物語と物語もどき。プロットと擬似プロット。

物語工学論

物語工学論

 『クリエイティヴ脚本術』に続いて読んでいる。やはり物語の書き方についての本である。自然、『クリエイティヴ脚本術』の理論(と、書くと長いから、以下、著者の名前から採ってボネット理論と呼ぼう)と比較しながら読んでいくことになるのだが、ボネット理論ほど詳細ではないぶん、すぐさま物語作りに応用するというわけにはいかないかも。

 この「入門編」は「キャラクター編」なので(入門編といっても、売れ行きが良くなかったのか、続刊は見ないようだが)、キャラクターを分類している。

 先述したように、ボネット理論は「エゴ」、「霊」、「心理」、「感情」、「身体」、「アニマとアニムス」、「門番」、「トリックスター」、「シャドウ」の九つのキャラクターアーキタイプを採用した。

 これに対し、『物語工学論』の理論(以下、新城理論)は「さまよえる跛行者」、「塔の中の姫君」、「二つの顔をもつ男」、「武装戦闘少女」、「時空を超える恋人たち」、「あぶない賢者」、「造物主を亡ぼすもの」という七つの類形を作用している。

 まだ読み終わっていないのではっきりとはいえないものの、色々な神話学やら物語学やら文化人類学を参考に作りだした分類であるようで、例によって学術的にどれくらい意味があるのかはわからないが、まあ、実作に役立てるためには十分かな。あるいはライトノベルなどにはボネット理論より新城理論のほうがよく合うかもしれない。

 ところで、この本を読んでいてぼくや、多くの作劇初心者が書く「物語」がさっぱりおもしろくならない理由を思いついた。それは、結局、その「物語」が本当の意味で「物語」ではないからではないか。ただ何となく思いつくままに書いているだけで、物語作りのルールを守っていないからではないのか。

 極端な例をあげてみる。たとえば、道を歩いていたら犬が逆立ちの練習をしていたので蹴っぽったら、空から飴が降っていた。などという「物語」を考えてみよう。

 これは、限りなくナンセンスではあるものの、最も広い意味では「物語」といえるだろう。が、狭い意味では「物語」とはいえない。前後の展開に脈絡がないからである。いいかえるなら、ここにはプロットがない。個々のアクションのロジカルな連結関係が存在しないのである。

 それでは、物語でないとするならこれは何なのか。あえて名づけるなら、「物語もどき」とでもいうことになるだろう。一見すると物語のように見えるが、その実、物語の用件を満たしていないシロモノ。

 この「物語もどき」にはプロットがないので、読者は読んでも意味がわからない。それでも何かがあるとすれば、せいぜい「擬似プロット」くらいだろう。プロットのようでいてプロットになっていないマガイモノ。

 ようするに、初心者や下手な書き手の問題点はそういう「物語もどき」や「擬似プロット」を作って、きちんと物語を語ったような気分になっているところに問題があるのではないか、という気がするのである。

 もちろん、じっさいには、ここまではっきりと破綻している話を書くひとは、さすがに多くはないだろう。しかし、そうであるからこそ、本物と紛い物の区別を付けづらいのではないか。そうして、いくらたくさん紛い物をつくり続けても意味がないのではないだろうか。

 たとえば、ぼくがこのあいだ数時間で書き上げてアップした「久遠姫」、あれ、完全にプロットが破綻しているんだよね。だからおもしろくない。というか、プロットを構築しないで書いているわけで、やはりそこには「擬似プロット」しかないのかもしれない。

 で、まあ、物語になっている、あるいはプロットに基づいている展開は、たぶん最低限の面白さは約束されているのではないかなあ。非常に低レベルの話かもしれないが、ぼくのようなどうしようもないレベルの人間は、ここから始めないといけないんじゃないか。

 そう思うんだよ。