リアルな物語とはどういうものか。『ぼくらの』と『スロウハイツの神様』を肴に考える。


 あなたは物語に人生を変えられた経験があるだろうか。小説でも、漫画でも、映画でも――あるいは、演劇でも何でもいい、ふとふれてみた何かの物語に、心奪われ、魂を鷲掴みにされ、夢中になって追いかけ、そして深く感動してなみだした、そういう経験があるだろうか。

 もしあるのだとしたら、あなたは既に「こちら側」の人間であるに違いない。現実よりも美しい虚構があることをしり、事実よりも貴重な物語があることを体感した、夢と現実とを分かつ線の「こちら側」の住人。

 あなたはべつだん、幸福ではないかもしれない。いったんふしぎなエーテルがみちみちた〈真世界〉の大気を吸ってしまった以上、あなたはこの現実世界に失望を感じていてもおかしくない。そう、あなたが幸福であるとはだれにもいえない。

 しかし、それでもなお、あなたは幸福以上の価値をしっているはずだ。わたしはそれを〈真実〉であるといいたい。この世の法則を超えた、「そうあるべき」世界の法則。魔法にあふれた〈真世界〉のルール。

 あなたはその輝きに打たれ、まわりのひととは少し違った人生を歩んでいることだろう。世間のひとが夢中になるものは、あなたにとって必ずしも至上の価値を持たない。あなたはもっと大切なものをしっている。もっと綺麗な煌きをしっている。なぜなら、あなたは〈ほんとうの世界〉にふれたのだから。

 これからわたしが紹介する物語は、あなたと同じく〈真世界〉に出逢ってしまったひとりの少女の物語だ。そのタイトルは『スロウハイツの神様』。その少女の名前は赤羽環。

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(下) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(下) (講談社文庫)

 彼女はチヨダ・コーキという名前の作家のファンだった。本当にほんとうに、かれのことが好きだった。これは、その彼女の想いが、奇跡のようにかれに届く、そのプロセスの物語だ。まったくひどいご都合主義の話で、しかし、このうえなくリアルなストーリーだ。

 わたしはこの物語が好きだ。どうしようもなくいとおしい。この物語は、わたしの心を射抜いた。だから、あなたにもぜひ読んでほしい。そう思って、薦めさせてもらう。これは奇跡の物語だ。ばかげた、でたらめな、ありえない、信じられないような奇跡のお伽話。

 こういうお話をくだらないと思うひとは以下の文章は読まなくてもかまわない。しかし、この世はほんとうはでたらめにできていて、ありえないようなこともありえるものなのだ。だから、奇跡を排除した物語は決してリアルではない。つまり、この世界は、部分的にお伽話なのである。

 『スロウハイツの神様』の物語は、猟奇的なファンによって作家チヨダ・コーキの小説を模倣した大量殺人が起こるところから始まる。たちまち巻き起こるチヨダ・コーキバッシング。あらゆるマスコミがかれを糾弾し、その不見識をあげつらう。

 しかし、あるとき、ある新聞記事をきっかけにそのバッシングはやむ。「コーキの天使」と名付けられた少女からの百二十八通もの手紙。チヨダ・コーキの作品の素晴らしさを切々と説いたその手紙が、書けなくなった作家を復活させるのだ。

 そして、それから10年。チヨダ・コーキは〈スロウハイツ〉という名のアパートで、クリエイターを目ざす仲間たちといっしょに幸福に暮らしていた。〈スロウハイツ〉を主催するのは、売れっ子脚本家、赤羽環。彼女もまたコーキの熱烈なファンだった。

 このスタート地点から、作者は巧みなテクニックを用いてスマートな物語を構築してゆく。だれもがクリエイターを目ざし、その「業」のために苦しむ〈スロウハイツ〉で、人びとはときに前進し、ときに後退しながら、ゆっくり、ゆっくりと変わってゆく。

 くり返す。これは奇跡の物語だ。ありえない、できすぎた、リアリティを台無しにしかねないような奇跡が、しかしほんとうにありえるのだと、そう高らかに歌い上げた物語だ。わたしはこの物語が好きだ。あらゆる物語のなかでも、最高の評価をあたえる。

 おそらく、この作品の欠点を暴き立てることはたやすいだろう。決して完璧な作品ではない。作家の技術は素晴らしいが、あきらかに彼女はこの作品のなかでやりすぎている。技術に溺れている。ようするに、何かが過剰なのだ。

 しかし、過剰でない作品になど魅力があるだろうか? よくできただけの秀作に心奪われるものなどいるだろうか? 完璧はスタート地点でしかない。そこからどれだけ飛躍できるかがアーティストの勝負なのだ。わたしは同時期に鬼頭莫宏の『ぼくらの』も読んだ。

ぼくらの 1 (IKKI COMIX)

ぼくらの 1 (IKKI COMIX)

 こちらは、ある夏、15人の少年少女があるロボットを発見し、搭乗するところから始まる。そして、実はそのロボット〈ジアース〉がパイロットの生命を動力源にして動いていることが明かされ、少年少女はひとり、またひとりと死んでゆく、そういう話だ。

 鬼頭のストーリーテリングは実に「リアル」である。そしてまた実に「正しい」。この世の法則、絶対のグランドルールをきわめてよく把握してそれに沿って物語を構築している印象を受ける。

 わたしのいっていることがわかるだろうか。わたしは罪もない子供が理由もなく死んでゆくことは「正しい」といっているのだ。なぜなら、それがこの世界の現実だからだ。それはこの世界でいまも、数秒にいちどたしかに起こっていることを戯画化して見せているに過ぎない。

 その意味で、『ぼくらの』は、とても誠実な物語だ。そしてこの物語の登場人物は、だれもみな聡明で、自分の運命をよくわきまえている。奇跡が起こらないこと、あるひとが生きることはべつの何ものかのいのちを犠牲にすることであることを、非常につよく理解している。

 あるひとの生は、だれかの生を踏みにじることによってのみ成り立つ。これは、この世界の紛れもない〈真実〉、変えられないグランドルールである。物語はこのグランドルールに従って進み、終わる。意外なことは何も起こらない。ある意味では予定調和である。

 しかし、わたしはべつだん、『ぼくらの』に失望は感じなかった。ただ、そうだよな、とうなずいただけだ。そうだよな、世界ってそうだよな、人間ってそうだよな、国家ってそうだよな、社会ってそうだよな、と。鬼頭はこの物語を通して「物語批判」を敢行する。わたしはそれにもうなずいた。

 すべて物語というものには差別構造がある。ある人物を「主人公」としてクローズアップし、特権化し、その人物の悲劇を人類最大の悲劇であるかのように描くというどうしようもない欺瞞の構造。

 その構造そのものを鬼頭は批判する。それはリアルではない、物語のなかで端役としてどうでもいいように死んでいくだれそれにも、実は何十年かの人生があり、かれが死ねば泣き叫ぶ家族があるのだと、そう告発する。もっと想像力を働かせろ、物語が切り取っている部分が世界のすべてではないのだと、そう思い知れ、と。

 あまりにも「正しい」告発である。わたしはうなずくことしかできない。その通りだからだ。しかし、同時に、人間は「愛という名の差別」から自由になることはできないこともまた事実なのだ。

 わたしたちは物語を通してその登場人物に愛着を感じ、その人物を「特別」にしてしまう。ほかのどうでもいい脇役、端役に比べ格段に重要ないのちだと錯覚してしまう。決してそうではないはずなのだと、理屈ではそうしりながら。

 物語にひそむ、この「愛」、この「差別」は、本質的にどうしようもないものだ。どれほど批判されても、わたしたちはこの構造から抜け出すことはできない。これは人間の「愛」の限界でもある。わたしたちは、物語的に理解できない百万人の死より、物語として理解できるひとりの死のほうを哀しむ生きものだ。わたしたちは物語を通してしか世界を把握できない。

 そして――『スロウハイツの神様』は、『ぼくらの』とは対照的に、物語を称揚する。物語の魅力、その迫力、ひとを天上にまで導くその圧倒的な力の賛歌をうたい上げる。物語は素晴らしい。それはひとの人生をも変える力をもっている、ほんとうに素晴らしくまたうつくしいものなのだ、と語りあげる。

 そして辻村はそれをひとつの物語のかたちで表そうとする。この物語の最終章のもつ怒涛の迫力はどうだろう。わたしは思う。あまりにも不自然だ、こんなことがあるはずはない、と。しかし、その一方で、わたしはまた思う。これこそ世界だ。このようにありえないことがじっさいに起こる場所、それが世界なのだ、と。

 そうだ、ご都合主義かもしれない。やりすぎかもしれない。何かが過剰で、しかもべつの何かが過少であるのかもしれない。しかし――しかしそれでもなお、この物語は、わたしの心を打つ。ここで語られているものは、ある人間が生み出した物語が、ほかの人間の心を捉え、その人生を変えてしまうことはありえる、奇跡は起こる、という信仰だ。

 その奇跡の瞬間、灰いろの生は輝きを取り戻し、彩りを増し、信じられないようなうつくしさでわたしたちを圧倒する。それをまえにして、わたしたちは思うのだ。ああ、生きていて良かった。生まれてきて良かった。

 この世界は暗黒かもしれない。人間の宿命は絶望かもしれない。それでも、ここに一冊の本がある。一篇の物語がある。それははるか遠く、わたしをしらず、しろうとも思わないだれかが、それでもわたしに向けて放擲したメッセージボトルだ。それは長い長い旅の末、ついにわたしに届き、そしてわたしの生を変えた。

 ああ、それはなんて素晴らしいことなのだろう。その「エウレカ!」の瞬間、わたしの世界は黄金の光に包まれる。エウレカ! わたしは見つけた。わたしはついに見付け出したのだ。生きる理由を。それは一作の、ただおもしろいだけの物語だ。しかし、その物語があるだけで、この世界の地獄のすべては許せる。

 愛しているよ、とわたしは思う。この世界を愛しているよ。どうして愛さずにいられるだろう。このような物語を生み出したその母なる世界を。この物語が生まれえたというだけで、すべての悲惨、すべての苦しみは許される。それほどに、わたしはこの物語を愛している。

 ばかげていると思われるだろうか。しかし、これはわたしにとっての真実だ。そして、『スロウハイツの神様』で記されている者は、まさにこの種の信仰なのだ。『スロウハイツの神様』は物語賛歌の物語だ。ある物語がひとりの人間の人生を変え、救い、許し、そして未来への希望をもあたえるという、そういう信仰の書だ。

 あなたは笑うかもしれない。しょせんお話はお話だと。現実と虚構の区別をつけ、現実世界での充実を手にいれることこそが、おとなになることなのだと。そうだろうか。そう思うのだとすれば、あなたは「向こう側」の人間だ。

 『スロウハイツの神様』は語る。奇跡は起こるのだと。この悲惨な、苦しみと哀しみにみちた修羅の地獄のような世界でなお、ひととひとの心が通じ合うという奇跡は起こりえるのであり、だからこそこの世界は生きるに値するのだと。

 ああ、どこからか歌声がきこえる。物語というものの、その聖なるちからをうたい上げる歌声が。わたしはそれに惹かれ、ここまで生きてきた。奇跡は起こる。それはわたしの信仰だ。どんなに世界が苦しくても、奇跡を望むことがどれほどばかげた挑戦であっても、それでもわたしは奇跡を望む。それがわたしの信じる道なのである。

 そのむかし、わたしは数々の物語からその信仰を植えつけられ、そしてきょうまで生きてきた。わたしは信じる。物語は世界を変えられると、ひととひとの絶望的に遠い心が、それでも通じ合うという奇跡は起こり得るのだと信じる。わたしは物語を愛している。だから信じる。

 わたしは、信じる。