読書の愉悦。

蕃東国年代記

蕃東国年代記

琉璃玉の耳輪

琉璃玉の耳輪

 読む暇もろくにないというのに、西崎憲『蕃東国年代記』だの、津原泰水『瑠璃玉の耳輪』だのを入手して、ほくほく。この手の麗しい文章に彩られた本は、ふつうに初めから読むのではなく、何気なく頁をめくってその時どきに視界に入った言葉を眺めるだけでも愉しい。

 もちろん、読書の作法としては邪道なのだろうけれど、でも、たとえば辞書に気まぐれにひらいて気に入りの言葉を捜す愉楽があるように、小説にも、適当に紐解き、綺麗で可憐な一行を求める背徳の悦楽があっても良いのではないかなどと思うのです。読書の正当な作法を無視するには、いかにも拙い言い訳に過ぎないかもしれないけれど。

 しかしまあ、ひさしぶりに色いろな小説を手に取り、読み耽ってみると、その世界のひょうびょうたる広大にあらためて驚かされます。ひとつひとつの単語は誰でもあたりまえに使えるものなのに、それらを正しいならびで組みあわせてゆくと雄大無辺の空想(妄想?)世界が立ち上がる神秘は、幾たび目にしても馴れることがありません。

 あるいはわれしらず馴れていたのかもしれないけれど、しばらく時をおいてふたたび訪ってみると、やはりその世界の広いことに賛嘆させられるのです。

 京極夏彦が時折り云うように、もしあらゆる言葉が悉く皆、ただ幻想をしか示せないものなのだとしたら、その言語で綴られた物語を読むことはひととき現世を離陸し、幽明の幻想郷で遊ぶことにも等しいでしょう。愉しくないはずがない。

 もちろん、すべての本を読み尽くすには人生は短すぎるし、また読むにあたいする本ばかりとは限らない。しかし、ひとが有するほかの能力と同様、読書する力も継続により鍛えうるもの。読めば読むほどに読む愉しみは増してゆきます。

 たとえばいま『蕃東国年代記』のような作品を読むと、その言葉遣いのたおやかにほとんど吐息してしまうほどなのですが、十年まえのぼくならそこまでの興趣は覚えなかったことでしょう。その意味で、いくらかはぼくも進歩しているわけです。

 しかしまた、新しい一冊を読みすすめることで得られるその興奮そのものは、幼い頃から何も変わってはいません。眼前に新たな見しらぬ世界がひろがることの歓喜。それを初めて珍かな蝶の標本を目にした少年の高揚にたとえたなら、あまりに美化しすぎていることになるでしょうが。

 ともかく、言葉に(あるいは文字に)耽る趣味はこの頃いっそう酷くなっていて、この頃ぼくはもう、本を、おもしろいかどうかとか有用か否かという視点では視ず、ただひたすらに自分に合う文体で綴られているかという基準でしか視ていないような気がします。

 それは必ずしも技巧の巧拙に還元し切れるものではなく、単に趣味の問題としかいいようがありません。いってみれば酒を嗜むようにして本を読んでいるわけで、評価といえば自分にとり心地良いかどうかという、その二択しかない。

 それではまともな書評など書けるはずもなく、そういうわけで近ごろぼくが書くものは過去にもまして抽象的に、ただむやみと言葉を捏ねくりまわしたばかりのしろものになってきている。

 ひたすらに言葉を弄りまわすことはそれじたいとても愉しいのだけれど、でも、読むほうはまるで意味がわからなかったり、一読するだけでひどく疲れたりすることもあるのだろうなあ、と省みることがないではありません。

 が、それでそういう言葉遣いをやめるのかというと、そういうつもりは全くないのです。ま、純粋に趣味のウェブログですからね。これはもう、仕方ない。こういうくだくだしい物いいをお嫌いでない方だけお読みいただければ、と思います。

 ここはそういう奇矯な方のための、そのためだけの、一時の憩いの場とお考えいただければ幸い。