『刃牙』と『修羅の門』、『バガボンド』の共通点と相違点。


 LDさんが最新記事で、ぼくの文章を引用しつつ、『範馬刃牙』について語っている。これがおもしろかったので、ぼくも『範馬刃牙』や『修羅の門』を初めとするバトルものの話を書いてみようと思う。ちょっと長くなるが、LDさんの文章を引用させてもらう。

 僕なりに言葉を変えて述べると『修羅の門』は最強という“哲学”を語っていると思うんですよね。対して『刃牙』は“実際”を語っているのでしょう。紙面の関係から『刃牙』側の言い分の方だけ、試みに語ってみますが、『修羅の門』はたとえば「ただ人を殺すだけならば、マシンガンを持った方が早い」と言ったセリフを放ち、その目指す頂を、形の無いもの、形而上的な“哲学”のものに変えています。
 それが何を意味するか、いろんな言い方があるんですが、ここでは「それによってカッコ良さが保たれる」と言いましょうか。銃や軍隊には勝てない事を認める事によって、ある種の真摯さとか、真面目さ…のようなものを得ていると思います。(まあ『修羅の門』でもくすりっとする場面がないとは言わないんですが、それは置いておくとして…)そう『修羅の門』はカッコいいのです(`・ω・´)

 対すると『刃牙』はカッコ悪い…のかもしれない(汗)でも、何だろうと“実際”に「何よりも強く」ないと気が済まない物語なんですよね。銃より弱い事を認めてそれでも最強を目指す…なんて話は『刃牙』からすると禅問答のようなものじゃないかと思いますw「…いや、なろうよ!銃よりもバズーカよりも強く!」…みたいなw
 結果、滑稽だったり、カッコ悪かったりしても、そんな事は気にしない。むしろ、望むところw…多分、この物語は勇次郎が「核兵器には負けてしまう」事に忸怩たる思いがあると思うんですよね。正確に言うと「範馬勇次郎は、核兵器だろうと敵ではない!」と言い切る情念に達しない事に残念があると言うか。
 その悔しさに比べたら、アメリカ合衆国が、範馬勇次郎に忠誠を誓っているのも、勇次郎が落雷にあっても全く平気で立ち去って行くのも、何ほどの事もないw結果、そういう様々な「何よりも強く」あろうとする無茶さが一周してギャグの領域に入ってしまっているのが『刃牙』シリーズの実相という面はあると思います。
 …こういうと何か悪口のように取られる事もあるんですけど、そんなつもりも無くって、なんでそんな事になっているのか?と考えた時に『刃牙』大テーマである「最強」を求めすぎて一周してしまったからと分かるのは、なかなか『愉しい』ものです。

 『グラップラー刃牙』、『バキ』、『範馬刃牙』と「刃牙サーガ」は続いているわけだけれど、いうまでもなくこのシリーズの最大のキャラクターは「オーガ」「地上最強の生物」こと範馬勇次郎である。

 主人公刃牙の父親で、物語上のラスボスポジションにいるものの、あまりに強く設定しすぎてしまってもはやどうやって刃牙に勝たせていいものかわからない超存在と化している。

 『北斗の拳』の拳王ラオウとか、『ダイの大冒険』の大魔王バーンとか、あまりにも強すぎるラスボスキャラはほかにもいるわけだが、これらの作品では主人公もそれなりの「格」を持っていたため、最終的には主人公によって打倒されるキャラクターとして描くことができた。

 ところが我らが刃牙はどう考えても勇次郎に比肩する「格」を持っていない。たしかに地上最強候補のひとりではあるのだが、文句なしに地上最強の勇次郎と比べると、いかにも小物である。

 来週の『チャンピオン』から、遂に! ようやく! 刃牙対勇次郎戦が始まるようなのだが、どう考えても刃牙が勝つようには思えない。いったいどうするつもりなの板垣先生?と全読者が考えていると思う。いや、ほんと、どうするつもりなんでしょうね。

 そもそもなぜ『刃牙』はこんなことになってしまったのだろうか。いうまでもない。「最強」という幻想をどこまでも真摯に追い求めた、これはその必然的な結果なのである。

 「最強」。『刃牙』の作中では男ならだれもがそれを追い求める、と明言されている(そんなことはないと思うが)。しかし、ちょっと考えてみればこの概念が実体のないものであることはだれにでもわかる。

 まず、どんなに強い人間でも、マシンガンやジェット戦闘機には勝てない。仮に勝てるとしても、どうやって「最強」を決めるのかわからない。世界中の人間すべてとたたかって決めるのか? どんなに勝ち抜いてもどこかでまた新たな強者が生まれているかもしれないではないか? それに、どんなに強い人間でも弱みをつかれれば敗北する可能性はある。「最強」などという実体は存在し得ないのだ。

 やはり傑作ではあるものの内容的な方向性が『刃牙』とは全く違う『修羅の門』では、そのことがしっかりとわきまえられている。主人公陸奥九十九はことあるごとにそのことについてふれ、それでもなお「最強」を追い求める自分を「バカ」であるという。

 『修羅の門』は結局「バカ比べ漫画」であって、より「バカ」であるほうが、つまり想いが純粋であるほうが最後には勝つ。そこには「最強」概念を抽象的な次元に昇華したが故の「哲学」がある。

 しかし、『刃牙』においては、「最強」とは具体的、現実的な存在である。したがって、そこに「哲学」なり「ロマン」の介在する余地はない。最終的には、ただ、より腕力が強いほうが勝つ。それだけの世界となっている。だからこそ、刃牙が勇次郎に勝つヴィジョンが見えないのだ。

 『修羅の門』がロマンティシズムの物語で、『刃牙』がリアリズムの物語だというのはそういうことである。

 もし『刃牙』が「ギャグ漫画」的であるとすれば、それは作中の描写が荒唐無稽だから、ではない。ただ荒唐無稽というなら『ドラゴンボール』のほうがもっと凄いはずだ。そうではなく、『刃牙』に滑稽さがただようのは、「最強」という概念そのものが実は滑稽なことだからである。

 その概念を真摯に追求すればするほど、物語は滑稽にならざるをえないのだ。そこにあるものは、本来、幻想でしかありえないものを、現実的に描写することの滑稽さなのである。

 『ドラゴンボール』はたしかに「天下一武道会」を開き、「最強幻想」を追い求めた。しかし、『ドラゴンボール』においては「最強」は常に更新される概念であった。あるときは孫悟空が、あるときはピッコロ大王が、あるときはベジータが、またあるときはフリーザが最強なのである。だから、ある固有のキャラクターが圧倒的な最強を発揮することの滑稽さはそこでは回避されていた。

 しかもこの漫画は最後にはミスター・サタンという「最弱にして最強」のキャラクターを登場させ、「最強幻想」を脱皮する。だから『ドラゴンボール』は「ギャグ漫画」にはならなかった(それでも最後の辺りはかなり危なかったが)。

 しかし、『刃牙』は違う。『刃牙』はどこまでも真剣に、具体的に、しかも現代日本を舞台に「最強」を描きつづける。それが「ギャグ漫画」にいたってしまうのは、たぶん必然であっただろう。

 ここでぼくが思い出すのが、吉川英治の国民文学『宮本武蔵』と、山本周五郎の「よじょう」という短編である。後者はある意味、『宮本武蔵』のアンチテーゼとして書かれた作品で、ここでの武蔵は滑稽なほど肩肘張った男として描かれている。

 常に復讐を恐れ、見栄を張り、立派な大人物を演じることに疲れている、そういうつまらない男。山本はこの作品を通して「最強幻想」を、その滑稽さを風刺してみせたのだろう。山本の綺羅星の如き短編群のなかでも、指折りの傑作といわれる所以である。

 しかし、どうだろう。なるほど、「よじょう」の思想は大人だし、文学だし、成熟している。ひとつ『宮本武蔵』のみならず、『宮本武蔵』が象徴する日本社会そのものに対する批判的視点、風刺がそこにはある。

 しかし、果たして「よじょう」のように成熟した視点を前にして、滑稽な「最強幻想」は無意味だろうか。それはけっきょく、単なる幼稚さの表出に過ぎないのだろうか。そうではないと思うのだ。

 ここでぼくが思い出すのが、山田風太郎忍法帖、特に『魔界転生』である。『魔界転生』は宮本武蔵天草四郎を初めとする剣客たちが「忍法魔界転生」によってよみがえって柳生十兵衛と死闘を繰り広げるという物語である。

 つまり、時代を超えた架空の「最強剣客決定戦」物語であるわけだ。このアイディアは非常に魅力的なもので、現代でもたとえばTYPE-MOONの『Fate』シリーズなどが換骨奪胎している。

 しかし、山風という作家が恐ろしいのは、その、最強を巡ってたたかいを繰り広げる剣客たちをきわめて冷ややかな目で見ていることだろう。それぞれ地獄の修行を潜りぬけ、命すら捨て、誇りと人倫に背を向けてまで最強を求める剣客たちの姿を、どうです、くだらないでしょう、ばかばかしいでしょう、と見る非情の視線がかれにはある。

 つまり山風は作品の「ギャグ漫画性」をきわめて冷静に自覚しているのである。そうして、自覚した上で、かれはなお書く。最強を求める凄絶無比の魔戦を描きつづける。

 かれはある意味で「哲学」や「ロマン」には逃げないのだ。ひたすらに、現実的、物理的なレベルでの戦いを、滑稽と知りながら描きつづける、その、壮絶。こうして『魔界転生』は凡庸なバトル漫画が及びもつかない大傑作となった。

 有名な話だが、この『魔界転生』も一面で吉川英治宮本武蔵』のパロディになっている。武蔵と柳生十兵衛は、『宮本武蔵』をなぞるかのように決闘し、そうして『宮本武蔵』とは逆に、武蔵は十兵衛を前に敗れ去るのである。

 『魔界転生』は、『宮本武蔵』へのアンサーであるという一点において「よじょう」と同じだが、「よじょう」が最強幻想のその滑稽さを笑ってみせたのに対し、『魔界転生』はその滑稽さをさらに突き詰めることによって、滑稽さを突き破ってしまったといえる。大名作というしかない。

 さて、ぼくたちは現代に漫画というかたちで『宮本武蔵』をよみがえらせた作品を知っている。井上雄彦バガボンド』である。『バガボンド』の物語は、「実際」と「哲学」、「幼稚で滑稽な真剣さ」と「大人の余裕」のあいだで揺らいでいる。

 「天下無双とはただの言葉じゃ」と喝破する「よじょう」的な成熟した視点がそこには紛れもなくあるが、しかし、その言葉に従って「殺し合いの螺旋」から脱出してしまうには、井上の武蔵はあまりにも純粋なのである。

 果たして『バガボンド』が「実際」と「哲学」のいずれで結末を迎えるのか。一バトル漫画ファンとして、非常に楽しみである。今年か、来年あたりに完結してくれると良いのだけれど、無理だろうか。

 『刃牙』の滑稽さを笑うことは正当だが、それだけでは何もいったことにはならない。『刃牙』を滑稽にしているものは、『バガボンド』の物語進行を止めているものなのだ。

 幻想に過ぎないと知りながら、それでもなお実際的な最強を求めずにいられない「業」。『刃牙』はなるほど「ギャグ漫画」としかいいようがないほど滑稽ではあるが、しかしまさにそうであるからこそ、そこには、何か奇妙に切ないものがあるとも思うのである。

範馬刃牙 1 (少年チャンピオン・コミックス)

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修羅の門(1) (講談社コミックス月刊マガジン)

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大炊介始末 (新潮文庫)

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魔界転生(上) 山田風太郎忍法帖(6) (講談社文庫)

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バガボンド(1)(モーニングKC)

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