ネットで喧嘩が絶えない理由。


 十数年ネットで文章を書いてきて思うのだが、言葉というものはつくづく不完全な道具だ。内心の思いを伝えるために言葉以上の道具がないこともたしかだが、内心を正確かつ精密に伝達しようとするとき、言葉は時に哀しいほど無力である。

 ネットのいわゆる「炎上」事件の過半は、その意見が問題であるからではなく、その意見を伝えるための言葉が不十分であったから起こるのだと思う。また、何かしら揉め事が起こったときも、実は意見の対立など存在せず、ただ言葉の解釈の問題だけがある、ということがしばしばである。

 言葉、言葉、言葉。ただそれしか伝達手段がないネットでは言語能力は殊に重要だが、同時に、ただ言葉だけでひとに思いを伝えることはけっきょく不可能だというしかない。

 いいや、とあなたはいうかもしれない。それはやり方しだいだろうと。十分に注意深く言葉を使えば、正しく意図を伝えることができるはずだと。

 そうだろうか。たしかに、注意深く言葉を使えば、そうしないよりは正確に意図を伝えられるだろう。しかし、それも究極的には意図が伝わる確率を高めるだけの行為であって、うまくやれば確実に意図を伝えられるというわけではない。誤解するひとは、どんなふうに書いても誤解する。それはもう、誤解したがっているとしか思えないほどである。

 その背景には、おそらく発言の主への偏見がある。ぼくたちはネットで、いやリアルでも、人間をひとつの「キャラ」として認識するものである。たとえば、トンデモ的な考え方をするトンデモキャラ、オタク的な発言をするオタクキャラ、というふうに。

 その人物を知れば知るほど、その認識は「キャラ」から、多面的な顔を持った「人間」へと変化していくだろうが、人物像にかんする情報が不足しているネットでは、どうしてもただ「××キャラ」として認識して終わることになりがちだ。

 そうしてぼくたちは、ある発言や行動を、その人物の「キャラ」と関連付けて解釈する。ただその発言や行動だけを純粋に取り出して判断するべきだ、という考え方のひともいるかもしれないが、それは現実的ではない。ひとはどうしても何かしらの偏見を、つまり「キャラ認識」をもってある行動なり発言を見るものなのである。

 たとえば、街中でいきなりぶつかってきて謝りもしない人物がいたとする。あなたは「なんて失礼な奴なんだ」と思うかもしれない。しかし、実はその人物の母親が危篤で、一秒を惜しんでいたのだと知っていたらどうだろう? 「まあ、急ぐのも無理はない」と思うのではないだろうか。あるいは、そんなにしてまで急ぐその人物に同情すらするかもしれない。

 「街中でいきなりぶつかってきた」という事実は変わらないのに、情報の多寡によって認識に変化が生じるのだ。ひととひととの出逢いは、多かれ少なかれこういう性質のものだと思う。

 つまりあるひとを全人的に理解することは困難、というか不可能なのであり、部分的に理解することが可能なだけなのである。だからひとは他者を単純な性格をもつ「キャラ」として見ることになる。

 そうして「あいつは嫌な奴だ」とか、「幼稚な性格だ」、「攻撃的な奴だ」などと簡単に決め付ける。そうしないと、対人関係のキャパシティをオーバーしてしまうということもあるだろう。

 一切の偏見抜きにひとと向きあうことは、恐ろしくコストがかかる。「こいつはこういう人間だ」と決めつけて向かい合う(あるいは、向かい合わない)ほうが楽なのである。

 で、何がいいたいのかというと、我々がネットで純粋に言葉によってやりとりしていると考えるのは幻想だ、ということだ。我々はひっきょう、自分の思い込みをあいてに投影し、そのフィルターを通したうえで言葉のやりとりをしているのだ。

 言葉は、いくら精密を期してあったとしても、やはりどうとでも解釈できるものでしかない。好意的に解釈すれば良いものが、悪意的に解釈すれば悪いものが見える。そうしていちど悪意的に解釈すればそれによって偏見が強化され、そのあとはさらに悪意的に解釈することになる。

 そうやって、あるひとの「キャラ」は固定される。そのあとは絶対に建設的な会話は成り立たない。ただたがいにあいての言葉を自分の偏見を通して解釈し、それをもとに偏見を強化していくという負のサイクルが延々と続くだけである。ネットで起こっている「議論」とは、しばしばそういうものであるように見える。

 解決策は特にない。ただ、言葉と論理だけで議論しているという考えが幻想であることは認識しておくべきだと思う。自分が何かしらの偏見を抱いているとわかっていれば、少しは自分に対して注意深くなれるだろう。しかし、じっさいには、ひとは自分の認識や解釈を疑わないものである。だれだって自分はかわいいからだ。ぼくだってそうだ。

 だからまあ、せめてこれだけは憶えておくべきだろう。言葉などどうとでも解釈できるし、またじっさいに書き手の意図とは違うかたちで解釈していることが普通だということ。あなたの「読み」は唯一の解ではないのである。

 この文章だって、ぼくの思ったとおりには伝わらないに違いないのだ。