正当な罵倒など存在しない。


 著書『電子書籍の衝撃』などで有名な佐々木俊尚さんが、何やらバトっていたらしい、という話を聴く。ぼくは直接にやり取りを見ていたわけではないので、その事についてどうこうつもりはない。ここ(http://d.hatena.ne.jp/tsunmatsu/20120207)によると、

 キュレーターとしても有名な佐々木俊尚さんが、Twitter広告業界っぽい人たちから誹謗中傷を受けて(てかただの嫌がらせの悪口)、怒った佐々木さんがその人たちの勤めている会社名とか探し出して暴露するという反撃に出て、誹謗中傷していた人たちが敗走している(今のところ)ってな感じです。

 ということらしいが、本当なのかどうかもわからない。しかし、じっさいに誹謗中傷されたのなら、佐々木さんが怒るのも当然だろう。名誉を傷つけられたら怒ることはひととしては自然な対応だ。

 何といわれても冷静にいなすことが「大人の態度」だ、という意見もあるだろうが、ぼくはそうは思わない。むろん、あえて怒らないひともいるだろうが、怒ることが子供じみたことだとは思わない。罵倒を軽く考えるひとは、ひとの誇りについても軽く考えているのではないか。

 思うに、どうもネットには有名人に対しては何を言ってもいいのだという文化があるようだ。知名度が上がるほどに当然の人権が奪われてゆく。それがまかり通るようなら有名になることに何の価値も見いだせなくなるわけで、これはネットが抱える最大の問題だと思う。

 それにしても、ひとはなぜ他者を罵倒するのだろうか。「中傷されるのを恐れている人が他人を中傷する。効果があると思い込んでいるからだ。」(森博嗣数奇にして模型』)という話もあるが、それだけでもないだろう。

 あきらかに、ひとは自分の感情のはけ口として他者を利用しているのである。この場合、ネットは「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶための穴なのだ。その穴が決して虚空に繋がっているわけではなく、発した言葉が大勢のひとの耳目に晒されてしまうのも伝説と同じ。

 どうせ責任を取る必要はないのだからと無邪気に言葉を用いれば、ひとを傷つける。断言しよう。正当性のある罵倒など存在しない。すべての罵倒表現は、その必要がないにもかかわらず用いられている。

 ひとが罵倒表現を用いる時、そこで表されているのはその人自身の短気さや不寛容さであり、決して罵倒された相手の欠点ではないのだ。ひとはだれかを罵倒する時、相手を侮辱しているつもりで、自分自身を侮辱していることになる。自分はひとを罵倒するような人間だ、と大声でふれ回っているのと同じだからである。

 いや、そうはいっても、とあなたはいうかもしれない。世の中には想像を絶するような愚者や悪人がおり、そういう人間に対しては罵倒することも必要ではないか、と。

 違う。ひとをいくら罵倒したところで、あきらかにポジティヴな効果はなく、自分自身が多少すっきりするだけなのだから、やはり「正当性のある罵倒」は幻想なのだ。

 もちろん、ひとはすべての悪を正当化できる。悪魔のようなアウシュヴィッツの管理人たちも、自分が冷酷な大量殺人鬼だとは思ってもいなかっただろう。だから、ひとを罵倒する人間も、悪いことをしているとは全く思っていなかったはずである。

 かれらは、相手が悪い、だから罵倒されて当然だ、という免罪符を自分に対して発行している。そこにあるものは、限りない自己肯定であり、無反省だ。どこまで行っても「相手が悪いのだから」自分は悪くない、という理屈ばかりがあり、「でも、あんな言葉遣いを使う必要はなかったかも」という反省には至らない。

 罵倒者の心のなかで、自分はあくまで批判し、叱責し、反省を求める側であり、自分自身が反省する必要があるなどという考えは彼の心のなかには浮かばないものなのだ。

 だが、繰り返すが、じっさいどんなに相手が悪いとしても、だから罵倒を用いる必要性がある、ということにはならない。批判したいなら批判すれば良い。が、罵倒は話がべつだ。

 ただ批判すべき内容があるというだけなら、口汚く罵る必要はないのだ。あくまで、罵倒表現を用いることはその人の感情の問題なのである。論理的正当性など求めるべくもない。

 スマイリー・キクチ『突然、僕は殺人犯にされた』という本がある。芸能人スマイリー・キクチはあるときから「殺人犯」として、ネットで誹謗中傷を受け続けてきたのだという。それはひどい罵倒の言葉がスマイリー・キクチに対して浴びせかけられた。

 ところが、じっさいに「犯人」たちが捕まってみると、「ごく平凡な主婦やサラリーマンだった」らしい。ネットでひとを罵倒して悦に入っているのは決して特別な人種ではなく、「ごく普通の人たち」であることがわかる。

 そういう「普通の人たち」もまた、自己正当化の機会さえ与えられれば、いくらでもひとに汚い言葉を浴びせることができるのだ。

 かれらを駆り立てたものは何か。あえて言おう。それは「正義」なのではないだろうか。「義憤」と言い換えても良い。凶悪な殺人犯が野に放たれて平然と芸能人などをやっている。許せない!という思い。その怒りの感情がかれらを罵倒へと駆り立てていったに違いない。

 それはある意味では正当な思いである。被害者のスマイリー・キクチにしてみればたまらないが、少なくとも加害者たちのなかでは完全に正当化された感情であっただろう。だって、凶悪な殺人犯なのだ。許せないではないか?

 もちろん、じっさいにはスマイリー・キクチは悪魔的な殺人犯などではなく、意味不明な中傷を受けた非力な一個人であるに過ぎないのだが、この場合、ぼくが取り上げたいと思うのは、その点ではない。

 仮にスマイリー・キクチに本当に問題があったとしても、だから罵倒が正当化される、ということにはならない、という話をしたいのである。相手が悪だったら、愚だったら、いくらでも石を投げつけても良い、という理屈には、恐ろしいものがある。

 悪だの愚だのということは、結局、客観的に測れることではなく、主観的な思い込みのなかにのみあることなのだから、それはじっさいには「自分が悪だと思ったものにはいくらでも罵倒しても良い」ということにしかならないと思うのだ。

 伊坂幸太郎の『魔王』だったかで、ムッソリーニの愛人の話があった。こんな話だ。第二次大戦の終わり頃、極悪人のファシストとして、ムッソリーニとその愛人は処刑され、吊るされる。

 その時、ムッソリーニの愛人のスカートがめくれてしまい、観衆は喜ぶ。しかし、ある人物が轟々たる非難を受けながらスカートを縛ってめくれないようにした、と。

 この話は「集団で同じ心理に誘導される恐ろしさ」と「それに抵抗する勇気」を描いているのだと思うが、「悪」に対する礼節、というものを考えさせないこともない。相手が「悪」であり、決して許せない存在であるとき、どのような態度を取ったら良いのか、という問題。

 「悪」が相手なのだから、こちらも好き勝手に罵倒しなければならない、と考えることは簡単だ。そしてじっさい、多くの人がそのように考えているように思う。だが、それは結局、自分自身を甘やかしているだけなのではないか。ただ易きに流れているだけなのでは。

 現代日本では、たとえば東電が最大の悪役である。しかし、ぼくは東電に対する悪罵も許容したくない。たとえ東電がどれほど醜悪な組織であるとしても、だから自分自身も醜悪になって良い、ということにはならない。相手がある種の「悪」であるからこそ、こちらはそれと同じレベルに堕ちないよう注意することが必要なのだ。

 むろん、ネットでひとを罵倒したところで、だれもあなたを咎められない。匿名というフィルターに守られて、あなたはどこまでも安全である(法的に犯罪にあたるレベルにまで達しなければ、の話だが)。だから、罵倒を止めることは、あなたの品性の問題なのだ。

 正当性のある罵倒など存在しない。あたりまえといえば、あたりまえの話だ。しかし、思い切り罵倒したくなるような相手がいることは当然のこと。そこで、感情の促すままに言葉を発することを抑えることができるかどうかが、ひとの品性の差として表れる。

 深淵を覗く時、深淵もまたお前を覗き返している、と哲学者は言った。怪物を眺める時は、自分自身が怪物になってしまわないように注意することが必要なのである。それを怠れば、次の瞬間には、あなた自身があなたが憎む存在そのものとなっていることだろう。


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