荒木飛呂彦の抽象と具象。

ウルトラジャンプ 2011年 05月号 [雑誌]

ウルトラジャンプ 2011年 05月号 [雑誌]

 今月号の『ウルトラジャンプ』で、荒木飛呂彦スティール・ボール・ラン』が遂に完結した。詳細はネタバレになるから書かないが、六年以上に及ぶ連載を締めくくるにふさわしい荘厳な最終回だったといっていいだろう。

 そうして驚くべきことに来月号から『ジョジョの奇妙な冒険』の第八部として新作『ジョジョリオン』が連載開始するという。おそらく『スティール・ボール・ラン』が終わったあとはしばらく休むだろうと思っていたので、嬉しい驚きである。物語の舞台となるのは第四部に登場したあの杜王町! いったい今度はどんな物語が繰り広げられるのか、素直に楽しみだ。

 それにしても、ぼくたちは『スティール・ボール・ラン』という作品を、どう評価するべきだろうか? ぼくは歴代『ジョジョ』のなかでも最高の傑作シリーズだったと感じているのだが、批判的な意見も多いだろう。

 その理由は、特に後半、物語が高度に抽象化したところにあると思う。そもそも『スティール・ボール・ラン』の意味は、シリーズを重ねるうちに複雑化した『ジョジョ』の物語を、シンプルなレースというかたちに落としこむことにあっただろう。

 しかし、話が展開するうちに、『スティール・ボール・ラン』は非常に抽象的なアイディアをたくさん盛りこむようになった。ジョニィたちが探し求める「遺体」を初めとして、「漆黒の意思」であるとか、「ナプキンを採る権利」といったきわめて抽象度が高い思想が語られる展開は、常識的なバトル漫画からはかけ離れていた。

 その抽象的な思想が一般の読者にどこまで受け入れられたのか、ちょっと心配である。比較するのも何だけれど、たとえば『バクマン。』あたりはどこまでも具象的な話なんだよね。あの作品で問題にされるものはどこまでも現実の価値である。

バクマン。 1 (ジャンプコミックス)

バクマン。 1 (ジャンプコミックス)

 これは大場つぐみの作風だと思う。小畑健はともかく、大場つぐみというひとは、どこまでもリアリズムの作家なのだろう。かれが問題にするものは現実的な勝利、あるいは敗北であって、精神のありようがどうこうという抽象的な話は見当たらない。

 もちろん、だからこそ『DEATH NOTE』のようなシビアな作品を生み出せたのだとは思うが、いかにも物足りなく感じることも事実。そこには「哲学」がないのだ。ただし、あまりに抽象化してしまうと、今度はエンターテインメントとして苦しくなる。

 たとえば田中ユタカの作品などは、年々、抽象的になっていく一方だと思う。『愛人』の段階で既に漆黒をコマ割りしただけのページがあったりして、相当抽象思考をそのままに提示している印象を受けたものだが、『ミミア姫』ではその傾向がさらに進行している。

 いくら熱心に読み進めていっても、物語のなかで何が起こっているのか、その具体的なところがよくわからないのだ。もちろん、それでもなお、『ミミア姫』は心打つ物語に仕上がっているのだが、一般的なわかりやすさという意味では、相当に辛いところまで来ていたと思う。

 その点、『スティール・ボール・ラン』は、抽象と具象がぎりぎりのところでバランスを保っている印象を受ける。物語を最後まで読んで、結局、「遺体」とは何だったのか、具体的にどんな力を持っていたのかと疑問を感じた読者も少なくないに違いない。

 しかし、荒木飛呂彦はあえてそのことを語ることをしない。「遺体」とは具体的な存在であるのと同時に、象徴的な存在でもあるのである。それが何を象徴しているかは、読者が読み解いていくべきということなのだろう。

 そこを読者に任せてしまうことは、少年漫画として、エンターテインメントとして、かなりぎりぎりの方法論だと思うが、しかし、だからこそ『スティール・ボール・ラン』は単純な早撃ち勝負に似た漫画にない深みをたたえていることも事実である。

 次回作『ジョジョリオン』がさらなる抽象に向かうか、それとも具象に立ち戻るか、この不世出の天才作家がいままたどこへ向かおうとしているのか、一読者はただ、楽しみに待つのみだ。