ペシミズム。


 まあ、ぼくも大概、ペシミスティックな人間かもしれません。富も栄光も、愛情も、何も信じられない。金メダルも世界チャンピオンも、絶対的な価値があるとは思われない。しょせんみな百年も経てば忘れ去られることではないか――。

 そう、ひとと比べて、競って何かしらの「結果」をのこす。そのことに意味があるとは思えない。いや、この世のすべてのものに何の意味があるとも思えない。この世はやはり夢だと思うし、それも須臾のうちに風に吹かれて崩れてゆくような儚い夢であるに過ぎない。

 悠久のなか、すべてはやがて失われてゆく。だからこそ、その「無意味」を究めること、「いま」というそのどうしようもないむなしさに自分のすべてをささげることが、ぼくにとっての唯一の価値なのだと思う。

 何だかそういうふうに考えてゆくと、あらためて「幸せ」とはほんとうにぼくには手に入らないものなんだな、ということがわかって哀しくなりますね。「いま」に満たされて充足することはぼくにはできないのだなあ、と。それが「闇属性」だってことなんですけれど。

 べつだん、自分が不幸だとは思わない。あたえられるだけのものはあたえられて生きてきた。しかし――それらすべてはやはり無意味なのだと思う。儚すぎる夢なのだと思う。どんなに手に入れても手に入れても数十年で無に帰すさだめではないか。むなしい。何もかもみな、むなしい。

 山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ。そう、「幸福」とは、いつも「山のあなた」にあって、手が届かないものなのだと思う。少なくともぼくにとってはそうだ。

 ぼくはべつだん幸せになりたいと思って生きているわけではないけれど、しかしそれもけっきょくはすっぱい葡萄のたぐいでないとどうしていえるだろう? そう、心疲れ、果てしない歩みに倦んだ時、ひとは「幸福」に憧れる。

 しかし、それはぼくには届かないものなのだ。手に入らないものに過ぎないのだ。まあ、非モテとかの活動にはまったく賛同しないんだけれど、ぼくにもやっぱり一脈通じているところはあって、時々ほんとうに「ああ、いいなあ」と思いますね。しあわせに生きられるひとたちはいいなあ、と。

 トルストイに『光あるうち光のなかを歩め』という作品がありますが、ぼくにとって光はあまりに縁遠いものに思えます。べつだん辛いとか苦しいというわけでもなく、いや辛いし苦しいけれどもそれに特別の意味を見いだしているわけではなく、だからこの世は楽しいところでもいいはずなのだけれど、でもやっぱり何もかもむなしい。すべては時の波濤に崩される砂の城

 それでもぼくはやはり「幸せ」というものに憧れているところがある。決して手に入らないもの、そのようにできているものではあるのだけれど、それでも、ふと手をのばしてみたいと思うことはある。それはまあ、疲れているときなんだけれども。

 ああ、ほんと、「幸せ」なひとたちがうらやましい。ただ、それはどうしようもなくぼくのてのひらには入ってこないようになっているのだ。悲劇の主人公ぶっているのではなく、たしかにそうなのだ。

 そういう意味では、人生、ほんとにしんどいですね。たたかってたたかって、その先に何があるのかといえば、何もない。ぼくはひとりだ。ひとりぼっちだ。くだらない。ただの自己憐憫か。いや、そうじゃない。「ただそうである」というだけのこと。

 ぼくがどれだけ苦しもうが、嘆こうが、そんなことはいかにもくだらない。何もかもばかばかしい。虚無だ。しかし、その虚無にすべてをささげよう。それ以外やるべきことはない。そうでなければいますぐ死んでしまっても同じなのだから。

 ぼくには「幸福」は届かない。ただ、ひょっとしたら、それでも満足して死んでゆくことはできるかもしれない。いやまあ、できないだろうけれど、その可能性を信じる以外に道はない。それだけがぼくが赦されたただ一本の「道」。

 哀しい。

「うーん、幸福って何?」
「またすごい質問だなあ」
「なんだと思うの?」
「そうだなあ、わからないけど、なんとなく、今思ってるものだけどいい?」
「うん、なに?」
「ガラクタ」
「えー、幸福はガラクタなの?」
「気に入らなかったら、違うのもある」
「なに」
「ほら、マンガとかでさあ、馬の頭に釣り竿つけて、先っぽにニンジンつるすでしょ。馬はそれを追いかけてずっと走るって」
「うん」
「あのニンジン」

『CARNIVAL』