皇帝か無か。


 たまには脈絡のない雑談でも。

 最近、よく人間の「野心」と「引き際」ということについて考える。ぼくにはあまり縁がない言葉だが、世の中には野心とか大望とかいうものを抱いて生きているひとがいる。

 そういうひとたちは、その大きな望みに突き動かされるようにして活動しているものだ。ある地位を得ればそのさらに上の地位を望み、ある栄誉を受ければまたさらに大きな栄誉を願い――かれは(「かれ」とは限らないが)そうやって生きていくだろう。

 しかし、当然、身の丈に合わないサイズの野望を抱けば身を滅ぼすことに繋がりかねない。そこで、自分がどこまでできる人間か、冷静に見極めることが必要になるわけだ。

 ただ、そうやって自分を客観視することは、地位が高くなり、栄誉が大きくなり、野心が肥大化するほどにむずかしくなっていくのではないだろうか。

 初め、何も持たない頃はほとんどのひとが小さな達成で満足できると思う。しかし、大きなものを手にいれればより大きなものがほしくなるのが人間心理である。「自分は意外にやれるのではないか」と思うにつれ、その野心は際限なく肥え太ってゆく。

 「もっと」とかれは願うに違いない。「もっと高く」、「もっと大きく」と。しかし――どこかで必ず限界は、破綻の時は来る。本人は「まだ行ける」「もっと行ける」と思っていても、とっくに限界の時は来ている、そういうことはよくあるものである。

 結局、野心の階段を登り続けるということは、果てしなくギャンブルを続けるようなものだ。引き際をわきまえているものだけが、名誉というコインを持ってカジノを出ることができる。

 ただ、実際に階段を登っているときには、途中で降りるということは相当困難なのだろうなあ。それは、勝っているギャンブルの途中で勝負から降りることがむずかしいことと同じ。結局、大抵の人間は負けるまで引き際がわからないのだ。

 そういうことを、ぼくは、国政参画を狙っているらしい某県知事や、球界返り咲きを考えていると思しい某野球監督を見ていて思う。はたしてかれらの野心は身の丈を過ぎてはいないだろうか、と。かぎりなく余計なお世話ではあるのだが、そう思わずにいられないのだ。

 しかし、同時にこうも考える。どうせたった一度の人生、行けるところまで行ってみるのも良いかもしれない、と。中途半端で終わるより、すべてを失ってしまった方がいっそ潔いではないか。

 最近ぼくがはまっている韓流時代劇『イ・サン』に、ホン・グギョンという青年官吏が登場する。実在の人物である。知略優れ忠誠厚い好漢なのだが、どうやらかれは将来、あまりに権力を集めすぎたため破滅し、若くして死ぬことになるらしい。

 いまの颯爽としたホン・グギョンを見ていると、かれほどの男がなぜ、とそう思わずにはいられないのだが、それもまたひとつの男の死に様ではあるのかもしれない。程いいところで退却することを考えるような人間は、頂点に立つことはできないことも事実なのだ。

 皇帝か、無か*1。大抵の場合無に終わるとしても、そういう賭博的な生き方は強烈にひとを惹きつけるし、また当人をも酔わせる。自分の分際をわきまえてそれなりの生き方をすることと、どちらが幸福ともいえないだろう、とは思う。

*1:かつてイタリアで活躍した野心家チェーザレ・ボルジアの旗にはこのように書かれていたそうな。