(まだ900万くらいだけれど)1000万ヒットブログの作り方教えます。


 先日のレスター伯の記事がid:pushol_imas本人とid:lastlineに取り上げられて多少の広がりを見せていることを受けて、ではぼくじしんはどのように記事を書いているのか、あるいは書いていたのかという記事を書いてみようと思う。

 まだアクセス総数が1000万ヒットに達していないにもかかわらず「1000万ヒットブログの作り方教えます」とは詐欺にも程があるタイトルだが、まあいいじゃん。増えることはあっても減ることはないのがブログのアクセス、今年中にはたぶん1000万行くよ。

 いやまあ、最近ではもう1000万なんてたいした数字でもない、1億行ってなんぼという気もするが、しかし全くの初心者からすれば、1000万はやはり遠い数字である。とても手が届かないように思えてもふしぎではない。でも実はそうでもないというあたりのことを書いていこう。

 それにしても、レスター伯が書いているブログの心得があまりにもぼくと真逆なので、ちょっと笑ってしまった。これはもちろん、どちらが正しいかという問題ではない。どちらも正しいし、どちらも間違えているのだ。

 昨日の記事では「「Something Orange」はもう古い」と書いたが、むしろこれはブログとしての個性の違いに過ぎないだろう。100人ブロガーがいれば100通りのスタイルがある。

 それでは、ぼくのスタイルとはどのようなものなのか、レスター伯のスタイルと比較しながら解説してゆくことにしたい。

■読者にトリックを仕掛ける。■

 レスター伯は書く。

「読者が予想していた通りの内容をきっちり書くこと」
が何よりも重要で、記事を読んで混乱させないように書かなければ意味がありません。

 もうここらへんでニヤニヤしてしまうのだが、ぼくのブログスタイルは逆である。「まず読者を困惑させること」からすべてが始まる。読者に対してトリックを仕掛け、その注目を集めることがその記事のスタートである。これをやっていない記事は手抜きだと見てほぼ間違いない。たとえば、昨日の記事を見てみよう。

 昔話である。

 かつて漫才ブームはなやかなりし頃、かの天才芸人島田紳助は、無名の新人コンビダウンタウンの漫才を見て、当時人気絶大だった紳助竜介の解散を決めたそうだ。

 そこには、天才なればこそ見抜ける後発の新人の圧倒的な「斬新さ」、絶対的な「同時代性」があったのであろう。

 いかに優れた文化、芸術、芸能といえど、時の波濤には耐えられない。あらゆる才能はいつかは「あとから来るもの」に追いつかれ、追いぬかれ、「過去の遺物」にされる運命にあるのである。

 注目してみてほしい。短い文章だが、ぼくが長年磨いてきたテクニックがいくつか投入されている。まず「最先端がここにある! ブログ「レスター伯の躁鬱」がマジ斬新な件。」と題する記事であるにもかかわらず、一見無関係な島田紳助ダウンタウンの話から始まっていることだ。

 これがトリックである。この記事を読む読者は、タイトルを見てこれがレスター伯のブログの記事であることを知っている。それにもかかわらず無関係に見える話が始まると、頭のなかに「?」が生まれ、記事を読み続けざるをえなくなるのである。

 もちろん、全員が全員そうなるはずはないだろう。しかし、もっと平凡な書き出しに比べれば、やはり効果があるはずだ。この記事の場合、5段落目でようやくブログの話につながるのだが、ここで読者は安心し、記事の続きを読みつづけることになる。ここまで読者をひきずり込むだけでもけっこう大変なのは、ブロガーなら知っての通り。

 もうひとつの工夫は、「昔話である。」のひと言で区切っていること。文意だけを見るならこの一行は不要である。しかし、この一行だけで改行することによって、読者はスムースに文章に入っていける。空間を贅沢に使う。これがブログの作法のひとつ。

■フォントをコントロール。■

具体的にはブログというメディアは活字メディアと違って、
フォントを変えたり、絵で見せたりするのが得意なので、
そこを最大限に利用しない手はないわけですよ。

 ぼくは基本的にフォントいじりは使わない。この記事ではあえて文字を強調しているが、これは意識して使っているのであって、ふだんはめったに使わない。

 フォントいじりが効果的なのはわかっている。しかし、それでも使わないのだ。なぜか。不要だからである。というか、不要だと断じることによって文章のクオリティをあげようと試みているのだ。

 『範馬刃牙』における「空手」のようなもので、あえて武器を持たないことによってふだんの覚悟を高めるといった効果を狙っている。

 何をいっているのかわからないだろうかもしれない。つまり、日本語の文章においては、特別フォントいじりをしなくても、ただ言葉を巧みに使うだけでフォントいじりを上回る効果を上げることができると信じているのだ。言葉には、それだけのポテンシャルがあると。武器がなくても素手で最強を極めることができると信仰している格闘家のように。

 じっさい、ブログにおいて、スクリーンショットや写真といった画像の効果は絶大なものがある。いくら言葉を費やしても表現できないものが、ただそういった画像を用いるだけで一瞬で表現できてしまう。

 それでも、ぼくは使わない。めんどうだから――というのもないわけではないが、それだけではない。言葉の力を信仰しているのである。言葉だけで何とかなると信じているのである。じっさい、ぼくはそれだけで何とかしてきた。そこにはちょっとしたプライドがある。

 ただ、一年か二年に一度くらいフォントいじりを使いたくなるときがある。いわば「裏技」を使ってでも表現したいことと出逢ったときだ。過去、『シンフォニック=レイン』や『戻り川心中』といった作品のためにフォントいじりを用いた。

 そして、こういうときのフォントいじりは絶大な効果を生む。なぜなら、ふだん使っていないぶん、インパクトがあるからだ。フォントいじりを使うことが悪いとは思わないが、それをあえて封印するという手もあるということ。

■文章を削る。■

 記事を書くときに僕が最も気をつけてるのは無駄は徹底的に削るということです。

 これは同意する。削ることは大切である。自分が生み出した言葉への愛着のあまり全く削っていない文章は読めたものではない海燕さんの昔の文章とか、そりゃひどいものです。

 ただ、何が「無駄」か、という見極めはしばしばむずかしい。一見「無駄」に見える文章のなかにきらりと光るダイヤモンドのかけらが眠っているかもしれないのだ。何が「無意味」で、何が「有意味」か、的確に見極める目があれば、あなたはもう一人前の書き手だといっていい。ぼくはまだうまくできない。

 で、具体的にその「目」を養うためにどうすればいいかというと――これはもう、じっさいに削ってみるよりほかない。自分で書いた文章に対し、常に「これは削れるかもしれない」という視点で見ること。これは大切だったりする。

 じっさい、アクセス数を稼ぎたいと思ったときに、記事タイトルの次くらいに大切なのが、この「無駄のない文章を書く」ということである。この文章自体、既にだいぶ無駄があるが――この記述自体無駄だが――何なら、削ってみてほしい。スリムでスマートな文章がいかに読みやすいものかわかるだろう。

 ところで、文章を語る際、重要なのはリズムとか論理構造とかいわれるし、じっさいぼくもそういってきたが、じっさいにいちばん大切なのは「とにかく気合をいれること」といった抽象的なことだったりする。

 気合の有無に比べれば論理構造の破綻など問題にもならない。そういうわけで、文章を書く際には何かアップテンポな音楽でも聞いてテンションを上げておくことが大切である。いや、ほんと効果あるから、試してみてください。

 以上、「1000万ヒットブログの作り方」――って、全然参考にならないなあ。書いた記事は多少予定と違っていても上げられるくらい厚顔無恥になることが大切、という落ちでいかが。