恋人もいなければ結婚の予定もない、それでもぼくの人生がハッピーな理由。


 一年の初めに、幸せについて話をしようと思う。ぼくたちはふだん真面目な顔をして幸せのことを語ったりしない。そういうことは少しばかり気恥ずかしいと思っている。そうだろう? でも、今日は新しい一年が生まれた神聖な日。いくらか襟を正して話をしてみてもいいはずだ。

 それにしても、いまの日本で「幸せ」のことを語るのは何だかためらわれる。それだけ、社会全体が閉塞感に包まれ、誰もが出口を見失って走っているように思える。ぼくたちはいま、「幸せ」よりも「不幸」のことを実感をもって語れるように考えがちだ。しかし、だからこそ「幸せ」には語るだけの価値がある。そう思う。

 ひとが「幸せ」を実感するのはどんな時だろう? それはおそらく、何かしらの望みが叶った時だろう。欲望が満たされた時、と言い換えてもいい。長年望み続けたことが現実になった時、ひとは魂の充足を感じるものだ。

 より一般的な「幸福」のイメージとしては、多少俗っぽくはあるが、たとえば恋人と初めてキスした時、あるいは宝くじがあたった時などではないだろうか。これらは万人が認める「幸福」の輪郭だといえるかもしれない。たしかにこれらはめったに経験しがたいことで、しかも具体的だ。だから、これらのことはきわめてはっきりとした「幸福のかたち」といえる。

 しかし、どうだろう? だからといって、これらの経験以外に幸福が存在しないということにもならないのではないか。そう、もちろん、幸福のかたちは多様だ。結婚して子どもに恵まれることはたしかにひとつの大きな幸せかもしれない。だが、そういう人生でなければ幸せではないということにはならないだろう。

 ぼくはいまのところ結婚する予定もないし、まして子どもに恵まれる可能性はさらさらないが、しかし、自分はおおむね幸福だと思っている。もちろん、何もかも満足だというわけではない。あるいは、愛する恋人がいたら人生の満足度はもっと高かったかもしれない。だが、そう何もかもうまくいくというわけにはいかないものだ。与えられたものだけで満足することこそ、幸福の法則ではないだろうか?

 そう、ぼくは満足だ。自分は十分に多くのものを与えられたと思っている。たしかに、外側から見ればみすぼらしい人生かもしれない。それでも、満足なのだ。なぜなら、ぼくには幾多の物語との出逢いがあったのだから。

 物語――それこそ、ぼくに幸せを与えてくれるものだ。ぼくは、幼い頃から読書が好きな子どもだった。そして、それ以上に「物語」という「幸せのかたち」を好む子どもだったと思う。ある意味では、ぼくは自分の人生の芳醇を噛み締めることによってではなく、他人の人生を味わうことによって幸福を感じる感性を持ち合わせたのだといえる。

 物語。ありとあらゆる形式で綴られる、無数の物語。それらすべてがぼくに幸福を与えてくれた。初めは辛い出来事から逃れる現実逃避であったかもしれない。しかし、そのうち、それはあきらかにそれ以上のものとなっていった。ある物語のなかで躍動し、生きるヒーローたち。かれらの「生」を感じることで、ぼくはたまらない充足を感じることができた。

 魂の慰撫。ひとによってはそれを奇妙と感じるかもしれない。多くのひとにとって、物語とは、自分の人生のかわりにはなりえないものだ。だが、ぼくにとっては違う。ぼくにとっては、まさに、他人の人生こそが自分の人生以上に重要なのだ。それが仮に奇妙であるとしても、かまわない。

 幸せに固有の「かたち」があるという幻想、それが多くの人びとを苦しめているのではないだろうか。ある「かたち」の幸福を体験できなければ、真に幸福にはなれないという思い込み。それがひとを縛っているのでは。ぼくは、そう思う。

 ある一冊の本を紐解き、読み進め、物語のなかに没入し、主人公の活躍に一喜一憂するとき、ぼくは本当に幸せだと思う。あるいは、それを単なる代替行為と見るひともいるだろう。本当の「幸せ」を手に入れられないから、かわりのもので満足することにしているのだ、と。そうではない。そうではなく、ぼくは、自分以外のひとの物語を楽しむことによってのみ、真に安らぎを知ることができる人種なのだ。

 まあ、そういう人間を「オタク」と呼ぶのかもしれないが、しかしぼくはその人種はもっと古くからいるのだと思っている。物語は遥か太古から存在し、それぞれの時代で、人びとの心を癒してきた。故に、物語というかたちの「幸せ」を持つ人びとは、人間知性そのものと同じくらい古い歴史を持っている、と、ぼくはそう信じる。

 しかし、ここでいいたいのは、それこそが本当の「幸せのかたち」だということではない。幸せには、無限の「かたち」があり、どのひとつを取っても、奇妙でないものはない、ということをこそ述べたいのだ。たしかにある「かたち」は一般的であり、べつの「かたち」は奇矯であるように思えるかもしれない。

 とはいえ、あるひとつの「幸せのかたち」を崇め、それだけが唯一の幸福なのだと思い込むことが病的であることは、先に述べたとおりだ。ぼくたちの幸せはどこまでも多彩かつ多様なのだ。あるひとは切手の収集にたまらない歓びを憶え、またあるひとは釣りの追求にしか幸福を感じることができない。そのどのひとつを取って見てみても、不思議でないものはない。

 人間の幸福の不思議さは、人間存在そのものの不思議さだ。どうしてぼくたちはなかなか充たされないのだろう? そして、どうしてそれでいて他愛ないことで充足を感じることができるのだろう? 「幸せ」――青い鳥の話ではないが、それはどこか遠くにあるように思えて、すぐ近くに落ちているものなのかもしれない。

 そうでなければ、どうしてこれほどの物質文明の極みに生きている我々が、未だに幸福の正体を見つけられずにいるなどということがありえるだろう? 具体的な「正体」なるものが存在しないことこそ、幸福の真実なのではないだろうか? だからこう考えてみよう。わたしは幸せだ、と。そう、いくつもの欠落と欠乏を抱えてはいるが、それでもそんなに悪くない人生だったかもしれない、と。

 ぼくの場合、幸福はいつも物語のなかにあった。だから、新しい年が生まれ落ちようとしているいま、新たに本を開いてみようと思う。ページを開くと、たちまち物語が立ち上がる。主人公たちがそこから生まれ、新たな冒険と、活躍と、運命を生き始める。もう目を離すなんてできない。ああ、とぼくは思う。何と幸福なのだろう。面白い物語がここにある。それだけで人生はおおむねOKだ。

 あるいは、あなたの人生はそこまで単純ではないかもしれないが、しかしあなたにもあなただけの「幸せのかたち」があるに違いない。あなたがその「かたち」を見つけられることを祈って、新年第一の記事を終えることにしよう。

 どうか、あなたの人生が幸せでありますように。