『幻獣狩り』第二章。


 第一章を読み、そしてそれでもなお見放さなかった少数の読者のために第二章をお届けします。物語にはようやく〈幻獣〉と呼ばれる妖しい不思議な存在の影がちらつきはじめます。そう、これは伝奇幻想小説なのです。

第一章.txt 直
第二章.txt 直


 第二章

 暗闇に溶けていた意識がしだいに浮上してくると、それまではっきりとは意識せずに済んでいた苦痛をあらためて感じ取り、かれは悶えた。その場でのたうちまわりたいほど、それでいて指一本動かしたくないほど、全身が痛む。かれは半ばもうろうとしたまま薄く眸をあけ、周囲を確認した。
 ここは――?
 一瞬、そこがどこなのか、そして自分が誰なのか、思い出せなかった。
 いったい、何があったのだろう、そしてどうしてここにいるのだろう――うとうとしながらそう思い悩んだが、意識が鮮明になるにつれ、その疑問は解けた。そこは、かれに与えられた自室であった。家具調度のたぐいも、巨大な本棚に並んだ何冊かの本にも、見覚えがあった。いま、かれは部屋の中央にあるベッドに寝かせられているようだ。しかし、そこから先の疑問は、いくら考えてみても、一向に解けなかった。
 自分は、なぜここにいるのだろう――?
 記憶をさかのぼってみると、はっきり思い出せるのは、道をふさぐ不良青年たちから友人を庇って暴行されたところまでであった。あるいは、そのあと、誰かに救出されて、ここに運び込まれたのだろうか。それにしても、からだの痛みは耐えがたい。湿布が貼られているようだが、ほとんど何の慰めにもならない。ずいぶん手ひどくやられたようだ。
 と、しずかに扉が開き、ひとりの少女が水を手に入室してきた。彼女はかれの姿を見ると、おどろいたように綺麗な眸を見ひらいた。
「ああ、悠希さま、目覚められたのですね」
「うん」
 そう答えただけで、口中に鋭い痛みが走った。どうやら、口のなかも切ってしまっているらしかった。少女――窓花はそのようすに気づき、あわてて枕もとに駆け寄った。
「ご無理なさらないでください。全身をそうとうひどく打っているんですから。骨折していないことは僥倖に過ぎないとお医者様は仰っていました」
「これくらい何ともないよ」
 悠希はなんとか上半身を起こそうとしたが、途端に腹部に激痛が走った。そのようすを眺めた窓花が、それ見たことかといわんばかりにため息を吐く。
「ご無理をなさらないでくさいといったはずですよ。本来なら全身打撲で入院していなければいけないほどの怪我なんです。少なくとも数日間は安静にしている必要があります」
「どうもそうらしいね」
 悠希は苦笑しながら、こんどはゆっくりとからだを起こした。それでも神経が悲鳴をあげたが、何とか我慢する。窓花が心配そうに顔を覗きこんできた。
「大丈夫ですか? いえ、大丈夫ではないことはわかっていますが、耐えられないようなら鎮痛剤を増やしてもらうよう頼んでみます」
「大丈夫。いや、大丈夫ではないけれど、十分耐えられるよ」
「そうですか」
 窓花は呆れ顔になった。
「全く、どうして男のひとってやせ我慢するんでしょうね。清照さまもそうでした。お熱が下がらないときも冗談など仰って――それで、まわりのものが心配しなくなると考えていらっしゃったのでしょうか」
「へえ。清照兄さんが」
 窓花から生前の清照のようすを聴くことは初めてだった。いまでもなお、悠希は清照という少年について何もしらない。自分とそっくりの――ただすこし痩せた顔つきをした少年の写真を見せられたことはある。そのときは、たしかに同じ街に自分と同じ血を継ぐ少年が実在するというよりは、何もかもが悪い冗談であるように感じられたものだ。
 清照。
 若干十七歳にして夭折し短い生涯を閉じた薄幸の少年が、この同じ家、同じ部屋で、何を考え、思い、悩み、生きたのか、興味はある。
「ひとつ訊いていいかな」
 悠希は以前からしりたいと思っていたことを訊いてみることにした。
「兄さんは、どうして亡くなったの?」
 窓花は息を呑んだ。亡き人のことを思い出したのか、沈痛そうに眉根を寄せ考えこむ。
「そうですね、いつかはお訊ねになると思っていました。お知りになりたいと思って当然です。双子の兄弟なのですものね。そう――清照さまは病死でした」
「病死?」
「はい。なにか不治の病にかかったということではありません。ただ、清照さまは生まれつきおからだが弱くて、ずっとベッドに寝たきりの生活だったのです。そして、ほとんど衰弱死のようにして亡くなられてしまいました。可哀想な方。とても、可哀想な方」
 窓花は記憶のなかの少年を見つめるかのように遠い眸をした。彼女にも、様々なかけがえのない思い出があるのだろう。悠希にはただ想像するよりほかないものだ。
 その白いなめらかな頬をひと筋のなみだの雫がしずかに伝わって落ちる。
「すいません」
 窓花はそれをぬぐいながらぎこちなく笑おうとした。
「痛い思いをしているのは悠希さまなのに、わたしが涙を流すなんて、おかしいですね。でも、清照さまが懐かしくて」
「兄さんのこと、好きだったの?」
 悠希が優しく訊ねると、窓花はその場に飛び上がった。
「な、何を仰るんですか! とんでもない。わたしは単なる使用人ですよ。身分が違います! それに、わたしはそんなふしだらな女ではありません!」
「ふしだらって」
 悠希は思わず笑ってしまった。現代の女子高生一般の語彙には存在しないであろう単語だ。
「そんなこと、気にすることなかったのに。きみみたいな美人に好かれたら、兄さんだって嬉しかったに決まっているよ」
「そんな――からかわないでください」
 窓花は茹だったように赤面した。
 この程度のことでこんな素直な反応を返す少女は悠希のクラスにはいない。どうやら、この少女はめったにない純情さを維持しているらしい。その容姿や、志望職業とあわせて考えると、ほとんど天然記念物並にめずらしい子だといえる。
 そうか。
 悠希はひとり心中でうなずいた。窓花は清照を慕っていたのだな、と。
 それが、単にその儚い一生を病床に過ごした少年に対する仄かな同情に過ぎなかったのか、それともより恋慕に近いものであったのかはわからない。しかし、ともかく窓花はこの部屋で寝台に横たわるその病弱な少年に対し、単なる仕事上の主人に対する以上の感情を抱いていたらしい。
 あるいはまた、清照のほうも、この執事としては秀麗すぎる容姿をもつ少女に対し、何かしらの恋心を持っていたのかもしれない。ほとんどこの部屋から出ることのなかったというかれにとって、恋情の対象となりえる人物は窓花以外にいなかったはずだ。もし、このふたりが、相思相愛のまま、互いに秘めた想いを告白することなく永遠に別れることになったのだとしたら、それは悲劇ではあるのだろうが、同時に、心、優しく慰められることでもあるようにも思われた。
 しかし、これ以上の詮索は無粋だろう。悠希は沈黙した。
「さ、汗をおかきになったでしょう。拭いてさしあげます」
 あきらかに話を逸らす目的で、窓花が話題を変えた。こんどは、悠希があわてる番だった。
「拭くって――きみが?」
「もちろんです」
 窓花は箪笥からタオルを取り出すと、やる気満々というようすで水に浸けた。
「さあ、パジャマを脱いでください。それとも、わたしが脱がしましょうか?」
「いや、困るよ相馬さん。きみみたいな女の子にからだを拭いてもらうなんて」
「どうしてです?」
「だって、その、照れくさいじゃないか」
 窓花は聞き分けのない弟を見るように悠希を眺めおろした。大きく息を吐き、ひと差し指を立てて悠希のまえで振ってみせる。
「悠希さま、使用人の分際で口はばったいことを申しますが、年長者のいうことは聞くものですよ」
「年長者って――きみは何歳なの?」
「十七歳です」
「それじゃ、同い年じゃないか」
「ええ。でも、悠希さまは十月生まれですよね」
「そうだけれど」
「わたしは七月生まれです。つまり、わたしのほうが年上です」
「そんな、横暴な――」
「いいから、裸になってください。昔の欧州の貴婦人は使用人のまえで裸になっても何の羞恥も感じなかったといいますよ。それが貴人というものです」
「ぼくは欧州の貴婦人じゃないよ! それに、からだを拭くくらい自分ででき――痛!」
 叫んだとき、肋骨の辺りに鈍痛が走り、悠希はからだを屈めた。窓花は、またも呆れたようすで強情な少年を見下ろした。
「ほら、痛いんでしょう? わたしが痛くないように拭いてさしあげますから、覚悟なさってください」
 タオルを手に持ったまま仁王立ちする。これには悠希も従わざるをえなかった。
「わかった。わかりました。でも、気恥ずかしいから手早くしてくださいね」
「はい、わかりました。パジャマ、脱がしますね」
 窓花は華奢な指でパジャマのボタンをひとつひとつ外していった。息が吹きかかるほどの近くで、美少女に服を脱がされる――非日常的なシチュエーションに、かれは頭がくらくらした。たちまち、少年の裸身があらわになる。そこには、大きく無残な青あざがいくつものこされていた。
 これはひどいな――悠希は他人事のように考えた。よく助かったものだ。
「そういえば」
 と、いまになってようやくそのことに思い至った自分の迂闊さにうんざりしながら、悠希は問い質した。
「ぼくはどういう状況で発見されたの? 誰がぼくを助けてくれたのかな」
 ああ、と窓花は頷き、タオルを絞りながら答えた。
「警察がその場に駆けつけて、気絶している悠希さまを見つけたのです。ごいっしょにおられたご友人の方が通報なさったそうで」
「そっか。七瀬さんが。でも、犯人は全員逃げちゃったんだろうね。すこし悔しいな」
 窓花は首を振った。
「いいえ――加害者は全員その場に倒れていました。命にこそ別状はないようですが、全員、意識不明の状態だとか。あれは、悠希さまがおやりになったのではないのですか?」
「まさか」
 悠希は愕然と息を呑んだ。
「ぼくひとりで三人を殴り倒せると思う?」
 窓花は首を振った。
「いいえ。でも、そうでなければ誰がやったんでしょう? ねえ、悠希さま、わたしには本当のことを仰ってもらってかまわないんですよ。悠希さまがやったとしても、罪にはなりません。状況から考えて、完全な正当防衛が成立します」
「いや」
 悠希は記憶を探りながら否定した。
「ぼくじゃない」
「そうですか――そうですよね。いくらなんでもまさか悠希さまが噛んだりするとも思えませんし」
「どういうこと?」
 悠希が質すと、窓花はしまった、というように口もとを押さえた。しかし、いちど口にだしてしまった以上仕方ないと覚悟したのか、渋々といったようすで先を続けた。
「実は、その、警察の方が仰っていたのですが、加害者三人のからだには、噛み傷があったそうなのです。それも、人間のものではなく――獣に噛みちぎられた痕が」

 ◆

 窓花が汚れた水を持って去っていくと、悠希はひとり部屋に取りのこされることになった。かれは唐草模様の天井を見つめながら、先ほど耳にした情報について考慮した。
 獣に噛みちぎられた痕、と窓花はいった。一地方都市に過ぎないとはいえ、何万という人びとが住む都会を彷徨する獣――それはどのようなものだろう。精々、犬か、猫か、ねずみか、そんなものしか思いつかない。仮にそうだとしてもやはりひとつ疑問がのこる。なぜ、その動物は悠希を噛まなかったのか? 悠希のからだの傷はすべて打撲傷だ。噛まれた痕などひとつもない。その獣は意識を失い横たわっているかれを無視し、不良青年たちだけに噛みついたとしか考えられないのだ。
 そうなると、想像しうる光景はひとつ。悠希が意識を失いその場に倒れたあと、一匹の獣がその場を通りかかり、悠希だけをのこして不良たちをたおし、その肉を噛みちぎった――殺さない程度に。しかし、それは、あまりに非現実的な光景であるように思えた。
 都市を徘徊するひと食いの怪物が、本当に存在するのだろうか? それとも、すべて何かの間違い、大げさな表現に過ぎないのだろうか? いくら考えてみても容易に答えに辿りつけそうにない難問であった。
 悠希は眸を瞑りさらに思慮に耽った。
 もし、そのような怪物がいたとして、その怪物が悠希を特別扱いする理由は何だろう? かれの肉が不味そうだとか? まさか。それとも、自分には自在に獣を操る悪魔的な援助者でもいるということだろうか。それなら、もう少し早く助けてくれても良さそうなものだ。
 眸を閉じていると、しだいに意識は遠のいていく。
 窓花からはもうひと眠りするようにいわれていた。彼女はすっかり悠希の姉の気分であるらしい。もうそろそろ長い夜があけ、朝がやって来る頃合いだが、そうなっても起き上がれそうにない。授業を休むことは気がひけるが、さすがに通学することは無理だろう。何しろ、自分の足で立って歩くことすら深刻な痛みを伴うくらいなのだ。
 そうしてどのくらいのあいだうとうととしていたことだろう。カーテンの隙間から差し込むひと筋の朝日に眸を射られ、かれはふたたび覚醒した。新たに追加してもらった鎮痛剤が効いたのか、からだはすこし楽になっていた。あいかわらず痛むことは痛むが、立ち上がれないほどではない。そのかわり、朝日が眩しかった。
 カーテンをもっときちんとしめよう。
 そう思い、立ち上がろうとしたとき、かれはその光が示す奇妙なものに気づいた。窓とベッドを結ぶ線のさきに置かれた箪笥の下に、何かがあるのだ。ほとんど光が届かないところにあるので、その正体はわからない。何か、白っぽいもの――何だろう?
 悠希は興味に駆られ、動かぬからだを動かして立ち上がり、その場所を覗き込んだ。たしかに何かが落ちている。手をのばせばなんとか届きそうだったので、かれはそうした。そして、ようやくそこから取り出せたものは、一冊の分厚い本――日記帳であった。
 そこには万年筆のものと思しい文字で、持ち主の名前が記されていた――神楽清照。
「清照兄さんの日記か!」
 悠希は思わず独語した。
 死者の日記――それじたいは単なる紙束に過ぎなかったが、どこか禍々しい「死」のオーラを放っているように感じられて、悠希は一瞬、怯んだ。
 しかし、考えてみればここは元々清照の部屋なのだから、かれの日記が落ちていたところでおかしくない。問題は、なぜこのような場所に落ちていたのかということだ。自然に箪笥の下に落ちるとは考えづらいし、そうだとしたところで、そのまま放置されていた理由がわからない。まるで意図してかくされていたようではないか。いや、あるいは本当にかくしてあったのかもしれない。清照は秘密に日記をつけていて、それを箪笥の下にかくしていた――その可能性はある。誰にもその存在すらしらせていない秘密の日記、そうなのだろうか。
 読んでみたい。
 悠希は全身の痛みすら忘れてそう思った。
 生者の日記であったなら、かれは決して開こうとはしなかっただろう。しかし、いま、この日記のもち主はこの世にいないのだ。かれが読んでみたところで、そう、大きな問題があるとも思えなかった。
 実は、悠希じしんは気付いていないが、あとから考えてみればこの瞬間こそ、かれの運命の転換点であった。もし、このとき、誘惑に耐え、この日記帳の頁を閉じていたなら、かれの人生はまた異なる道へ進んでいたかもしれない。
 しかし――
 かれはその道を選ばなかった。
 いま、悠希の指は亡き兄の日記をめくり、その最初の頁を開いてゆく。

 ◆

 その日記は、ちょうど1年前の日付けから始まっていた。悠希は最初の日付けから頁をめくり、読み進めていった。そこには、若くして病床に縛り付けられた清照の内心の独白が綿々と記されていた。

 8月10日

 今日より日記を付けることにする。誰にも見せない秘密の日記だ。箪笥の奥にかくしておくことにしよう。かくし場所としては少々心もとないが、この部屋にはほかにかくせる場所もない。もし、この日記を読んでいるひとがいたら、どうか、このまま頁を閉じてもらえないだろうか。ここにはぼくの秘密を記すつもりだから。

 8月11日

 今日は体調が良い。そとに出て太陽の光を浴びる。日の光というものは本当に素晴らしい。ぼくのからだに巣くう病魔も浄化されていくように思える。もちろん、都合のいい錯覚に過ぎないけれど。この呪われたからだはいつまでまともに動いてくれるだろうか。あと一年か、二年か――そんなものではないか。二十歳までは生きられないのではないかという気がする。こんなことを書くと窓花は怒るだろうが、それがぼくの正直な実感だ。

 8月12日

 体調は悪くないが、そとは雨のため外出できず。残念。それにしても、日記を書いてみると、ぼくの人生にはほとんど書くことがないことに気づく。これでは、ネットを通して日記帳を手に入れた意味がない。自分の人生の記録になればと思って書きはじめてみたのだが、ぼくには記録するべき何もないということになるだろうか。全く、つまらない人生だ。

 8月14日

 体調悪化のため、一日日記を休む。本当にいつ悪くなるかわからないからだだ。自分のからだながら、できそこないというしかない。もし、ぼくにひとの半分の健康があったなら、ひとの倍も熱心に生きるのだけれど。そうだったなら、窓花にこの想いを伝えることもできたかもしれないと考えることは、病者の夢想としても僭越に過ぎるだろうか。
 窓花。彼女は昨夜、一晩中枕もとにいてくれた。彼女もすこしはぼくのことを好いてくれているのだろうか。それとも、ただ同情しているだけなのか。あるいは執事見習いとしての職務意識からぼくに仕えているだけなのか。いずれにしろ、窓花には感謝するしかない。彼女はぼくの唯一の希望だ。窓花のためにも、いつか健康を取り戻したい。
 だが、それは不可能だろう。

 8月15日

 特に何も出来事なし。退屈な一日。ネットと本のおかげで、時間を潰すことに困りはしないが、それでも退屈には違いない。書くこともなし。

 8月16日

 あいかわらず体調は悪い。発熱と、吐き気が、間断なく続く。
 やはりぼくはもうすぐ死ぬのだろうか。そうなのだとしたら、そのときまでに窓花にこの想いを伝えたい。しかし、それは赦されることだろうか。仮に奇跡が起き、窓花がぼくのことを受けいれてくれたとしても、ぼくはそのあと死んでいかなければならないのだ。ぼくの告白は窓花に呪いをかけることに等しいのではないだろうか。
 しかし、ぼくが死んだあと、誰もがすぐにぼくのことを忘れ去り、そのまま何事もなかったかのように暮らしていくかと思うと、たまらない。世界にぼくという名の傷跡をのこしたい。窓花に呪いをかけるべきか、否か――悩む。

 8月17日

 昨日はどうかしていた。やはり、窓花に告白することなどできない。死にゆくものが生きてゆくものを苦しめてどうなるというのだ。生きてゆくものの幸福を祈ることこそ、死にゆくものの最後の礼儀ではないか。しかし、それでは、ぼくはどうなるのだろう。誰にも愛されず、認められないまま、この冷たい屋敷で、厄介者として死んでいく、それがぼくの生まれてきた理由だというのだろうか。そうだとするなら神は何と非情なのだろう。いや、そもそもそんなものはいないのだろう。惨めだ。

 そこまで読んで、悠希は頁を閉じると、思わず嘆息した。
 そこには、富豪の家に生まれながら、ほとんど自分の部屋から出ることもできず、ただひたすらに病とたたかうことしかしらなかった哀しい少年の想いが切々と綴られていた。
 そしてそれは肉筆で書かれたものであるだけに、他愛ない内容であっても、異様な迫力を備えていた。そこに書かれていることは、どこか遠い世界で起こったことでも、まして架空の物語でもなく、真実、自分の肉親の身に起こったことに違いないのだ。他人事のように気楽に読めるはずもなかった。
 それでは、と悠希は思った。やはり、この世で自分がいちばん不幸だと思い込んでいたあの頃、同じ境遇に生まれながら、ひとり、両親のもとにのこされたという双子の兄に抱いたかぎりない怨嗟――あれは、筋違いのものに過ぎなかったのだな、と。清照もまた、べつだん、世界の幸福を独占していたわけでもなく、ひと並み以上の悩みと、苦しみを抱えた心やさしい少年に過ぎなかったのだ。
 そしてまた、ひとつわかったことがある。やはり清照は窓花に恋していたのだ。そのうえそれをいいだせずに苦しんでいたのだ。この先の日付けに、窓花に想いを伝える箇所があるだろうか。おそらく、ないだろう。兄はさいごまで秘めた想いをそとに伝えることなく死んでいったに違いない。そうだとするなら、双子の弟である自分だけが、かれのその慟哭をしっていることになる。
 ふたたび重いため息を吐き、悠希はぱらぱらと日記帳をめくった。この日記は、清照の死によって終わっているに違いない。夭折の少年の短い、薄幸な、哀しむべき一生、その最後の日々がここには記されているのだ。やはり、気まぐれに開いたりするべきではなかったかもしれない。そう思いながら、日々の記述に目を通していた悠希は、ある日の日付けに視線を奪われた。
 それは、最初の日から半年以上も経った日であった。その日の前日まではあいかわらず窓花への想いや脆弱な肉体に対する不満が綴られていたのだが、その日の内容は毛色が違っていたのだ。それは異様な内容であった。

 1月21日

 ぼくは怖い。恐ろしい。からだの震えがとまらない。臆病者ではないつもりだが、それにしても、この秘密はあまりにも重い。ああ、何ということをしってしまったのだろう。しらなければよかった。しらなければ、このままやすらかに死んでいけただろうものを。
 しかし、もうそれは赦されない。ぼくは選択しなければならないのだ。このままあと半年か一年で寿命を迎えて衰弱の末に死んでいくか、それとも、〈あいつ〉を受け容れ、新たな自分を手に入れるか――。
 いくら秘密の日記とはいえ、ひと目につく可能性があるものに、このことについて書いていいものか悩む。しかし、自分のなかだけに抱えておくことはできない。だから、あえて書くことにしよう。ただし、最も重要な部分はぼかして。
 先刻、ぼくは祖父から呼び出され、相馬に車椅子を押してもらってしばらくぶりに自室を出た。ぼくにとってはたったこれだけのことでも冒険だ。しかし、この日祖父の部屋で待っていたものに比べれば、そんなことは、問題にもならなかった。
 そのとき、そこで、祖父はぼくに〈あれ〉について話したのだ。神楽家第一の秘密であるという〈あれ〉について。ぼくは信じなかった。祖父も老耄したのかと思うばかりだった。しかし――ああ、そう、祖父は証拠を持っていた。祖父じしんの〈あれ〉を見せたのだ。
 それは、何と恐ろしい姿だっただろう! ひとに似ていたが、しかしやはりひとではありえなかった。その長くのびた爪、瞳のない、暗闇のような双眸と、なめらかすぎる肌――それは、恐怖そのものの具現のように見えた。そして、祖父はそれを〈ヴァンパイア〉と呼んでいた。〈あれ〉のなかでも強力な力を持つ一体だという。〈ヴァンパイア〉、その青ざめた呪われた顔を見た瞬間、ぼくの脆弱な心臓は止まっていてもおかしくなかっただろう。しかし、何とかぼくは耐え――そして、さらに一族の秘密を聞かされた。
 そのことについて、どこまでここに書いて良いのかわからない。しかし、それでぼくは初めて亜梨子のあのからだについて納得が行ったのだった。亜梨子――そうだったのか。可哀想な子だ。本当に可哀想な。あるいは筋違いの同情なのかもしれないが。
 とにかく、今日はここで筆を置くことにしよう。このことについてはあしたからまた書くことになるだろうから。
 ぼくの人生を変えるかもしれない神楽最大の秘密――〈幻獣〉については。

 読み終えて、悠希は首を傾げた。
 〈幻獣〉?
 〈ヴァンパイア〉?
 何のことだろう。まるでこの日から日記が幻想小説に変わってしまったかのようだ。
 あるいは、長年の病床の日々に耐えかね、遂に悠希の精神は平衡を失って狂いはじめたのだろうか。しかし、その前日までは、日記の記述は全くの正気としか思えないものなのだ。それとも、ひとに見られたときのことを考え、何らかの出来事を隠喩のかたちで表現しているとか。そうだとしたら、この〈幻獣〉だの、〈ヴァンパイア〉だのは何を示しているのだろう。また、亜梨子のあのからだ、とは? わからないことだらけだ。
 もしかしたら、この先の記述を読めばわかるかもしれない。推理小説ではないから、必ずしも納得のいく答えが待っているとは限らないが――それでも、もう読みすすめる手をとめることはできそうになかった。
 悠希はさらに頁をめくろうとした。
 と、そのとき、ちいさなノックの音がかれの耳を叩いた。あわてて机のなかに日記をしまい、返事をする。窓花かと思ったが、返ってきたのは予想外の声音だった。
「お兄ちゃん、あけていい?」
「なんだ、亜梨子ちゃんか。どうぞ、入ってきて」
「はい」
 可憐な声で返事をして、亜梨子が入ってきた。
 十か、十一、そのくらいの年齢と思しい花のように可憐な少女だ。もう既に純粋にイノセントでありえる季節は過ぎて、しかし思春期の嵐にはまだすこし早い、そんな、微妙な年ごろ。窓花のように完璧に整った造形をしているわけでこそないが、十分に愛らしい顔立ちで、じっと真っ直ぐにひとを見つめてくる深い湖のように澄んだ瞳が印象的だ。わずかに茶色がかったくせ毛の髪を、背中のあたりまでのばしており、時々、指先でそれをいじる癖があるようだった。
「遊びのお誘いかな?」
 悠希が水を向けてみると、亜梨子は小さく首を振った。とことこと歩み寄り、大きなベッドの端に腰掛ける。
「悠希お兄ちゃん、お怪我したんでしょう? 痛くない?」
 悠希は微笑した。
 逢ってまだ数日の兄ではあるが、心配して見舞いに来てくれたらしい。
「ああ、大丈夫。痛くないよ」
 悠希が見栄をはって胸を叩いてみせると、彼女はただでさえ大きい眸をふしぎそうに見ひらいた。
「どうして? どうして痛くないの? 大怪我だったんでしょう?」
 悠希は苦笑した。どうやら、いいかげんな子供だましは通じないらしい。
「うん、本当は痛いよ。でも、大人になると、少しくらいの怪我で痛いなんていっていられないんだ」
「ふうん」
 亜梨子は納得いかなそうな表情でぶらぶらと華奢な足を揺らした。
 悠希はわずかな疑いを込めてその姿を見つめた。清照の日記に書かれていたことが真実だとしたら、この可憐な妹も何かしら秘密を抱えていることになる。それも、何か肉体にかんすることだ。いったいこの小さな繊弱そうなからだのどこにそんな秘密が存在するというのだろうか。
「ね、お兄ちゃん」
 と、亜梨子はあごに指をあてて訊いてきた。
「本当はどう思っているの?」
「何を?」
「えっと」
 亜梨子はどのような表現が適当か、一人前に思い悩むように見えた。
 いや――と、悠希は考えなおした。女の子はこの年ごろには十分一人前なのだ。あなどってはいけない。いつまでたっても子どものままの男どもとは違う。
「何だろう」
 かれは質問を先回りしてみることにした。
「この家のこと?」
「ううん」
「おじいさまや叔父さんたちのこと?」
「違う」
「じゃ、何かな」
 亜梨子は湖面のような眸を伏せた。
「そう――あのね、お母さんのがああいうふうだってこと」
 悠希は息を呑んだ。
 それは、この神楽家の最大の禁忌であるはずだった。べつだん、ふれることを赦されないというわけではないが、最高の注意を払ってふれなければならない話題。亜梨子はそのことを理解していないのだろうか、ただ無邪気にいいだしただけなのだろうか、そう思って見てみると、彼女の顔は真剣だった。
「お母さんのことか」
 こんどは悠希が言葉を選ばなければならなかった。
「そうだね。正直、少し哀しいよ。せっかくこの家に戻ってきたのに、あの状態なんじゃね。でも、仕方ないことだし、受け容れるつもりだよ。ぼくにできることが何かあればいいんだけれど――」
「優等生だね」
 亜梨子の柔らかな唇が思わぬ辛辣な言葉を紡ぎ出した。
「本当にそう思っているの? お母さんのこと、本当は嫌いなんじゃない? だって、お母さん、お兄ちゃんのことを――」
「亜梨子ちゃん」
 悠希は亜梨子の言葉をつよくさえぎった。
「嫌いなんかじゃないよ。ぼくを産んでくれたひとだからね。とても感謝している。お父さんが亡くなったあと、ああいうふうになったと聞いているけれど、それもとても可哀想な話だよね。だから、怨んだり、嫌ったりなんてしていないよ」
 そう、いまはもう、と悠希は心のなかで付け加えた。かつては、激しく怨み、憎み、もし逢うことがあったなら必ず殺してやると、そう思い込んでいたものだが。あのひとに逢っていなかったら、いまでもそうだったかもしれない。あのひと――「先生」に。
「そう」
 亜梨子はうなずいた。
「そうだよね。お母さんだもんね。でもね、亜梨子はほんとはちょっと嫌い。だって、お母さん、亜梨子のこといつも子ども扱いするんだもの」
「うん。そうだね」
 ようやく奇妙に緊迫した空気が溶けて、和やかな雰囲気になった。
「じゃ、行くね。お兄ちゃん。やせ我慢は程々にね」
 おどろくほど大人びたことをいって、亜梨子は去っていった。その名の通り、不思議の国の少女アリスであるかのように。悠希は部屋にひとり取りのこされた。亜梨子がたしかに去っていったことを確かめてから、あの日記帳を取り出す。
 ふたたび頁を開こうとし――そして、やめた。この先には、おそらくは何かしら謎のこたえがある。そのことはたしかだ。しかし、それを信じるか、否か、それはかれしだいなのだ。ここに何が書いてあったとしても、かれが信じることができないなら意味はない。いつかまた頁を開くときが来るかもしれないが、いまはとりあえず、この本を閉じたまま置くことにしよう。そう思った。
 このとき、悠希はまだ気づいていなかった。自分が、人生を決定的に変えるその分水嶺を超えてしまったことを。清照を変えた〈幻獣〉の秘密に、己もまた踏み込んでしまったことを。
 ひとはわれしらず人生を変える決定を下す。あとからふりかえってみて初めてその選択の価値をしり、自分がどれほど簡単に重大な決定を下してしまったのか悟って嘆くのだ。その嘆きはしばしばこう呼ばれる。後悔、と。
 悠希が兄の日記を読んだことを悔やまずに済むのか、否か、いまはまだ誰もしらない。

 ◆

 そうして一週間が何事もなく過ぎた。
 そのあいだ、悠希は退屈な日々を過ごした。ただひたすら静養しているしかなかったのである。最初の三日はベッドから起き上がることすらほとんど赦されず、ひたすらに本を読んで過ごした。この機会に、以前から読みたいと思っていた『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』を読み上げてしまったくらいだ。
 読書は、かれの唯一にして最大の趣味だったが、それにしても、やはり一週間も拘束されていると、いやになってくる。清照は何年もこんな暮らしをしていたのだと考えると、亡き兄の辛苦が忍ばれた。
 そのあいだずっと学校を休んでもいたわけだが、授業に遅れることは心配していなかった。学校で習うはずのことはほとんど既に頭のなかに入れてしまっているからである。
 それは悠希の特技だった。いちど読んだり聞いたりしたことをほとんど忘れないのだ。完全な記憶力というわけではないが、とりあえず、教科書の内容を暗記することくらいは全く問題ない。それをかれの聡明さだと捉えて称えるひともいるが、ただ脳が憶えることに特化しているというだけのことだと悠希は思っている。高校程度の授業をこなすことくらいは何でもないが、実社会では、おそらく通用しないだろう、と。
 しかしとりあえずいまは役に立つ能力であることは間違いなかった。だから、かれは部屋に閉じこもって、ひたすら本を読み、ときに亜梨子や窓花と話し合って時間を潰した。耐えること一週間――ようやく、主治医が外出を許可してくれた。
「気を付けてくださいね」
 窓花はくり返しそういった。
「全快したわけではないんですから。ただ、外出の許可が下りたというだけなんですからね」
「わかっているよ」
 悠希はこれもくり返し答えた。
「必ず気をつけるし、こんどはひと目のないようなところへも入らない。そんなことをしていたら必ずまた狙われるだろうからね」
「悠希さま」
 窓花の眸が真剣になった。
「心当たりがおありということですか? それは、まさか――」
「しっ」
 悠希は芝居めかした仕草で唇に指をあてた。
「たぶん、きみの思っているとおりのひとだよ。でも、何も証拠はない。ぼくに襲いかかった不良たちは、ほとんど正気を失って何か意味のわからないことをわめくばかりで、誰に指示されたかなんて、とても答えられる状態じゃないそうだね。あのひとにとっては、幸運なことだ。じっさい、運がいいひとだよ」
 街の不良たちを雇って、自分を襲わせたのが叔父の純二であることを、悠希は確信している。しかし、いま、かれを告発することはできなかった。よほどたしかな証拠がなければ、純二は逃げ切るだろうし、そうなった場合、窮地に追い込まれるのは悠希のほうだ。
 すべてはチェスなのだ、と悠希は思った。一撃であいてのキングを仕留めなければ、致命的な反撃を喰らうだろう。
 一週間ぶりに学校に通学すると、友人たちがかれを取り囲んでくれた。
「よう、ひさしぶりだな」
「どうしたんだよ? 一週間も休みやがって」
「ずる休みか? ずる休みだろう」
「いいなあ、おれも一週間も休んでゲームしてみてえよ」
「あほか。お前が一週間休んだら二度と授業についていけなくなるぞ」
 そのとき、ひとりの少女がひとの輪をかき分けて悠希のまえに立った。
「はいはい、どいたどいた。高坂先生にいちばん逢いたがっていたのはあんたたちじゃないよ。ほら、楓、あんたの王子さまがようやく帰ってきたんだよ。しゃっきりしなさい」
「う、うん」
 崎守洋子と七瀬楓であった。
 楓が悠希のまえに立つと、それまでのざわめきがうそのように辺りがしんとした。クラスの誰もが自分たちに注目していることがわかって、悠希は何とも面映ゆかった。
「あのね、高坂くん――ごめんなさい!」
 楓はいきなり頭を下げた。
「あたしのせいで大怪我させちゃって、本当にごめんなさい。あたしが、もうすこし早く警察を呼んでいたら、こんなことにならずに済んだのに。ただ口で謝っても赦してもらえないかもしれないけれど、お願い、謝らせて」
「そんな、べつに七瀬さんのせいじゃないよ」
 悠希は困惑した。この流れは想定していなかった。見ると、楓は既に涙ぐんでいる。あるいは、悠希が呑気に寝ていたあいだずっと悔恨に心引き裂かれていたのかもしれない。
「何度か高坂くんのおうちに行ったんだけれど、取り次いでもらえなかったの。だから、いま謝らせてほしいの。わたしひとり逃げちゃって、ごめんなさい」
「えっと」
 悠希が困惑していると、陽子が助け舟を出してくれた。
「ばかだな、楓。こういうときはな、ごめんじゃなくて、ありがとうっていうんだよ」
 楓はぬれた眸のまま、悠希を見上げた。ひとつうなずいてやると、泣き笑いの表情になる。
「うん。高坂くん、ありがとう。ほんとに、ほんとにありがとう」
「こちらこそ、警察を呼んでくれてありがとう。おかげで、なんとか生きて返ってこられたよ。危ないところに連れ込んだりして、ごめんね」
「ううん、こっちこそ――」
「そのやり取りは終わらないからやめろ」
 陽子は楓の頭にぽんとてのひらを載せた。
「さて、めでたしめでたし、一件落着、と。野郎ども、退屈な授業を始めるぜ」
「へい、姐さん」
「誰が姐さんだ!」
 陽子が男子生徒の背中を叩くと、叩かれた生徒は不満そうな目付きで彼女を見た。自分から野郎どもなんていいだした癖に、といいたことは悠希でなくてもわかっただろう。
 その日はそうしてごく平穏に幕をあけた。しかし、平穏に始まったものが、平穏に終わるとは限らないことは当然である。そのあとには思わぬ展開が待ち受けていたのだった。
 放課後。
 悠希は部活動に入部していないため、それほど下校が遅くなることはない。その日も、午後4時にはすべての授業が終わり、悠希は学校から解放された。もっとも、帰宅すればべつの問題が待ち受けているわけだが、あの事件が昨日の今日である。さすがに遊んで帰る気にはなれなかった。もし寄り道したりしたら、窓花に怒られることだろう。
 しかし、悠希は忘れていた。事件は、必ずしも学校のそとで起こるとは限らないということを。
 晩夏の、それでもなおダイヤモンドの煌きさながらに鋭い光に眸を細めながら、悠希が校外へ出ようとしたときだった。背後から少年の声がかれの背中を打った。
「神楽悠希だな」
 悠希はゆっくりと振り返った。
 そこに佇立していたのは、ひとりの制服姿の少年であった。靴の色から悠希と同じ二年生だとわかる。中肉中背、身長も、体重も、おそらく悠希とほとんど変わらないだろう。決定的に違っているのは、その表情だった。かれはその顔にどこか猫めいた、あるいは巧みないたずらを思いついた少年のような笑みを浮かべていたのである。まず端正といえる容姿のもち主だったが、その表情と、寝ぐせがついたままの頭髪のせいで、どうにも子どもっぽい印象になっている。一応も二応も進学校であるこの高校にはめずらしいタイプかもしれない。
「そうだけれど、きみは?」
 悠希が問うと、少年は舌打ちのリズムに合わせて人差し指を振ってみせた。
「問われて名のるも烏滸がましいが、そう、ひと呼んで〈カドプレパス〉の夜月忍とはおれのことよ」
「夜月? 〈カドプレパス〉?」
 悠希が鸚鵡返しに問い返すと、忍は不満げに舌打ちした。
「何だよ。〈四家〉の人間のくせに夜月をしらないのか? 本当に何もしらされていないんだな。それに、そのようすを見るかぎり、まだ〈調教〉は愚か〈契約〉も終わっていないようじゃねえか。〈協定〉さえなければおれの〈カドプレパス〉の餌にしてやるところだけれどな」
「悪いけれど、きみのいうことはまるで理解できない。ぼくはこれから帰宅するところなんだ。用事がないようなら、失礼するよ」
 悠希はいい捨てて、きびすを返そうとした。
 この夜月忍と名のる少年がどうにも気が合わなそうなタイプであることは、ひと目見てわかった。かれは大抵の人間に対しなるべく親切かつ丁寧に振る舞おうとする性格ではあったが、聖人ではない。突然話しかけてきて意味がわからないことを延々と並べ立てる人物に好意的ではありえなかった。
「待てよ」
 忍は素早く悠希の進路をさえぎり、あの気に食わない動物的な笑顔を浮かべたまま、爆弾を投げかけてきた。
「おれの話は聞いておいたほうが得だぜ。あんただってしりたいんじゃないか? そう、〈幻獣〉のことを」

 ◆

 あたかも鋭い刃物で中心から真っ二つに断ち切られたような下弦の月が、夜空から地球を見下ろしている。窓越しにその月を見るともなしに見ながら、悠希は夜の月という名を持つ少年のことを考えていた。
 あのあと、夜月忍は思わせぶりなことを語るばかりで、結局何ひとつ教えてはくれなかった。〈契約〉がどうの〈不可侵協定〉がどうの〈幻獣調教〉がどうのと、意味ありげな言葉を並べ立てはするのだが、悠希にはほとんど意味がわからなかったのである。話すうち、少年の目的が悠希に情報を与えることではなく、むしろかれから情報を引き出すことだとわかったので、悠希は会話をやめて立ち去った。
 しかし、それでもなおひとつわかったことがある。〈幻獣〉とは、清照の病床の夢想の産物などではないということだ。何かしらの幻想ではあるかもしれないが、すくなくとも何人かの人間に共有されている幻想なのだ。
 悠希はいくらかためらいながらも、ふたたび清照の日記帳を開いた。あるいはこのなかに、夜月忍の言葉の意味するところが記されているかもしれない。〈幻獣〉――〈契約〉――〈協定〉――〈調教〉――〈ヴァンパイア〉――〈カドプレパス〉――これらの意味不明の言葉を一本に結ぶアリアドネの糸がどこかにあるはずであった。もしかしたらそれはやはり痴者の妄想であるのかもしれないが、それにしても、そのことを確かめずにはいられなかった。
 悠希は日記からそのことに関係がありそうな箇所ばかりを読んでいった。

 2月21日

 あれから一ヶ月も経ったが、ぼくはようやく生きることに決めた。この身に睡る〈幻獣〉を受け容れるのだ。ぼくの肉体にひそむ〈幻獣〉の名は〈オルトロス〉。双頭の妖犬。この〈幻獣〉はぼくに生きる力をくれるだろう。そう、ぼくは生きたいのだ。いままで慫慂と死を受け容れるようなことを書いてきたのは、あれはすべてうそだ。たとえこの世のものならぬ怪異にすがり、この身を妖魅に捧げてでも、生きたい。そして窓花をこの腕に抱きたい。窓花――ぼくが健康を取り戻したら、彼女はどんなに喜んでくれるだろう。
 ぼくはいまから祖父のところへ行く。そして自分のなかの〈オルトロス〉を呼び覚ましてもらう。この〈妖犬〉は祖父の〈吸血鬼〉に劣らぬほどの力を持った〈幻獣〉だ。そのぶん〈調教〉はむずかしいが、〈契約〉を結ぶことくらいはできるだろう。
 ああ、しかし――正直に書こう。ぼくは怖い。ぼくに〈妖犬〉を御すことができるだろうか? もしできなければ、〈幻獣憑き〉という破局が待っている。そう祖父はいっていた。それはあるいは死よりももっと暗い運命かもしれない。
 が――とにかくいまは、恐怖に打ち勝つしかない。なぜならぼくは生きたいと思ったのだから。さあ、ぼくのかよわい足よ、いまだけは動け、車椅子に乗って祖父の部屋へ行くのだ。儀式が成功すれば、お前も力を得ることになる。
 生きつづけられるのだ。

 2月22日

 儀式は成功。〈妖犬オルトロス〉我が身のなかで目覚めり。もう引き返すことはできない。ただ前に進むことしか。窓花。どうか心弱いぼくを助けてくれ。きみのために、ぼくは生きてみせる。

 2月28日

 何とか生きている。
 祖父に〈オルトロス〉を呼び覚まされてからこの一週間、いままでを上回る発熱――それは本来、人間のからだが耐えられないほどのものだ――と、悪寒と、苦痛が襲いかかってきて、日記を付けることもできなかった。しかしどうやら峠は超えたようだ。〈契約〉を結んだ〈オルトロス〉はたしかにぼくのからだに根づいてきている。
 助かることに、見るからに恐ろしいこの獣は、しかしぼくがそうしようと望まなければ誰にも見えない。いや――神楽の家族はべつだ。祖父、そして亜梨子はやはり〈幻獣〉を宿しているから、ぼくの〈オルトロス〉を見ることができる。
 純二叔父さんはどうなのだろう? あのひとも神楽の血をひいてはいるのだ。〈幻獣召喚〉していてもおかしくはない。ぼくが生き延びられたとしたら、あのひとと対立することになるかもしれない。あのひとは、愚かしいことに神楽の財産を狙っているのだ。既に十分以上の資産を持っているというのに、まだ欲しいらしい。しかし、かれを笑うことはすまい。ぼくだって、生きたいという我欲のために動いていることは同じなのだから。
 すべてはエゴイズム。窓花を抱きしめたい。ぼくの望みはそれだけだ。決して世界とか正義のために〈オルトロス〉を覚醒させたわけではない。ぼくはちいさな人間だ。とてもちいさな。しかし、もう引き返すことはできないし、そのつもりもない。
 ぼくはたとえ純二叔父さんを殺してでも生き延びることだろう。

 その後の日記には〈オルトロス〉という名の〈幻獣〉と〈契約〉を結び、力を得たという内容のオカルトめいた記述が続いていた。〈幻獣〉とは何なのか、そのことはそこまで読んでもやはりわからない。霊? 魔物? 怪物? 悠希はしだいに清照の書くことを信じかけている自分に気づいた。なんといっても、誰にも見せるつもりのない日記なのだ。誰かを騙すつもりで書かれているはずがない。よほど手の込んだトリックでないかぎり。
 そしてこの日記を信じるなら、玄宗だけではなく、亜梨子もまた〈幻獣〉という力を手に入れていることになる。あの幼い少女がそのような怪異に関係しているというのか? すぐには信じがたい話だった。やはりすべては病者の妄言に過ぎないのだろうか?
 悠希は頁を進めていった。

 3月18日

 怖い。
 どうしよう、怖い。
 〈オルトロス〉を〈調教〉できたと思ったことは間違いだった。かれの力は圧倒的だ。とても、ぼくなどに制御できるものではない。〈オルトロス〉は自由を求め、いまもぼくの横で狂奔している。ぼくにできることは、精々、それをとどめることくらいだ。
 〈オルトロス〉はぼくを支配しようとしている。厭だ。ぼくは〈幻獣憑き〉になどなりたくない。〈幻獣遣い〉になりたいのだ。〈幻獣〉に支配されたものの末路は悲惨だと聞いている。〈協定〉に基づき、〈四家〉の刺客に殺される。それも仕方ないことではあるのだろう。〈幻獣憑き〉は放置すれば欲望のままにひとを殺し、犯し、喰らうのだから。
 どうするべきなのか――いや、わかっている。精神の力のすべてを使ってこの〈妖犬〉を統べるのだ。それ以外にぼくが生き延びる方策はない。ぼくが〈妖犬〉に敗れかけていることを祖父にもしられてはならない。もし、しられたなら、祖父はあっさりぼくを始末するかもしれない。そのくらいのことは考えるひとだ。
 生きのびる術はひとつ。
 勝利あるのみ。

 3月24日

 〈オルトロス〉の力は増々強くなってきている。祖父から教わったあらゆる〈調教〉の手立てが通用しない。やはり、この〈妖犬〉はぼくなどの手に終えるものではなかったのだ。超越の力を持つ神話の獣を、どうしてぼくが御しえるはずがあるだろう? 自分の意思がしだいに〈妖犬〉に支配されていくのがわかる。ぼくは〈幻獣憑き〉になろうとしているのだ。
 この日記は誰も読まないものだから、正直に書こう。
 近ごろ、窓花を見ていると、その白いからだを組み敷いてめちゃくちゃに犯したいという欲望が沸き上がってくる。恐ろしい欲望だ。自分のなかに、こんな欲求があるとは思ってもいなかった。ぼくは清純な窓花をこそ愛していたはずなのに、それなのに、心の奥底から何か途方もなく暗い欲望が湧きいでてきて止まらないのだ。まるで、心のなかに暗黒の泉があるように。
 何もかも〈妖犬〉の力なのか、それとも、ぼくじしんの邪悪さなのか――それはわからない。いずれにせよ、ぼくは〈妖犬〉と戦わなければならない。そして勝利しなければならない。
 さもなければ――待ち受けているものは破滅だ。

 その先の日記は、玄宗が目覚めさせたという〈オルトロス〉という〈幻獣〉と清照の、壮絶な闘争の記録だった。それがおそらくは精神の闘争であることは、事情をしらない悠希にもわかった。あるいはすべての病床の夢に過ぎないのかもしれないという思いは消えなかったが、それでもなお、その凄絶なたたかいのありようは悠希の心を捉えた。特に、ときにその端正な文字が乱れ、崩れているときなどは、清照の内心の葛藤がそこからも窺いしれるようで、辛かった。
 しかし、それでもなお悠希は憑かれたように頁をめくる手を止めなかった。

 4月14日

 今朝、祖父に呼び出された。〈オルトロス〉の〈調教〉は進捗しているか、と。あきらかに一抹の疑いを孕んだ目つきだった。ぼくは「はい」とおとなしく答えたが、祖父が信じてくれたかどうかはわからない。おそらく、信じていないだろう。
 〈オルトロス〉はいよいよぼくを支配しようとしている。心の奥底にしまいこんだ数かずの忌まわしい欲望が浮かび上がってくる。きのうなど、あろうことか窓花を絞め殺し、その亡骸を陵辱し、そして喉もとの肉を喰らうという夢を見た。それはぼくじしんの欲望だ。彼女をひとかけらのこさず自分のものにしたいという、赦されざる欲望が表に出てきているのだ。いまさらに思う。ぼくはこんなにも穢らわしい人間だったのか、と。このまま〈オルトロス〉に支配されたなら、ぼくは窓花に襲いかかりかねない。そのまえに決断を下さなければならないだろう。
 しかし、まだ敗北を認めるつもりはない。最後まで希望を捨てずに戦うつもりだ。それがどれほど過酷なものになろうとも。

 5月1日

 窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花、窓花。
 窓花がほしい。彼女を抱きたい。この欲望は何度自慰しても治まらない。いままではほとんど性欲らしい性欲も覚えなかったのに、からだが健康になるにつれこの種の欲望も復活してくるとはおかしなことだ。この手のなかに、白いどろりと濁った精液を吐き出すたび、その欲望は強くなっていくかのよう。もう長くは耐えられないかもしれない。精々、あとひと月か、ふた月――それで、ぼくは〈幻獣憑き〉に堕ちるだろう。
 ああ、しかし、この手に窓花を抱けるのならそれも良いかもしれない。あのなめらかな肌をこの指で感じ取れるのなら。
 いや、ぼくは何を書いているのだ。そんなことは決して赦されない。窓花だけは傷つけてはならない。

 5月9日

 日記がすっかり異常者の独白のようになってきているようだ。これ以上日記を付けることを断念するべきか。しかし、ここに告白していなければ、内から湧き出る欲望のためにおかしくなりそうだ。
 そう、あのことを書いておかなければならないだろう。ぼくは生涯捨てることはないだろうと思っていた童貞を失った。女と寝たのだ。それも選りによってあのひとと。あのひとのからだは柔らかかった。あのひとのなかに精を放つことは果てしない穴に落ちていくことに似ていた。どうやら、あのひとも満足してくれたようだ。良かった、というべきだろうか。
 以前と異なり、ぼくのからだは完全に健康を取り戻している。しかし、そのぶん、精神は均衡を失っているかもしれない。以前ならば考えられもしなかったことだ――あのひとを抱くなどとは。

 6月22日

 万策尽きた。
 どうやら、この戦いはぼくの敗北であるらしい。窓花に襲いかかり、その白い肌を陵辱したいという欲望は耐えがたいほどになっている。それは薬物中毒者が覚えるドラッグ欠乏症、あるいは呪われた吸血鬼が感じる血の渇望に似て酷烈だ。いままではあのひとと寝ることでそれを抑えようとしてきたが、それももう限界に達している。ぼくが本当に欲している肌は、あのひとのものではない。窓花のものでしかありえない。
 本当に耐えられなくなったら、そのときは、潔く死を選ぼう。こんなことになるなら、最初から〈幻獣〉など目覚めさせなければ良かったのかもしれない。ただ肉体が衰え、死にたどり着くのをゆっくりと待っていれば良かったのかもしれない。しかし、それもまたいまはいっても詮ないことだ。それにしても、結局はすべての道は「死」にしか繋がっていなかったわけか。ぼくの運命は神話でいうタナトス神に呪われていた、というわけだ。
 ぼくはもうすぐ自死するだろう。自殺とはあえていうまい。誇り高く自死といおう。しかし、それでも最後の瞬間まで戦いつづけるつもりだ。それにしても、そのまえにいちどでいい、窓花の唇を貪ることができたなら。その肢体をこの腕に抱くことができたなら。
 ああ、窓花、愛しているよ。ぼくはきみのために死んでいくのだ。それにしても、きみは、ぼくのことをどう思っていたのだろう? 単なる仮初めの主人、あるいは出来の悪い弟、そんなふうに考えていたのだろうか。そうだとするならぼくは哀しい。そしてもしきみがぼくのことを少しは恋の対象として見ていてくれたなら――そのときは死すら恐ろしくはない。
 ぼくは喜んで死へいたる長く冷たい道を歩い

 悠希は頁をめくり、そして思わず叫び声をあげかけた。その先の日記は、何頁かまとめて破り取られていたのだ。そして最後まで読んでも、もう新たな記述は存在しなかった。この6月22日の記述を最後に、日記は終わっているのである。
 かれは呻いた。
 誰がこの日記を破ったのだろう? 清照じしんが破り捨てたのか。それとも、何者かがいちどこの日記を発見し、その部分を破り取り、ふたたびかくしておいたものか。いずれにしろ、その部分にこそ、何かしらの秘密がかくされていたに違いない。
 悠希は隔靴掻痒のもどかしさに気が狂いそうだった。
 かれは一週間まえの事件のことを思い出していた。かれに襲いかかった不良青年たちのからだには、何がしかの獣に喰われた痕があった、と窓花は述べていた。いかにも荒唐無稽な話だが、それもまた清照がいう〈幻獣〉の仕業だと考えれば説明がつく。清照の日記によれば、〈幻獣〉とは必ずしも物理的な、血肉を備えた存在ではないようだが、獣と名のつくものであることに変わりはないではないか。
 それにしても、清照の最後の告白の生々しさは吐き気を催すほどだった。この日記を信じるなら、〈幻獣〉とはそれを目覚めさせたものに邪な欲望を抱かせる、そんな存在であるらしい。清照はそれを必死に〈調教〉しようとし、失敗して〈幻獣憑き〉と呼ばれる状態になった。そして――そう、この日記が真実を語ってくれているとするなら、たしかなことがもうひとつある。
 清照は病死などではない。自ら、その命を絶ったのだ。
 悠希のたったひとりの兄は、〈幻獣〉と呼ばれるなぞめいた存在に殺されたのだった。