ぼくたちは「差別用語」を使ってはいけないのだろうか。

歴史を知ればもっと面白い韓国映画 「キューポラのある街」から「王の男」まで

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 韓国時代劇の副読本を期待して読んだのだが、近現代史の話だった。それはそれで良し。とても良くまとまった本で、Amazonでもほとんどが★★★★★の評価。朝鮮半島近現代史を考えるにあたり、非常に参考になる。

 だから以下に述べることは批判でも何でもないのだが、この本のなかに、「バカでもチョンでも」という言葉は差別的な言葉だと指摘している箇所がある。

 卒業制作の「青 chong」は、青春の「青」と、かつて日本人が朝鮮人をさして使った蔑称「チョン」をかけたものだそうだ。ちなみに、「バカでもチョンでも」という言葉はそういう意味なのである。

 が、実はこれは事実誤認なのである。「バカでもチョンでも」の「チョン」は「そういう意味」ではない。「チョン」というのは、古来、「愚か」とか「半人前」を意味する言葉で、朝鮮人とは無関係なのだ。

 このことには学術的な証拠があり、明治3年(1870年)に発刊された『西洋道中膝栗毛』にこの言葉が登場することがよく挙げられる。したがって、「バカでもチョンでも」は差別用語ではない、ということになる。

 しかし、だからこの言葉を使ってもかまわないのだ、といえるかというと、ここでまた議論がある。たとえば、このサイトではこのように書いている。

 バカチョンカメラの「バカチョン」が、その語源から見ると差別とは無関係だったことは事実でしょう。また私自身が個人的にバカチョンの「チョン」と「朝鮮人」を結びつけられなかったことも事実です。しかし、現在においては差別用語になり得るということがはっきりとわかりました。また、差別されていると感じる人がたくさんいることも判りました。そう判った以上、語源など問題ではありません。「バカチョン」は差別用語と断定します。

(中略)

 私は、職業柄「言葉の使い方」には人より多少敏感な方です(それにしては「このサイト内の文章はヒドイ」と言われそうです…笑)。「書くこと」や「読むこと」にこだわりを持つ多くの人と同じく、十把一絡げの「言葉狩り」は好きではありません。だから、何でもかんでも差別用語と決め付けたくはありません。出来る限り、その言葉が持つ文化的な背景を考えたいとは思っています。「メクラ判を押す」とか「片手落ち」などという言葉は、差別用語として校正段階で削除されますが、これらの言葉を差別用語と決め付けることについては心情的に抵抗があります。
 かといって、こうした言葉を「日本語文化の伝統」を理由に「差別用語ではない」「言葉狩りはいけない」と、あまりに強く主張する人に対しても素直に納得できない部分があります。文化的な背景を重視することは必要でも、あまり伝統にこだわり過ぎるのもおかしいと思うからです。言葉(言語表現)は、時代とともに変化するものだ…と理解しています。「言葉の伝統」を大切にするからといって、現代において上代文学に出てくるような言葉を後生大事に使い続ける理由はありません。同様に伝統を理由に「誰かが不快に感じる」言葉を使い続ける必要もありません。言葉というのは、時代の変化を受け入れながらナチュラルに変化していくべきものでしょう。

 ひとまずは納得できる意見である。ある言葉の語源がどうであれ、それを不快に感じるひとがいるなら、あえて使おうとは思わないというのは、非常に良識的な態度であると思う。

 しかし、それにもかかわらず、ぼくはこの意見に全面的に賛成することはできない。やはり、誰かが不快に思うか否か、という基準で「差別用語」を規定していくのはきわめて危険なように思えるのである。

 なぜなら、このやり方を貫く限り、誰かが「わたしは不快だ」と言い出した時点でその言葉は「差別用語行き」になってしまうからである。

 現実的な話として、世の中には、不快な言葉などいくらでもある。何を不快と感じるかもひとによって異なっている。それをすべて「差別用語」と見做し、「使うべきでない」と云い切るなら、言語文化はきわめて貧しいものとなっていくのではないか。

 もちろん、差別を容認しようというのではない。ただ、そうやって「差別用語」を切り捨てていったところで、差別はなくならないと思うのである。

 どんな言葉であれ、差別的な文脈において使えば差別的なニュアンスを含む。たとえば、外国で外国人からせせら笑うようにして「この日本人が」といわれたら、多くのひとが不快だ、差別されたと感じるのではないか。この「外国人」というのも、ある種差別的な言葉だといえなくもない。

 ぼくの結論はこうである。結局のところ、ある固有の「差別用語」というものがあるわけではなく、差別的な使い方があるだけだ、と。どんな言葉であれ、そうしようと思えば差別的に用いることができるのだ。

 だからといって誰かが不快に思う言葉を好んで使う必要はない。しかし、もし実際に使う必要があったなら、そしてそれを差別的でない文脈で使えるなら、ぼくはそれを使うことをためらわないだろう。そういうことである。

 日本に根強い外国人差別があることはネットを見ていればあきらかだと思うが(もっとも、ネットが世論を代表すると思い込むこともいけない)、だからといってある言葉を意図的に葬ることに加担したくはない。

 ただ、この場合は、放っておけば自然消滅する性質の言葉であるように思われる。上記引用先のひとと同じく、ぼくも無理に「バカでもチョンでも」などといおうとは思わない。もともとどうにも品が良くない言葉ではあることだし。

 いまの時代、あえてこんな古びた言葉を用いているのは大半が差別的意図を持っている人間であるように思える。そういう人間にとってこと言葉はまさに「差別用語」だろう。が、それは言葉の問題ではない。問題はどこまでもそれを使う人間の心理にある、と思うのである。