『3月のライオン』の差別構造と物語の限界。


 ああ、長い夜だった。というわけで、昨日の夜、かんでさんとLDさんで「物語」の問題について話しあったわけですよ。予想外に盛りあがり、また収穫のある内容となったので、この日記で報告しておきたいと思います。

 そもそもの発端はかんでさんの『3月のライオン』批判です。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1754961239&owner_id=276715

3月のライオン 6 (ヤングアニマルコミックス)

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 ぼくが考えるにその批判の要点は以下の二点、

1.作中のいじめの描写が甘い。ひなたはいじめにあいながら「壊れて」いない。これはいじめの実相を表現しきれていないのではないか。

2.作中では作劇の都合上、いじめっこ側の権利が狭められている。本来、いじめっこ側にも相応の権利があるはずなのだが、それが描写されていない。

 であったと思います。

 これに対して、ぼくは作品を擁護する立場から、以下のように反論しました。

 たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。

 つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。

 で、ここから三者会談(笑)に入るわけですが、話しあってみると、ぼくとLDさんはともに「物語」を好きで、擁護したいという立場に立っていることがわかりました。しかし、LDさんは同時に「物語」には「残酷さ」が伴うともいう。

 ぼくなりにLDさんの言葉を翻訳すると、それはある「視点」で世界を切り取る残酷さなのだと思います。つまり、「物語」とはある現実をただそのままに描くものではない。そうではなく、ひとつの「視点」を設定し、その「視点」から見える景色だけを描くものである、ということ。

 『3月のライオン』でいえば、主に主人公である桐山くんやひなたちゃんの「視点」から物語は描かれるわけです。そうしてぼくたちは、「視点人物」である桐山くんたちに「共感」してゆく。この「視点人物」への「共感」、そこからひきおこされる感動こそが、「物語」の力だといえます。

 しかし、そこには当然、その「視点」からは見えない景色というものが存在するはずです。たとえば、『3月のライオン』のばあいでは、ひなちゃんの正義がクローズアップされる一方で、ひなちゃんをいじめた側の正義、また彼女の話を頭からきこうとしない教師の正義は描写されない。

 これはようするにひとりひとりにそれぞれの正義が存在するという現実を歪め、あるひとつの正義(それは作者自身の正義なのかもしれない)をクローズアップしてそれが唯一の正義であるかのように錯覚させる、ある種のアジテーションであるに過ぎないのではないか。これがかんでさんの批判の本質だと思います。

 LDさんはその批判を受け止めたうえで、その「物語のもつ限界」を「物語の残酷さ」と表現しているわけです。つまり、「物語」とはどこまで行っても「歪んだレンズ」なのであって、世界の真実をそのままに描くものではない、ということはいえるでしょう。

 とはいえ、「世界の真実を比較的そのままに描く物語」というものも存在しえるかもしれません。話のなかでは、それは「芸術」といわれていましたが、ここでは「リアリズム」と呼びたいと思います。

 つまり、俗に「物語」と呼ばれているもののなかには、「世界の真実を比較的歪めずそのままに描くもの=リアリズム」と、「世界の真実をある視点から歪めて読者の共感を誘うもの=物語(エンターテインメント)」が存在するということができます。

 そしてかんでさんは「リアリズム」寄りの立場から、ぼくとLDさんは「物語(エンターテインメント)」よりの立場から話をしました。しかし、もちろん両者とも完全にそれぞれの立場にわかれているわけではありません。ある程度たがいの立場を察し、理解しあうことはできるのです。

 そこで、ぼくは「物語」の「あやうさ」を指摘しました。われわれ日本人には、じっさいにある「物語」に先導され、挙国一致体制で「物語」に殉じた記憶があります。先の大戦がそれです。

 そのとき、「天皇は偉大だ」とか「日本人は優れた民族である」といった「日本人の視点」によって切り取られた「日本の物語」が日本一国を支配したのでした。その物語にともに熱狂しない人間は「非国民」とされ、排斥されました。これこそまさに「物語」がもつあやうさです。

 「物語」はひとを扇動し、熱狂させますが、だからこそひとを非理性的なところへ連れていってしまうのです。「物語」にはひとつの「正義」だけを唯一の正解のように見せてしまう「力」があるのです。

 歪んだレンズを通せば歪んだ世界が見える道理なのですが、その歪んだ世界を真実の世界と錯覚してしまうかもしれないところに「物語」のおそろしさはある。

 しかし、同時に、そうとわかってなお、ぼくやLDさんは「物語」が好きであるわけです。その「歪んだレンズ」に映しだされるふしぎな景色に、それが残酷であり危険であるとしりながらも驚嘆せずにはいられないのです。

 ここらへんは非常に微妙な話になるのですが、世界は「物語」の押し付け合いによってできているという側面があります。たとえばアメリカにはアメリカの「物語」があり、アラブ諸国にはアラブ諸国の「物語」があるように、複数の「視点」があれば複数の「物語」が存在しているものなのです。

 ある程度成熟した知性の持ち主にとって、この「物語の複数並立性」は自明な事実でしょう。したがって、そういう観点を重視するひとはより「リアリズム」的な視座から世界を眺めることを好みます。ぼくにとってはよしながふみがそういう作家であるように思えます。

 よしながふみの作品には、ある「視点」から「世界」を切り取って「物語」を語りつつ(エンターテインメントしつつ)、つねにそれに冷や水をかけ続けるというところがあります。

 そこには「物語」の体現者である「英雄」はいません。『大奥』の徳川吉宗などは、初め「英雄」であるように見えますが、しだいにそうではないことがあきらかになっていきます。よしながふみは彼女をも複数の登場人物のなかのひとりとして冷ややかに描いていくのです。

大奥 7 (ジェッツコミックス)

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 よしながふみは「物語」がもつ「熱狂」に対し非常に慎重な姿勢をとっている作家だといえるでしょう。そういう意味ではとてもシニカルでインテリジェントな作家だといえます。

 ぼくなどはその「熱狂」のなさ、「物語」への没入のなさに、ある種、ものたりないものを感じないこともない。ぼくは「物語」が好きで「熱狂」が好きな人間だからそう思ってしまう。しかし、一方でその「リアリズム」的な描きがとても真摯なものであることも理解できるのです。そして、それがとても時代に即したものであることも。

 現代という時代は、ある意味で「物語」が失われてしまった時代であるといえるでしょう。どんな「物語」、どんな「英雄」も、何かしらシニカルな視点から冷や水がかけられる。わずかな欠点があばきたてられ、冷笑され、嘲弄され、舞台からひきずりおろされる。

 戦後民主主義も経済発展も信じられなくなってしまった「物語なき荒野」。それが現代日本なのだと思うのです。その「物語の失われた世界」でなお「物語」と「英雄」を描きだす困難を綴ったのが、たとえばアニメ『東のエデン』だったと思います。

 そこには「英雄なき時代」にあって新しいかたちの「英雄」を描き出そうとする努力が存在しました。「英雄」とはつまり「物語」を象徴する個人であるとすれば、あらゆる「物語」が失われてしまった時代においてなんとか「物語」を復活させようとする努力がそこにあったのです。

 それは「物語」がもつ「危険さ」、「残酷さ」を十分に理解したうえで、なお「物語」を復権させようとする姿勢であったといってもいいでしょう。なぜ、そこまで「物語」や「英雄」が必要なのか。なぜなら一切の「物語」を否定するということは、すべての価値を否定するということであり、何も行動しないということだからです。

 ひとは何らかの歪み、偏った「物語」、価値、正義を信じこむことによってのみ行動することができる。それが絶対正義でも、唯一の価値でもないということは、ある程度知的な人間にとっては自明だ。たとえば日本にとっての正義がアフリカの某国にとっての悪夢かもしれないということは自明だ。しかし、そうわかってもなお、ひとが行動するためには「物語」が必要なのです。

 それがどれほど「危険」で「残酷」であるとしても。とはいえ、そうはいってもやはりその「熱狂がもつ危険性」を野放しにしておくわけにはいきません。そこで「反物語」「反エンターテインメント」としての「リアリズム」があらためて必要になってきます。

 先ほどよしながふみの名前を挙げましたが、世界的に見れば、この「リアリズム」の作風を代表する作家といえば、現代においてはクリント・イーストウッド監督が挙げられるでしょう。

 イーストウッドは、真にアメリカを愛するがゆえに、「アメリカという物語」を解体しつづけます。『父親たちの星条旗』、『硫黄島からの手紙』『ミリオンダラー・ベイビー』、『グラン・トリノ』といった作品において、かれは「アメリカという物語」のその幻想を解体し、いわば「物語の死骸」を観客に見せつけるのです。

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 当然ながらそこに「英雄」はいません。『グラン・トリノ』に最も象徴的ですが、ここで「英雄」は退場を余儀なくされています。かつて「アメリカン・ヒーロー」そのものであったイーストウッドのこの姿勢には、対立的な「イスラムの物語」を無視し、「正義の戦争」に突き進む同時代のアメリカに対する告発の意図があったと思われます。

 「完全な正義」もなく「絶対的な悪」もなく、「英雄」もいなければ「大悪党」もいない「リアリズム」の世界。そこにはひとつの「物語」に酔って視野を狭めている人びとに対する痛烈な批判が込められています。

 しかし――イーストウッドは、あろうことか、『インビクタス』において、ネルソン・マンデラという「英雄」を主人公に据え、これでもかというほど「物語(エンターテインメント)」的な映画を撮ります。

 イーストウッドは変節したのでしょうか? そうではないでしょう。かれはむしろ「一周」して「物語」に立ち返ったのです。その意味についてはここで詳述する余裕はありませんが、ぼくはその「物語」に、たとえば「スポーツをこれほど政治利用していいのか?」といった疑問を抱きながらも、やはり感動し熱狂しました。

 イーストウッドのキャリアから読み取れることは、「物語」と「リアリズム」は表裏一体だということなのではないかと思います。ひとは「物語」なしでは動くことはできない。しかし、「物語」はひとつの「視点」で世界を切り取る都合上、「主人公」と「わき役」、あるいは「仲間」と「敵」といった二元論的な対立構造を作り出す傾向がある。

 かんでさんがいう「ひと」と「ひとでなし」もそう。「物語」には「視点人物」とその仲間こそ「ひと」であり、そうでないものは「ひとでなし」であると思わせる効果があるのです。ペトロニウスさんがいうところの「善悪二元論」の問題ですね。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100815/p5

 つまり、ひとは「物語」をどうしようもなく必要としながら、しかしその「物語」に「熱狂」することによってひとを「仲間」と「敵」に分け「差別」するものである、ということがいえるわけです。これが「物語」の、というより人間の抱える最大の問題だと思う。

 現代、つまりポストモダン後の世界では、ひとを動員し熱狂させるような「大きな物語」は解体されつくして喪失した、といわれています。これはマルクス主義という巨大で残酷な「物語」がもたらした惨禍に対する反省から来ています。

 つまり、ぼくたちは「物語」が解体されつくした「物語の墓場」に生きている。しかし、当然、すべての「物語」が死んだわけではない。『3月のライオン』に見られる「反いじめ主義」のような「物語」はひとを熱狂させ駆動させます。

 かんでさんがそこに危うさを感じるのはわかるし、また正しくもある。それでは、そのことを踏まえたうえで、「良質な物語」とは何なのか、そこから議論をスタートさせたいところです。近日中にラジオを放送するので、よければ聴いてください。