あなたの「正しさ」は本当に正しいですか?


 さっきまでラジオで「正しさ」と「優しさ」のバランスが大切だよね、という話を延々としていたんだけれど、記事にまとめてみる。

 どこから書きはじめたらいいのかわからないのだけれど、まあ、ようするに「正しさ」って本当に正しいのか、という話をしたいわけです。

 世の中には色々なレベルの「正しさ」がありますよね。たとえばひとには礼儀正しくあるべきだ、迷子の子どもを見たら助けてあげるべきだ、といった道徳的な「正しさ」から、世界中の思想家によって検証され認められた「正しさ」もある。それをこの世界の「理」と呼んでもいい。

 ただ、その「正しさ」がすべてだとは、ぼくにはやはり思えないんですよね。もちろん、「正しさ」が無意味というわけじゃない。「正しさ」が真っ当に実行されている社会であるからこそ、ぼくたちは街を歩いていても突然強盗に殺される心配をしなくていいわけだ。

 しかし、同時に「正しさ」だけでは世界は動かないのではないか。否、むしろ「正しさ」だけで出来上がった世界はどこか狂っているのではないか。そういうふうに思えてならない。

 で、そこで必要とされるのが「優しさ」、いいかえるなら「情」なのでは、と考えるんですね。

 そうだな、たとえば、ここに凶悪殺人犯がいるとする。そして世界のあらゆる「正しさ」が、政治家が、哲学者が、思想家が、その殺人犯の悪を証明しているとする。これ以上生かしておいては正義に悖るのみならず、この世界のためにならない、そう確認されているとする。

 でも、それでもなお、我々はその殺人犯を憐れむことができる。「殺してしまうのは可哀相だよ」ということができる。これが「優しさ」だと思うのです。

 何が本当に「優しさ」と呼ぶにふさわしいのか、それは単なる「甘さ」とどこが違うのか、それはまだぼくにはわからないけれど、でも世界には「優しさ」が必要だと思えてならない。

 樹なつみさんの『OZ』という漫画に、悪の天才少年科学者みたいなキャラクターが出てくるんだけれど、主人公がかれに「お前にはひとつだけ欠けているものがある」みたいなことをいうんですね。「それは憐憫の情だ」と。

 この台詞は非常に印象的で、いまでも憶えている。つまり、いかに完璧な頭脳を持っていても、憐憫の情を持たない人間は完全ではないということだと思う。

 チェスタトンは「狂気とは理性が無くなった状態ではなく、理性以外何も無くなった状態である」といいましたが、まさにそれは至言だなあ、と感じます。

 「正しさ」は、「理」は、言葉にしてひとに伝えることができるという性質を持っています。むしろ、言葉にできなければ、それくらい論理的でなければ「正しさ」とはいえないでしょう。

 でも、ロジックだけが世界を動かしているのか? その点で、ぼくにはどうしようもなく疑問があるのです。現実に「正しさ」が解決できない問題が人間世界には山ほどあるわけですよね。なぜなら、人間はそれほど正しくもなければ偉くもない生きものだからです。

 呑んではいけないとわかっていても酒を呑んでしまうことがあるし、そうしてはならないと思っていても恋人を裏切って浮気したりしまうことがある。また、働かなくてはならないとか、勉強しなくてはならないとわかっていてもサボってしまうことだってある。

 そういうとき、「正しさ」はひとを責める。なぜお前は「正しさ」を全うできないのか、と。「正しさ」が正しいことがわからないのか、と。そうではないのです。そうではなくて、ただ「正しさ」に従うだけの強さがないだけなのです。

 しかし、「正しさ」はひとを赦さない。なぜなら、それは疑問の余地もなく正しいから。「正しさ」はやがてひとを追い詰めるでしょう。否定するでしょう。お前のあり方は間違えている、是正せよ、と。それでも是正できないひとの哀しさを、「正しさ」は理解しようとしない。

 そのとき、それは、その「正しさ」は、本当に正しいのでしょうか。ぼくはそのときこそ「優しさ」が必要とされるように思うのです。

 もちろん、「優しさ」は「正しさ」に支えられていてこそ成り立つもので、おそらくは「正しさ」を欠いた優しさは甘えに過ぎないのでしょう。しかし、同時に「優しさ」を欠いた「正しさ」は暴走する機関車のようなものなのではないか。

 必ずしもいつも正しくあれない現実の人間を置き去りにするような正しさは、もはや本当の意味では正しくないように思う。

 たとえば、ひきこもりの問題がある。へやから一歩も出られない人間に、それは甘えだといってみても、何が解決するはずもない。お前は自分が親に迷惑をかけていることがわかっているのか、とか、いい年なのだから自分の力で生きていくべきだ、などといってみたところで、問題は何も前進しない。

 それらの異見はある種、正論ではある。しかし、この場合、その「正しさ」は、「理」は、現実に対して全く無力なのだと思うのです。そこには人間の弱さ、愚かさ、哀しさに対する理解と共感が致命的に欠けている。人間は他者に共感するからこそ人間なのではないか。

 栗本薫の短編に「星のない男」という作品があって、まあ、それほど傑作というほどの作品じゃありませんが、ぼくはかなり好きなんですね。

 ひたすら不運な人生を歩んだ末にさいごは惨めに殺されてしまう星の巡りの悪い男の話なんだけれど、この短編の最後で名探偵伊集院大介は呟きます。

 正確には憶えていないけれど、だいたいこんな内容だったと思う。かれを蔑むことはできない。なぜなら、何か星が違っていたら、かれが自分で、自分がかれだったかもしれないのだから、と。

 この、自分だってそうだったかもしれない、という想像力、他人を他人に終わらせないイマジネーションこそ、「優しさ」、あるいは「親切心」の根源ではないかとぼくは思います。

 自分は自分じしんの努力や克己によってすべてを成し遂げたのだ、自分はほかの怠け者や愚か者とは違う、と思うとき、そこには弱者の共感は生まれません。

 自分だって、ほんの少し違っていたらああだったかもしれない、そう考えて初めて、ひとは他人の弱さや愚かしさに対して共感することができるのではないでしょうか。

 落語の名人立川談志の有名な言葉に「落語とは業の肯定だ」というものがあります。人間は「正しさ」だけでは割り切れぬ、醜さ、愚かさ、小ささといった業を背負った生きもの――その業を肯定し、ひいては人間存在そのものを肯定する、それが落語なのだ、と。

 しかし、ぼくは思います。それはべつだん落語だけではなく、芸術すべてがそういうものなのではないか、と。「美」が、本当は美醜という区分を超えた概念であるように、「優しさ」は、人間の善も悪も光も闇も、すべてを飲み込んでしまうような概念であるはず。ぼくはそう思うのです。

 だからぼくは優しい作家や作品が好きです。スタージョン乙一の綺羅、星のような短編など、とても好きですね。そこにはひとを突き放す非情さとともに、ひとの傷口にそっと寄り添うような繊細な優しさがある。

 ぼくがよく取り上げる『らくえん』なども、とても優しい作品だと思います。ここでは、怠惰や悪徳までも含めた人間性そのものが、どこまでも力強く肯定されている。

らくえん 〜あいかわらずなぼく。の場合〜