ダウンロードコンテンツ『400&4000』販売開始のお知らせ。


 さて――その昔、ぼくは「Something Orange」の前身にあたるウェブサイトで400字書評という書評シリーズを書いておりました。書くこと実に数百本、原稿用紙にして300枚以上に上りました。暇だったんですね。

 で、今回、ふと思い立ってその400字書評と、その10倍の分量で書いた「増刊海燕」こと4000字書評をひっぱり出してきて、合わせてダウンロード販売してみることにしました。具体的には400字書評と4000字書評が合わせて約280本、原稿用紙にして600枚弱入って300円です。

 iPadiPhoneで読むことも考え、テキストファイルとPDFファイル(縦書き及び横書き)をまとめてzipに圧縮してあります。

 内容的にはこんな感じ。

245 乙一「夏と花火と私の死体」★★★★ ASIN:4087471985

 震慄せよ。暗黒がここにある。「死者の一人称」という小説史上類例のない記述形式で綴られた表題作「夏と花火とわたしの死体」に、それは最も暗く静かな形で横溢している。これは言葉の最も正しい意味においての衝撃作である。ホラーという呼称すらこの傑作には適切ではない。これはただピュアな小説の魅力だけを追い求めた末にしか見出されることがない「純粋小説」なのだ。乙一が若干16歳の時に執筆されたというこの伝説的な短編を読むとき、どれほど辛辣な読者であっても、作者の才能に震え、黄金の未来を予感せずにはいられまい。その予感はやがて「A MASKED BALL」「しあわせは子猫のかたち」「華歌」「死にぞこないの青」といった小説技巧の極北を示す傑作群によって報われることになるのであるが、仮に乙一がこの一作だけを残して沈黙してしまっていたとしても、かれの英才を忘れられない読者は数多かったはずだ。

252 山田風太郎信玄忍法帖」★★★★☆ ISBN:4061817469

 しかしどのように細細と粗を探してみても、山田風太郎というひとだけはまさに怪物としか形容のしようがない。天才といってもまだ足りぬ。異才と称しても充分ではない。妖異をきわめるその着想、変幻をきわめるその叙述、そしてなによりも流麗というより他にない洗練されきったその筆致。日本の娯楽小説史上に、英才は他にもあるだろう。鬼才というべきもないことはないだろう。しかし山田風太郎のみはまさに別格である。余人と比較することすら考えられぬ。本書は、そのかれがこの世に遺した三十余作の「忍法帖」のなかの一作。物語の背景となるのは信長が畏れ家康が怯えた戦国の大英傑、老竜武田信玄が卒然として世を去ったその直後の2年間。主役を務めるのは信玄死すの大秘密を探る徳川の忍者とそれを迎え撃つ武田の家臣、そしてすでにこの世にないはずの大軍師、山本勘助──。武田の命運を賭けた凄絶無比の忍法戦の幕があがる。読むべし。

007 悲鳴と沈黙──きづきあきら氷が溶けて血に変わるまで」 ISBN:4901978187

 どういえばいいのだろう──そう、これはたぶん哀しみについての物語だ。鋭くとがらせた氷のナイフで胸を衝かれるような、そういった透明な哀しみばかりを煮詰めてできあがった作品を七編まとめてこの短編集は完成している。初単行本「モン・スール」で斯界に衝撃的な登場を果たしたきづきあきらの最新刊は、「月刊アフタヌーン」の四季賞を受賞した一作と、これまで彼女が同人誌に発表してきた六作から構成された薄い本である。技巧的に見ればこれはまだまだ稚拙な本だ。テーマの追求もどこか甘く、同人作品の枠を超えてはいない。

 そういった意味ではあくまでもアマチュア時代の作品にすぎないともいえるわけだが、それでもわずか10歳の少女の幼くも真摯な恋愛と、それを受け入れることのできない兄の葛藤を描いた「モン・スール」の源流はここにある。もしこの本を形作るキーワードをあげるとするなら、それはこんな風になるだろう。幼児性愛、近親相姦、性同一性障害、肉体的障害、そして強姦。本書からうかがわれるきづきあきらお好みのテーマとは、人間の性の暗い断片である。たとえば表題作「氷が溶けて血に変わるまで」を見てみよう。ここで取り上げられている題材は、兄と妹の「禁じられた関係」だ。

 同人誌の素材としてはあまりにもありふれた選択。この業界にあってはこの種の禁忌は欲情を駆り立てるためのツールにすぎない。おそらく作者がこの主題を選んだ理由もそれほど切実なものではないだろう。だがその選択の凡庸さにもかかわらず、また表現技巧の拙劣にもかかわらず、この作品はおどろくべき鋭さを見せて読むものの心の喉を切り裂く。この短編のなかでつづられているテーマは「忘却」である。幼いころ「子供の時の完全な興味本位」で「大人のドラマ」を真似て兄とからだを重ねた妹は、高校生になってからもその記憶を忘れることができずにいる。

 その一方で兄のほうは彼女とはうらはらにすべてを忘れ去ってしまったかのように見える。そんなかれを見ながら妹は思う。「毎日遊んだトランプのルール ともだちの名前 学校の近道 一生懸命見てたアニメのタイトルも あたしだっていろんな事を忘れてきた 問題は お兄ちゃんがあの時のことを覚えてるかどうかなんかじゃなくて あたしが「いま」お兄ちゃんを好きだって事なんだ」。しかしやがて兄もまた幼い日の情交のことを憶えており、ただむりやりに忘れ去ろうとしていただけだったことがあきらかになるのだ。それでは、かれが無理に記憶の井戸の底へ封印しようとしていたものはなんだったのだろうか。

 それは単に幼かった日の淫靡な記憶というよりは、「幼年期」というすべてが大人の道徳を超えてあいまいにまざりあった季節の思い出そのものだ。ひとはみな年をとり大人になることによって幼年時代の鋭くもあやうい感性を井戸の底深くへ投げ込み、その一方で社会の禁忌を学んで、自身の欲望をそれに合わせ伐採していくことをも知る。「どうして妹とは結婚できないの?」。この単純な問いに対してすぐに適切な答えを返すことができる大人がいるだろうか。正しい答えを知ることではなく、ただ尋ねることをやめること。それがたぶんひとが大人になるということなのだ。

 しかしこの作品の末尾では、兄と妹は井戸の底からあらわれた出た怪物に飲み込まれ、禁じられた関係性のなかへ堕ちていくことになる。この短編が象徴するように、きづきあきらの漫画は、ほとんどの場合、世間的な常識が相対化され、タブーが侵犯されて、平凡な日常の光景が戦慄的な危機を内包した別世界へと変わっていくそのスリルを題材に選んでいる。巻頭作「suicidenote」を見てみればいい。この作品の題材は双子と虐待と自殺である。これもまた同人誌の世界ではそれほどめずらしいテーマではない。

 思えば、同人誌即売会のあのずらりと机が並んだ空間のなかで、いったい幾千幾万の少女たちが無残に犯されていることか。しかし、そういった凌辱の海のなかで「suicidenote」は、その登場人物を冷ややかに突き放す視座によって光っている。そもそも冒頭からしてスリリングだ。「みなさま おせわになりました 本日をもってワタシ達は「人生」を閉店することにいたしました」。ここでふたりの少女が自殺という道を選んだ理由は作中ですぐにあきらかになる。「あたしとミチは双子だったけど ぜんぜんタイプが違ってたので 「パパ」はラッキー そりゃもう とっかえひっかえ楽しそうに」。

 自分自身の身に降りかかった惨禍に対する、この遠さ、この冷ややかさはなんなのだろう。ほんの数年前までの日本では、自分のかかえる苦しみを声高に嘆く物語が広く流行していたように思える。90年代に一般化した「アダルトチルドレン」という言葉に象徴される物語群は、いわばある種類の苦しみを特権化しようとする物語だった。この世界のなかにはある特別な苦悩を背負って生きている特別な人種が存在するというその思想の影には、自分を単なる世にありふれた凡人ではなく、ある特権的な苦悩を背負ったハムレットの末裔であると考えることで傷ついた心を癒したいと願う心性がひそんではいなかったか。

 しかし、その実、この世に特権的な苦しみなどというものはない。これまでこの世界で須臾の生を生き、そして死んでいったすべてのひとびとの苦しみはどれもことごとく対等である。生のあまりの無為さに飽いた貴族の苦しみと、生のあまりの過酷さを嘆く賤民の苦しみもまた等価。この世にあるあらゆる悲劇は、実はどこにでもころがっている「当たり前の悲劇」にすぎないのだ。そして「アダルトチルドレン」の時代もはや終わりを告げ、この本のなかでは、だれもみなひとり孤独に傷をかかえたまま、ほかのだれかに助けを求めることすらできずに煩悶している。

 ここに傷と痛みがないわけではない。だが、声高く苦しみを嘆くことはおそらく既に意味を失ってしまったのだ。あらかじめ悲鳴で満たされたこの世界では、もうどれだけ大声で叫んだところでだれの耳にもとどかないのだから。あたかもそのことを知り尽くしているかのように、きづきあきらはひとつの悲劇を特別視しようとはしない。ひび義父に犯される少女たちも、その瞳から光を奪われた女も、生まれるべき性をあやまって生まれてきた娘も、ここでは決して特権的な悲劇を背負う受難者として描かれはしない。それゆえここには劇的な救済もまたない。だが、いまやこれこそが僕たちの生きる世界のリアリティだ。

 いじめ、ひきこもり、少年犯罪、凶悪事件、学級崩壊、カルト宗教。現代に噴出するさまざまな問題は、日常そのものを崩壊させる悪夢というよりは、なだらかな日常生活のなかにぽっかりと穴をあけた落とし穴のほうに似ている。きづきあきらはその暗い陥穽を静かに覗き込み、平穏な生活のなかに紛れ込んだ痛みと誠実に向かいあっていく。そのためにこそ彼女はいくつものショッキングな題材を作品内に持ちこみ、死骸を解剖する検察医のように冷徹な視座でそれを切り刻んでいくのだ。必然的にその世界はやりきれない悲劇で満たされることになる。だが、それすらもやはり「当たり前の悲劇」。

 これまでこの地球でいったいどれだけのひとが生き死んでいったのか知らない。しかし、そのなかのひとりたりとも、ただ幸福だけを抱えて生きていったものはいないだろう。夢のようにしあわせな暮らしのなかにも、烏の羽のように黒い一瞬は紛れ込むものなのだから。幾千億の苦しみで塗りつぶされたキャンパスのうえに、さらにあらたな苦しみの色を塗り重ねていくこと、それをこそひとは「歴史」と呼ぶのだから。しかしそれでもなお、きづきあきらの世界に絶望はない。あるいは、彼女の技巧的にはいまだ拙劣な作品が強く激しく読むものの胸を打つのはそのためなのかもしれない。

 「SWEET SCAPE」と名付けられた巻末作に登場するアンドロイドの少女の笑顔を思い出す。いかなる意味においても人間ではなく、人権も持たず、尊厳もなく、声さえ発することはできず、ただ気まぐれに欲望をぶつける道具としてその機械のからだを凌辱されてきたロボットの、それでもなぜか幸福そうな笑顔を。そこに守るべきなにかを認めようとすることは見るものの感傷にすぎないのだろう。しかし他者の痛みを空想し自分勝手に共感するそういった心こそが、優しさと呼ばれるものの正体ではなかったか。とはいえ、この物語の最後では、その優しさもまた無残に断ち切られる運命にある。

 それでもそこで待つものは絶望ではありえない。それは祈りだ。この世界に渦巻くどす黒い悪意を前にしてあまりに無力なものたちが、自分の力のとどかないところにいるものにせめてすこしでもしあわせであってほしいと願うせつないほどかぼそい祈りが、きづきあきらの暗い世界をかろうじて救いあげている。そう、これはたぶん哀しみについての物語だ。しかし、哀しみについて語ることは、優しさについて語ることでもある。なぜならば、そのふたつの想いは、ひとのこころのなかで恋人同士のように分かちがたく結びつきあっているのだから。この祈りの物語たちが、いつかもっとかがやかしいなにかへと届く日が来ることを、僕もまたいま祈っている。

 キザですね。格好つけていますね。まあ、こういう原稿が280本入っていると思ってもらっていいかと。何しろ昔々の原稿なので情報的に古くなっている箇所もありますが、あえて修正はしませんでした。ご了承ください。

 サンプルはここから、商品はここからお求めください。なお、購入に際してはリンク先のサイトのダウンロード会員に登録する必要がありますが、クレジットカードは使用できます。

 今回は実験的な側面が強いのですが、もしこれがまともに行くようだったら、冬コミ発売の同人誌もPDF化して販売することを考えています。電子書籍というにはあまりにちゃちな代物かもしれませんが、よければご協力お願いします。

 ちなみにこのファイルが一本売れるとぼくに価格の85%、255円が入ります。電子書籍出版サイト「パブー」が話題になりましたが、「パブー」では横書きPDFしか製作できないうえ著者利益は70%。というわけで、自分でPDF作ってこのサイトで売るほうが有効だと思われます。

 単純計算で4冊売れて1020円。10冊で2550円。40冊で10200円になるわけですが――間違いなくそんなに売れないでしょう。せいぜい2,3冊程度の売り上げになると思われます。とりあえず1000円に達しないと支払いされないので、4冊は売れるといいなあ、と思っているのですが、むずかしいでしょうね。

 やっぱりただのファイルをぽんと置くだけでは、買う方も買いたいとは思わないだろうしねえ。今回は実験だと書きましたが、まあ、4冊売れれば実験成功といえるでしょう。それが達成されないとなると、「次」に繋がりませんね。売れるものを作るためには何か付加価値が必要かなあ、と。

 300円という値段もけっこう高いわけだけれど(このサイトでは最低販売価格が決められていて、たとえば10円で売るわけにはいかない)、それ以上にサイトにアクセスして登録して購入することが面倒くさいということもけっこうあると思う。勢いで買えるシステムじゃないんですよね。色々考えどころ。

 ではでは。