電子書籍での読書はクレジットカードでの買い物に似ている。


 その心は? どちらも、なぜか行為の実感が伴わない。

 iPadを購入してから数日、既に何冊ぶんかの本を読んでいる。読み耽っているといってもいいくらいなのだが――電子書籍の便利さ、手軽さ、素晴らしさに感激する一方で、予想どおりある種のむなしさもまたそこには付きまとうことをも実感している。

 というか、そこにあるものはむしろ「実感の欠如」である。ある一冊の本を読み終えたとき感じる、あの満足感、充足感、あれはやはり電子書籍では感じることができないもののようだ。

 電子書籍は紙の本に比べてはるかに手軽で、入手も管理も楽で、そのうえその文字は美しく読みやすくすらあるのだが――しかしどういうわけか電子書籍での読書はむなしい。すべてがむなしいというわけではないが、ある種のむなしさが付きまとう。

 内容がノンフィクションならまだしも、電子媒体で小説を読むということには何ともいえない虚無感があるのである。電子書籍で本を読むということは、ぼくたちが「読書」という言葉に込めるある種の感傷とは全く無縁のものなのかもしれない、と思わずにはいられなかった。

 読書とは読「書」なのであり、書というものが物理的に存在するからこそ成り立つ行為であるのだということ。ただ単にテキストデータを読み込む行為は、それは読書とはべつの何かであるという気がする。

 むろん、電子書籍は様々な意味で紙の本を上回っているのだが――そう、たったひとつ、一頁また一頁と読みすすめるにつれのこる頁が減っていき、そして遂に最後の頁にたどり着いたときの遂に読み終わったという満足感、あの、たとえようもない満ち足りた感覚はそこにはない。それがむなしいといえばむなしい。

 電子書籍に決定的に欠けているのは「いま自分は一冊の本を読み進めている」という感覚であるといえるだろう。電子書籍は、いくら読んでも読みすすめている気になれず、また読み終えても読み終えた気になれない媒体であるという気がする。

 ここで話がタイトルに戻るのだが、これはちょうど、クレジットカードでいくら買い物をしても「お金を使った」「買い物をした」という実感に乏しいことに似ていると思う。考えてみれば、読書とは視覚の行為であると同時に、触覚の行為でもあったのかもしれない。電子書籍が再現できていないのは手ざわりなのだ。

 もっとも、その読み進めただの読み終えたという感覚は単なる幻想であるに過ぎないのかもしれず、手ざわりなどしょせん不要のものであるのかもしれず、そしてまたぼくのいう「むなしさ」はいかにも時代遅れの思い込みに過ぎないのかもしれない。

 ぼくには一歳の甥がいるのだが、その甥っ子はぼくのこの「むなしさ」を理解しないだろう。来たるべき時代、この「電子書籍にはむなしさが付きまとう」が云々という言い草は、旧時代を生きた老人たちのセンチメンタリズムに過ぎないと見做されることになるだろうのだろうか。

 たしかに電子書籍は便利なのだ。そして、便利なほうにひとは進んでゆく。しかし、その便利さのかげで失われてゆくものがあることもまた、事実だ。べつだん、だからぼくは電子書籍がダメなのだ、というつもりはない。

 ぼくはその方面には詳しくないが、レコードがCDに変わったときも、ある種の「むなしさ」を感じたひとたちはいただろう。それにもかかわらず、人びとはCDへ、そしてiPodへと移っていった。それが事実。それが必然。ただ――ほんの少しだけ寂しくなることはたしか。

 しかし、感傷に耽るあまり、革命を過小評価することはやめておこう。まだよくわからないが、電子書籍には電子書籍なりの「読書の喜び」があるのだろう。失われてゆくものがあれば、得るものもある。そうして、生々流転、すべては新しくなっていくものなのだ。

 ただ、iPad電子書籍を手に入れて気づいたことは、紙の本のえもいわれぬ魅力である。iPadならば、ボルヘスの語る「バベルの図書館」を一台のマシンにしまうことも可能かもしれぬ。新たな時代の、新たな魔法。しかし、やはりそれは紙の本の魅力を完全に再現するものではありえない。

 紙よ、紙、書物の世界の老人よ、お前は何と素晴らしいのだろう。いま、人びとはあらためてお前の偉大さを思い出すことだろう。そのあと、すぐに忘れてしまうとしても――すくなくとも、ぼくは憶えている。紙よ、ありがとう。ぼくは、ぼくたちはいまでもお前を愛している。

 付記。

 以上の文章を書き終えてから気づいた。たしかに電子書籍には「読んでいる実感」は薄いが、それは悪いことばかりでもないと。

 電子書籍は、物理的な本が持つ圧力」がないぶん、紙の本より、読み始めるのが楽だと思う。それは電子書籍のひとつの魅力になっていくのではないだろうか。

 紙の本、特に細かい字がびっしりと詰め込まれたハードカバーには、ある種の「圧力」がある。それを「知」の圧力といってもいいかもしれないが、たぶんそんなご大層なものではないだろう。ただ単に何となく読みづらそう、と気が引けるというだけのことである。

 電子書籍にその「圧力」はない。驚くべし、テキストファイルならあの『黒死館殺人事件』もわりと気楽に読み始めることができるのだ(読み終えることはできなかったが)。『黒死館』の読みづらさは、内容そのものの読みづらさだけではなかったのだね。

 ひょっとしたら電子書籍は読書嫌いの子どもを減らすかもしれない、といまちょっと思った。読書という行為に付きまとう余計な重苦しさを、それは取り去ってしまうかもしれない。何しろ、テキストファイルで読むぶんには『とらドラ!』も『カラマーゾフの兄弟』もそれほど違っているようには見えないのだ(読めば違いはわかるでしょう。もちろん)。

 同じ小説であるそれらが全く別世界のものに見えるのは、結局のところ、違う棚にあり、フォントの大きさも違えば、装丁も違うからである。しかし、電子書籍で本を選ぶとき、そういう要素は、なくなるわけではないにしろ、はるかに小さなものになるだろう。

 電子書籍において、ある意味、本は権威を剥奪されるのだ。たいした内容でもないのにやけに重々しく感じられる本が世の中には時々あるものだが、そういう「重々しさ」の大半は実は本の物理的な重さに依拠していたりするものである。

 電子書籍はその手の「重々しさ」から本を解放するだろう。読書という行為は、ずっと気楽なものになるに違いない。これは、その内容が変わるという意味ではない。内容が同じものでも、相対的に気楽に読めるようになるだろう、ということだ。

 良いことだ。良いことだと思う。やっぱり電子書籍は魅力的だ。積読はさらにさらに増えるだろうが。