それでも『アカギ』を読んでしまう理由。

アカギ―闇に降り立った天才 (1) (近代麻雀コミックス)

アカギ―闇に降り立った天才 (1) (近代麻雀コミックス)

 麻雀漫画『アカギ』がようやくひとつのクライマックスに差し掛かろうとしている、ように見える。じっさいにはまだまだ勝負は長引くのかもしれないが、ここからまた数年続くということは、さすがにないのではないかと思う。

 ご存じの方はご存知の通り、この作品では「鷲巣麻雀」と呼ばれる麻雀勝負がここまで延々と続いてきた。単行本にして十数巻、連載期間にしてもたぶん10年は超えているだろう。

 麻雀漫画、ギャンブル漫画は言うに及ばず、スポーツ漫画やバトル漫画を含めても、ひとつの勝負、ひとつの試合を描くためにかけられた時間としては最長なのではないかと思う。

 『SLAM DUNK』のクライマックス、対山王工業戦も相当長かったが、『アカギ』はその倍以上の巻数で鷲巣と勝負を続けている。しかもその勝負が終盤に近くなってから時間は歪み、なかなか速やかに流れなくなってしまった。まるでアキレスと亀パラドックスだ。

 それでも、さすがにそろそろ決着がつくのではないかと思うのだが――さすがにいいかげんにしてほしいところである。もっとも、本当はぼくは既にこの勝負の結末を知っている。アカギは勝つはずなのである。なぜなら、先行作品『天』において未来のアカギが描かれているからだ。

 『天』でのアカギはひょうひょうとしたなかにも天才の感性を偲ばせるふしぎな老人として登場する。だから、青年期のアカギがここで勝負に敗れて死ぬことなどありえないはずだ。

 何か壮大なトリックがあるとか(実は『天』のアカギと『アカギ』のアカギは別人だった! なんだってー!)、さもなければ勝負そのものがなしになるとかでない限り、間違いなくアカギは勝つだろう。

 それにしても、考えてみれば、既に結末がわかっている勝負を延々十数巻も見せられるというのも妙な話だ。読者はすぐに飽きてしまって当然ではないか? しかし、じっさいにはそうはならないのである。

 『アカギ』は、もちろん長すぎてだれてしまったところはあるにしろ、相変わらずおもしろい漫画だ。作中では一定のテンションが維持されている、と感じる。なぜだろう? ふしぎなことだが、結末がわかっていても、そこに至る道程がわからなければ、ぼくたちは興味を持続できるらしいのである。

 たとえば、歴史小説を読むとき、ぼくたちは主人公の運命をあらかじめ知っている。織田信長が本能寺で死ぬこと、土方歳三五稜郭で戦死すること、これは既に決められたことであって、作者の一存では動かせない。

 しかし、それでも読者は退屈せずそういう小説を読むことができる。むしろ、大枠の展開を知っているからこそいっそう興味をそそられるということもありえる。

 これをうまく再現したのが永野護ファイブスター物語』で、この作品ではあらかじめ歴史の展開が「年表」として公開されている。読者は何年に何が起こったかすべて知っているのだが、しかし、各時代では、年表に記載されていないところで、それぞれ読者の予想を覆す出来事が起こる。だから読者は次の展開を知りたさに読み進めることになる。

 ひとは、実は完全に予想外のことにはそう驚かない。予想の範疇にありながら、起こるとは気付かなかったことに心地良く驚かされるのである。だから、巧妙な作家は、あえて手札を晒し、その上で勝負する。そういうものだ。

 スポーツの試合を考えてみよう。よく「小説よりドラマティック」とか「筋書きのないドラマ」と呼ばれるスポーツだが、実はその展開は予想の範疇に収まっている。たとえば野球であれば、どちらかのチームが勝ち、どちらかのチームが負けるに決まっているのだ。予測不可能なことなど何もない。

 それにもかかわらず、そこには強烈な驚きがありえる。あらゆることがありえる状況より、ある程度予想ができる状況のほうが、ひとは驚きを感じるのだと思う。どちらが勝つかはわかっていても、まさかこの選手がホームランを打つとは、という驚きはありえるのだ。むしろそれこそ最も強烈な驚きなのである。

 『アカギ』でいえば、アカギが勝つことはわかっている。しかし、どう勝つかまでは謎のままだ。だから、『アカギ』には(最近はさすがにだれているとしても)、新鮮な驚きがありえる。

 それにしても鷲巣麻雀はいいかげん終わってほしいのだが……。