昔話である。
かつて漫才ブームはなやかなりし頃、かの天才芸人島田紳助は、無名の新人コンビダウンタウンの漫才を見て、当時人気絶大だった紳助竜介の解散を決めたそうだ。
そこには、天才なればこそ見抜ける後発の新人の圧倒的な「斬新さ」、絶対的な「同時代性」があったのであろう。
いかに優れた文化、芸術、芸能といえど、時の波濤には耐えられない。あらゆる才能はいつかは「あとから来るもの」に追いつかれ、追いぬかれ、「過去の遺物」にされる運命にあるのである。
ブログもまた然り。だから、ぼくがブログ「レスター伯の躁鬱」(id:pushol_imas)を初めて読んだとき感じたのは、「やべぇ」という、形容しがたい危機感であった。やべぇ、「Something Orange」とかもう古いじゃん! これからはレスター伯の時代だよ!
いや、このように書いてもまた身内ぼめのたぐいかと思われるだけだろう。だから、これから「躁鬱」が具体的にどうスペシャルなのか書き綴っていくことにしよう。
まあ、もしあなたがブロガーなら、いちど「躁鬱」を読めばあっというまにぼくの危機感を理解し、「やべぇ! やばすぎる!」と思われるに違いないのだが、すべての読者がブロガーではないので、このような解説も無意味ではないはずだ。
「Something Orange」の歴史も遂に10年を超えたが、こんな記事を書くのは初めてである。レスター伯、マジパネェっす。
■スーパーフラット■
それでは、「躁鬱」の何がそれほど凄いのか。何が「同業者」に戦慄を生むのか。簡単なことである。「躁鬱」の凄みは、その巧まざるフラットさにある。
フラット。どういう意味だろう。つまり、「躁鬱」はありとあらゆる素材を同じように料理している、その切り口の一様さがぼくから見ると驚異的なのである。
ブログとは、結局、書き手の個性の表出である。強烈な個性のもち主ほどおもしろいブログを書くし、賛否両論の意見を集める。それがブログ業界の常識であった。
しかし、レスター伯は逆に考えた! 「躁鬱」ではその種の個性は徹底的に殺されている。「個性がないのが個性」。それが「躁鬱」のスタイルなのだ。これは新しい。本当に新しい。
「躁鬱」はさまざまなカルチャーをその評価の俎上に乗せる。アニメ、漫画、ロック、同人誌、ネット小説――まずその取り合わせの妙が独創的だ。
ふつう、どんなブログでも――「Something Orange」でさえも――長く続けるうちに「専門分野」が生まれ、その「専門分野」について書くことを求められるようになっていく。
だが、「躁鬱」は違う。「次に何が取り上げられるか全く予想ができないブログ」。それが「レスター伯の躁鬱」である。そして、それらの素材は徹底的にフラットに扱われるのだ。これはブログのひとつの理想の姿だといっていい。
■コピーブログ■
ぼくたちは、この「理想」を目指した男をひとりしっている。サークル敷居亭主催、敷居(id:sikii_j)である。何でも、話に聞くところによると、「躁鬱」はレスター伯と敷居さんの夜中の放談から生まれたのだとか。
そのとき、どんなことが話し合われたのか知るすべはない(いやまあ、本人に聞けば教えてくれるだろうけれど)。しかし、ある程度想像はつく。そこではおそらくブログにおける「個性」について話し合いが行われたに違いない。
「Something Orange」はいわば主観のブログである。この世のあらゆることがぼくの主観というフィルターを通して記載されていく、そういうブログである。したがって、このブログは熱烈な支持者を生む一方、反発も大きいし、しばしば炎上する。
一方、「躁鬱」はいうなれば客観のブログである。もちろん、個人の作品である以上、完全な客観性など望みえるはずもない。しかし、それでもなお、そこで重視されているものは対象との距離感であり、いかに正確に対象を描写するかという「デッサン力」なのだ。
これはおそらく敷居さんが追い求め、そして遂に実現しえなかった理想そのものだろう。コピーバンドという言葉があるが、「躁鬱」はいわば「敷居の先住民」のコピーブログだ。しかし、このコピーブログはある意味で本家を超えている。
「敷居の先住民」がニコマスを取り上げることによって一面でそれに束縛されることになってしまったのと対照的に、レスター伯はニコマスPでありながらニコマスを取り上げないことによって自由を獲得している。
絶対的にフラットな自由。「内面」の欠落。これが最先端のジャーナリスティックブログの回答である。
■ブロガーズ・ブロガー■
作家の世界では、同業者の尊敬を集める作家のことを特にライターズ・ライターと呼ぶようだ。作家のなかの作家、というような意味だろう。
これは必ずしも大衆的人気を獲得した作家のことをいうわけではない。その道の玄人なればこそわかる匠の技を使いこなす作家を、絶大なる敬意を込めて、こう呼ぶのである。そしてぼくは、これに倣い、レスター伯をブロガーズ・ブロガーと呼びたい。
あなたがブロガーなら、「自分の無二の個性」を殺し、ひたすらに読むものに奉仕する文章を書き続けるということがどういうことかわかるはずである。はっきりいって、やっていられないはずのことなのだ。
それにもかかわらず、レスター伯はその困難な道を既に数ヶ月踏破している。この偉業はまさにブロガーズ・ブロガー、あるいはザ・ブロガーと呼ばれるにふさわしい。
レスター伯のやっていることは、ある意味ではだれにでもできることである。「レスター伯ならではの独自の切り口」といったものはここには薄い。しかし、それにもかかわらず、ここには誰にも真似のできない強烈な個性がある。
特にスペシャルな文体を持っているわけでもないのに、忘れがたい印象をのこすブログ。それが「躁鬱」だ。そのスタイルの特性上、ホームラン級の個性的な記事なかなか生まれてこないかもしれない。しかし、これからもきわめて高い打率で安打を稼いでいくだろう。
ブロガーもそうでないひとも、「レスター伯の躁鬱」をチェックだ! 現代ブログのフロントラインはここにある。