくは悩んでしまった。果たしてヒロイズムを抜きにしたエンターテインメントが可能なのだろうか、と。

 もちろん、可能ではある。『けいおん!』や『らき☆すた』にヒロイズムはないし、多くの恋愛小説、家庭ドラマなどにも、それは縁がない。だから、ヒロイズムなどなくてもエンターテインメントを描くことは不可能ではない。

 しかし、その一方で、ヒロイズムがエンターテインメントの大きな柱であることもたしかなのだ。よくいわれることだが、日本のアニメやアメリカの映画には暴力が充ちている。すべての作品がそうではむろんないにせよ、それなしでは成立しないほど暴力と密接に結びついていることは事実だろう。

 むろん、それは大抵、「正義の暴力」ではある。たとえば時代劇を見ればいい。そこでは悪人をばったばったと斬り捨てる正義の味方が描かれているはずだ(あんなにたくさん斬り捨ててしまって問題にならないのだろうか、とツッコミを入れた人は多いだろう)。

 しかし、上野はあくまですべての暴力を否定するのである。彼女の思想にヒーローは必要ないのだ。ぼくはこの本を読んで、以前読んだ漫画を思い出した。『国境を駈ける医師イコマ』である。

国境を駆ける医師イコマ 1 (ヤングジャンプコミックス)

国境を駆ける医師イコマ 1 (ヤングジャンプコミックス)

 この物語のなかで、医師である主人公は、ある死にかけた兵士から問いかけられる。お前もいつか女と結婚し、家族を持つことがあるだろう、その家族が不条理な暴力によって奪い去られたらどうする、と。主人公は泣きながら答える。お前と同じだ、銃を手に取り、復讐に出向くだろう、と。

 非常に印象的な場面であったが、上野の思想はこのような主人公を否定するものである。上野はより強力な暴力に抵抗するための暴力、彼女がいうところの「対抗暴力」をも否定しているからだ。

 上野は戦場への女性兵士の参戦も批判するし、弱者の革命(テロリズム)による解決も批判する。彼女にとっては、暴力とはどこまでも「強者の解決法」であり、弱者を追い詰める

 医者であるイコマをして「自分もまた復讐する」といわせたのは、ある種の「男らしさ」、ヒロイズムであろう。上野はそういったヒロイズム全般を否定するのである。ぼくは、全面的にではないが、上野の思想は正しいと感じる。

 ぼくが好むヒロイズムが非日常空間において生命を燃焼させて強者として死ぬ「死ぬための思想」であるとすれば、戦争を拒否するためには「生き延びるための思想」が必要なのだろう、と思うからだ。

 ところで、最近の物語については、LDさんが「脱英雄譚」ということをいっている。そこには「ひとりのヒーローにすべてを依存する解決法の超克」といった意味が内包されているのだと思う。

 しかし、LDさんが称揚する『ネギま!』にせよ、『まおゆう』にせよ、「ヒーローによる暴力的解決」と無縁ではない。それらの物語はヒロイズムと戦闘ロマンティシズムによる解決を部分的に批判するが、それでもそこにはやはりヒーローがおり、ヒロイズムがある。

魔法先生ネギま!(37) (講談社コミックス)

魔法先生ネギま!(37) (講談社コミックス)

 戦闘、ないし戦争を描けば、どうしてもこうなるものなのだろう。「ひとを斬らない時代劇」はやはり不可能なのだろうか。

 ぼくが考える最高のヒロイズム作家に、たとえば司馬遼太郎がいる。司馬の『国盗り物語』だの『燃えよ剣』といった作品には、まさに「死ぬための思想」がある。これらの作品において、主人公は最後には自分の生命を燃えつきさせて死ぬのである。

燃えよ剣(上) (新潮文庫)

燃えよ剣(上) (新潮文庫)

 『あしたのジョー』的、といってもいいような戦士(戦死)のロマン。そこには退屈な日常をひたすらにだらだらと生きることの対局に位置する美学がある。上野がおそらく嫌うであろうこういった作品がぼくは大好きだ。

 これらの作品を超えて、「一切の暴力抜きの戦いの物語」を作ることは可能だろうか。

 たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジは、物語のクライマックスにおいて、戦うことを拒否した。そこには、たしかに一切のヒロイズムはない。どこからどう見ても碇シンジは格好良くはないし、男らしくもない。

新世紀エヴァンゲリオン (1) (カドカワコミックス・エース)

新世紀エヴァンゲリオン (1) (カドカワコミックス・エース)

 かれのような主人公をもってすれば「ヒロイズム抜きのエンターテインメント」は可能かもしれない。しかし、『エヴァ』はエンターテインメントとしてかなりギリギリのところにある作品である。それ以上どこにも行けないという限界を感じさせる物語なのだ。

 『エヴァ』がエンターテインメントとして成立しているのは、それまでシンジが曲がりなりにも戦ってきたからだろう。かれが最初からエヴァに乗らないことを選んでいたら、『エヴァンゲリオン』がいまのような人気を得ていたかどうか疑問だ。

 「男らしさ」の思想であるヒロイズムは、ひとを動員するための思想である。老若男女を問わず、多くのひとはヒロイズムが大好きだ。このヒロイズムを一切抜きにして、カタルシスのある物語を作ることが可能だろうか。

 『ヴィンランド・サガ』の主人公トルフィンは、殺戮の日々を超えて不戦に目覚め、「自分はもう一切戦わない」と言うのだが、そんなかれの前にも様々な暴力的試練は訪れる。今後、かれはどのようにして愛するものを守っていくかという困難と出逢うことだろう。

ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC)

ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC)

 否。本質的には、かれは決して愛するもの、守るべきものを守れないはずである。それが「弱者である」ということだからだ。「戦い」を徹底的に弱者の視点から描いたエンターテインメントは可能だろうか。

 戦争文学や、文芸映画ならいくらでも可能だろうが、エンターテインメントでは不可能なのではないか。しかしいま、必要とされているものは、そういう視点であり、そういう物語であるのかもしれない。『ヴィンランド・サガ』の今後には注目している。

 暴力的解決を捨てて、弱者であることに留まること。それは悲劇と出逢った時、怒りにも憎しみにも身を任せず、悲しみに立ち止まるということである。何と困難なのだろう。

 殴られたら、殴り返す。殺されたら、殺し返す。その「暴力の螺旋」を逃れたものをカタルシスをもって描くことは可能なのか。それは、そもそも物語とは何なのか、という問題に関わる疑問であるはずである。もしぼくに筆力があったなら、自分で書いてみたいものだと思うのだが……。


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