愛しあうことをやめられないという地獄。

プラネテス(1) (モーニング KC)

プラネテス(1) (モーニング KC)

 『プラネテス』を読み返したりしていますよ。いま『アフタヌーン』で『ヴィンランド・サガ』を連載中の幸村誠の未完のSF大作です。SFでありながら地球衛星軌道上でのデブリ(宇宙のごみ)拾いという地味なテーマを扱っているのですが、その深い思索性によって傑出した作品に仕上がっています。

 でも物語的にはどう考えても未完に終わっていることが考えもの。これ、続編描かれないかな。描かれないだろうな。アニメ版は綺麗に終わっているもんな。

 さて、この『プラネテス』の最終巻に収録され、強烈な印象をのこすのが「フィーのおいちゃん」のエピソードです。登場人物のひとりであるフィーの伯父ロイの話ですが、この伯父さん、ひととまともに話すことができず、何をやっても中途半端。ありていにいえば社会不適合者です。

 そんなかれはあるとき無実の罪を着せられて悩みます。紛れもなく無実であるにもかかわらず、かれは社会によって追いつめられていきます。

「おいちゃんちょっと弱虫なんだ みんなと仲良くできないんだ みんなの中で生きるのが苦しくて 苦しいと逃げちゃうダメな子なんだ たぶんおいちゃんがいけないんだ おいちゃん努力して変わらなきゃいけないのにね」

 と、自分を責めるロイですが、木の上に作った粗末な自宅が放火されるにいたって、ついに社会に疑問を抱きます。

「……………………なんなんだ? オレがいけないのか? 本当にオレがいけないのか? どっちなんだ? オレと この世界と 狂ってるのはどっちなんだ?」

 この問いは重い。物語は主人公ハチマキの「愛し合うことだけはどうしてもやめられないんだ」という綺麗な言葉で終わっているのですが、このロイのエピソードは指に刺さった刺のようにじくじくと痛みます。ぼくはこのエピソードが好きでねえ。

 何だろうな――この世には愛とか努力とか友情とか誠実とか正義とか勤勉とか成長とか、そういう一見ポジティヴな、誰にも文句が付けられないような価値観がある。でもそういう価値観の裏には差別心がベッタリと張り付いているんですよね。

 「愛」を至上に掲げるひとは愛しあおうとしないひとを侮蔑するし、努力して成功した、と信じている人間は往々にして「お前も努力しろ」と強制するもの。ひとつひとつの価値観は文句のつけようがなく美しくても、人間が用いる時点で汚れてしまう。

 そう考えてゆくと、「愛し合うことだけはやめられない」というハチマキの言葉は、希望というより絶望を表しているようにしか思えません。たしかに、愛することはやめられないかもしれない。でも、愛したら愛し返されるわけじゃない。誰にも愛されないひとはどうすればいいのか?

 物語は結論を与えてくれないので、自分で考えるしかないんだけれど、これは重い話ですよね。何よりぼく自身が「フィーのおいちゃん」みたいなひとなので、悩みはいっそう深いのです。あうあう。