『幻獣狩り』。


 ひさしぶりに小説を書いています。題して『幻獣狩り』。例によって稚拙な代物ではあるでしょうが、前作よりはだいぶましになっているのではないかと。そういうわけで、とりあえず書き上がっている第一章を公開してみます。全五章くらいで終わるのではないかな、と思います。四〇〇枚くらいですか。

 もっとも、書きはじめたときは一〇〇枚で終わらせるつもりだったので、それもはっきりとはしません。きちんと伏線を回収して終われるといいのですが――こういうものは完結し完成してから公開したほうが良いですね。どうも黙々と執筆する気にならないので、途中で公開してしまうのですけれど。

 それでは、もしよければ、お読みいただければ幸甚です。

第一章.txt 直



 第一章

「失礼いたします。いらっしゃいますか」
 その言葉に、悠希が読みさしの本を閉じ在室であることをしらせると、しずかに扉をあけてひとりの少女が入ってきた。彼女は入室するとすぐ悠希の持つ本に気づいたらしく、かすかに困ったような表情になった。
「お勉強中でしたか」
「いや、ただ本を読んでいただけだよ。相馬さんが気にすることじゃない」
 机に座っているから勘違いしたのだろうが、じっさいには悠希の手のなかにある本は教科書でも参考書でもなく、流行の小説に過ぎなかった。悠希は彼女にも見えるよう表紙を掲げてみせたが、少女――相馬窓花はそれでもいくらか申し訳なさそうなままだった。内心でいたらない自分を責めているのかもしれない。まだ初めて出逢ってから一ヶ月も経っていないが、悠希は窓花の考え方を把握しつつある。
「それで、何か用かな?」
 悠希が訊ねると、窓花は顔から困惑のいろを消した。
「はい。そろそろ夕食のお時間です。お呼びに参りました」
「ありがとう。すぐに行くよ」
「はい」
 悠希は本棚に本を戻し、椅子から立ち上がった。そうすると、ふと、窓花と見つめあってしまう。彼女が、用件を伝えたにもかかわらずきびすを返そうとはしなかったからだ。彼女は何か仄かな微笑を孕んだ視線でかれの立ち姿を見つめていた。
 悠希がわずかに小首をかしげ、「まだ何か?」と訊いてみると、窓花は今度こそ本当にあわてたようすで、小さな頭を直角に下げた。
「あ、はい、失礼しました。その――そうしていらっしゃると、まるで清照さまが生き返ってきたようだと思いまして」
「ああ」
 悠希は納得し、ひとつうなずいた。
「清照兄さんのことを思い出したんだね。ごめんね、まだ亡くなって間がないのに、ぼくのようなものがいたら思い出してしまうでしょう」
「そんなこと」
 窓花は怒ったように眸を見ひらいた。内心を表してか、白皙の頬が薄く紅潮する。それから、目の前の少年が自分の主人にあたる人物だと思い出したのか、すこしうつむいて視線を逸らした。
「そんなこと、どうか、二度といわないでください。親族の皆さまはあなたさまのことを悪くいうかもしれませんが、でも、わたしたち使用人は悠希さまを歓迎しています。悠希さまがいらっしゃらなかったら、神楽の直系の血は途絶えるところだったのですから」
 悠希はちいさく苦笑した。
「兄さんが死ななければ用なしの子どもだったけれどね」
「それは――」
 窓花が気まずそうに口ごもったので、悠希は言葉の選択を間違えたことに気づいた。皮肉のつもりもなかったのだが、あるいは、心中奥深くに降り積もった不満が、つい口に出たのかもしれない。いずれにしろ、何の罪もない少女に皮肉めいたことをいうなど、恥じるべきことだ。
「ごめん。きみの責任じゃないのに」
 かれは椅子から立ち上がり窓花に頭を下げた。
「いえ、そんな。わたしなどに謝らないでください」
 窓花は哀しげに視線を下げ、指先を組んでため息を吐いた。
「清照さまが亡くなってから、この家は寒々としています。悠希さまが神楽の家を怨むとしても、仕方ありません。でも、どうか、信じてください。すくなくともこのわたしは、わたしと父は、悠希さまの味方です」
「うん。信じているよ」
 悠希がうなずくと、窓花はかすかに照れくさそうな顔になった。自分では無表情を通しているつもりなのかもしれないが、何を思い、考えているのかわかりやすい少女である。彼女といっしょにいると、悠希は、自分のほうがはるかにひとが悪いと自覚せずにいられない。
「はい。それでは、失礼します」
 どこまでもかたくるしく一礼して、少女はそとへ出て行った。
 入ってきたときと同じようにしずかに扉がしまると、悠希は小さくため息を吐いた。
 夕食か。
 正直をいえば、同席する祖父や叔父との会話はわずらわしい。しかし、出ないわけにもいかなかった。ただでさえかれの立場は微妙なものなのだ。無用な波風をたてる必要はないだろう。それに、食卓にならぶ料理は、かれがいままでの十七年間で食べたことがないほど美味なものばかりのはずだ。あの祖父や叔父に睨まれて食べる料理では、味がよくわからないこともたしかだが。しかし――そう、いまやかれらが悠希の「家族」なのだ。
 悠希は本棚の本を指先でなぞりながら、室内を見まわし、わずかに眸を細めた。広壮な一室である。かつてかれに与えられていた部屋の、十倍もあるのではないか、と思える。部屋を彩る調度の数々、机やら寝台やら箪笥やらも重厚な質感を備えている。ひと月まえの悠希なら、自分とは一生縁がない世界のものと割り切ったであろう代物ばかりだ。
 それらの品々を見つめながら、内心で自問する。ここに来た選択は、本当に正しかったのだろうか。あるいは、生まれ育った施設にのこっていたほうが良かったのではないか。現に自分は誰からも歓迎されていないではないか、と。
 長年暮らし馴染んだ施設を出、この神楽家を訪れることは、何度も考え、煮詰め、思い煩った末に下したはずの決断だったが、いまになってもやはり迷いがのこっていた。しかし、いくら考えたところで詮ないことでもあった。もうかれに戻る場所はないのだから。
 悠希が暮らしていた孤児院を経営する老夫婦は、いつでも戻ってきていいといってくれたが、戻ったところで、卒業のときには自立しなければならないのだ。そして、この不況の時世、いくら悠希の成績が抜群であっても、就職先を探すことは簡単ではないだろう。あるいは、あの老夫婦にさらに迷惑をかけることになるかもしれない。それなら、富裕な祖父の跡継ぎとして、自分の道を探ったほうがいい。悩みに悩んだ末にそう決めたのだ。
 たとえそれが、いちどは自分を捨てた祖父であるとしても。
 悠希はひとつ頭を振ると、湧き上がる雑念を払いのけた。考えても仕方ないことを思い悩むことは、かれのような境遇の人間には贅沢というべきだった。同じように時間を費やすなら、せめてもうすこし価値のあることを考えるべきだろう。
 しっかりしろ。そうじゃないと、取って喰われるぞ。
 悠希はひとり自分を叱咤すると、扉をあけ、気の進まない夕食がくり広げられる部屋へと歩き出した。

 ◆

 悠希がその部屋に入ったとき、既に食卓には叔父夫婦と亜梨子が座っていた。
「よう、悠希くん」
 したたるような悪意を込めて、叔父の純二が皮肉をいう。
「ごゆっくりだな。さすがに一族の後継者ともなると、鷹揚な態度になるというわけか」
「失礼しました」
 それに対して、皮肉を返すようなことはせず、悠希はかれらとは少し離れた椅子に付いた。
 この食卓には実に二十もの椅子が並んでいる。悠希などは、じっさいにその人数が座ることはないだろうに、なぜこれほど大きな卓を使わなければならないのか、と思わずにいられない。無用の長物とはこのことではないか。もっとも、卓が大きいために、叔父夫妻とすぐ近くで食べる必要がないことはありがたいが。あるいは、そのように空間を使うことじたいが贅沢というものなのか。
 食卓には、既にひと通り料理が並べられていた。いずれもいまつくられたばかりと思しく、あたたかそうで、スープなど、じっさいに湯気を立てている。しかし、手を付けられたあとはなかった。祖父の着席を待っているのだろう。この家はすべて当主である祖父を中心に動いている。
「ねえ、悠希さん」
 悠希にとっては義理の叔母にあたる桜子がねっとりと絡みつくような声音で話しかけてくる。
「この家にはもう慣れました? 何か不自由なところはないかしら?」
「いえ。何もかもぼくには過ぎたものばかりで、緊張しています」
「そう。何か不便なことがあったらいってくださいね。すぐに相馬に対処させますから」
 桜子が薄く微笑む。
 悠希は内心で怯んだが、表情には出さなかった。
 純二は神経質そうな細身の中年男で、高価で上質なはずの洋服が妙に似合っていない。貧相な体格のせいか、服に着られているといった印象である。苛立つと指先でくり返し椅子を叩く癖があるようで、いまもそうしていた。かれが悠希を見つめる瞳には、不満と、そして憎悪にすら近い光がある。かれの立場としてはあたりまえのことなのかもしれないが、悠希としては当然、愉快ではない。
 対して、桜子は、まず美貌といっていい女性である。いくらか化粧が濃すぎるが、大半の男性が魅力的だと考えるであろう容姿の持ち主といえる。外見から推し量れる年齢は三十代半ばと思しいが、あるいはもっと歳が行っているのかもしれない。悠希に向かい嫣然と微笑んでくるその顔には、好意と、そして媚態が込められているように思える。それもまた、悠希にとってはあまり好ましいものではなかった。
「ふん」
 自分のまえで公然と男に媚びる妻のことを気にくわなさそうな表情で見やりながら、純二は鼻を鳴らした。本当は大声を出して怒鳴り散らしたい気分なのかもしれないが、それはこの家では赦されていない。精々、皮肉をいう程度のことが赦されたすべてだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
 それまで大人どうしの会話を興味なさそうに聴いていた亜梨子が、悠希に話しかけてきた。
「ご飯食べ終わったらまた遊んでくれる? 新しいお人形を買ってもらったの」
「うん、いいよ、亜梨子ちゃん」
 無邪気な言葉に、思わずほっとして、悠希は頷いた。
 亜梨子は十歳程度と思われる少女である。母によく似て目鼻立ちがくっきりとした顔立ちはとても愛らしかった。子供雑誌のモデルにでもなれば話題を呼ぶかもしれない。悠希にとっては、たったひとりの妹であり、おそらくこの神楽の一族の最年少だろうと思われた。妹とはいっても、つい数日前まで逢ったこともなかったのだが、ふしぎと悠希にはすぐなついた。あるいは、悠希と同じ造作の顔を見慣れていたせいかもしれない。
「いいか、悠希、お前はな――」
 純二が何か口にしかけた、そのときだった。
 かすかな軋みをたてて部屋の奥の扉が開き、ひと組の男性たちが室内に入ってきた。一方は車椅子に座り、他方はそれを押している。悠希の祖父神楽玄宗と、神楽家の執事にして窓花の父である相馬裕だ。たったそれだけのことで、室内の空気がぴんと張りつめたようだった。
 玄宗は白髪の老人ではあるが、その品格はどこか貧相な純二などとは比べ物にならなかった。まさに神楽家の当主としてふさわしい品位と、威厳が、そのいかめしい顔にただよっている。車椅子なしでは移動できない身の上ではあるが、いまなお、その双眸は炯々と輝き、一族の名誉を涜す不心得者はいないか、とでもいうように一同を睨みつけていた。
 それに比べ、裕は影のように目立たない男だった。あるいは、それこそ自分の職務の本文と心得ているのかもしれない。中肉中背、これといって特徴のない男で、初見で記憶に留めることはむずかしいかもしれない。しかし、それでいて決して凡庸な人物でないことを、悠希はこの数日間で察していた。
「集まったな」
 食卓につくと、低い、よく響く声で、玄宗は告げた。
「それでは、食事を開始するとしようか」
「はい」
 一同の声が唱和した。
 本当は、この場に集まっていない人物がふたりいることを、皆しっているが、誰もそのことを口には出さない。その人物、悠希の母親百合と、純二たちの息子公彦は、自室で食事を採ることになっている。むろん、本来なら赦されないはずのその無作法が赦されているのにはそれなりの理由がある。
 神楽家の食卓は、家族の団欒という概念を凍てつかせたような代物である。その食卓に並べられた料理の数々は、贅沢であり、美味であったけれども、その場には、居心地のいい食卓に付き物の和やかな雰囲気が決定的に欠けていた。誰もひと言も無駄口を叩かず、ただ、淡々と食べ物を口に運ぶばかりだ。ふだんはおしゃべりな亜梨子ですら、全く口を開こうとはしない。ある意味で、それは晩餐という概念に対する侮辱であっただろう。悠希がいままでいた孤児院の食事どきも、必ずしもいつも和気藹々としていたわけではなかったが、それにしても、これほど冷え冷えとした食卓は記憶にない。
 ひとりだ。
 悠希は海藻のスープを啜りながら自分じしんへささやきかけた。
 生まれたときに捨てられ、ようやく実の「家族」と再会したというのに、自分はあいかわらずひとりだ、と。
 この「家族」のなかで、かろうじて親近感を抱けるのは亜梨子くらいだろうが、彼女もやはり実の妹という気はしない。無邪気に懐いてくる亜梨子を可愛いとは思うが、それはたぶん血縁の情とは違うものだろう。あるいは、自分はまだどこかで、いったん自分を捨てた祖父や両親を赦していないのかもしれない。なぜ捨てた、と怨んでいるのかもしれない。怨嗟と憎悪に支配されていた子供時代から何も変わっていないのかもしれない。悠希は黙々と食事を口に運びながらそう考えた。
「悠希」
 沈黙と静寂が支配する食卓の空気を変えたのは、それまでしずかに食事を続けていた玄宗のひと言だった。
「この家には慣れたか」
 それは先ほど桜子が口にした言葉と同じ内容だったが、桜子のそれよりさらにいたわりの心が欠けているように思えた。この老人と対していると、いつも悠希は試されている気分になる。果たして清照の生後長らく孤児院にあずけていた双子の弟は、この神楽家を継ぐのにふさわしいか、否か、と。
「はい、おじいさま」
 内心緊張しながら、悠希は答えた。この祖父に対しては最小限の言葉だけを誠実に口にするように務めている。それがおそらく最適な戦術だろうと思えたからだ。余計なことをいってかれの機嫌を損ねたら、夜中でもこの家を追い出されるかもしれないのだ。
「うむ」
 玄宗はうなずいた。
「お前には期待している。勉学に励むがいい」
「はい。頑張ります」
 言葉面だけをとれば激励であったが、悠希は重い荷物を背負わされたような気分になった。勉学に励め、とは、もし成績が優秀でなかったらこの家から追い出すという意味ではないか、と思えてならない。もしかしたら単なる邪推に過ぎないのかもしれないが、とにかく、この威厳がありすぎる祖父をあいてにしていると、一々言葉の裏を読みたくなるのだ。いまは亡き清照はどうだったのだろう、と思わずにいられない。
「お父さん」
 玄宗と悠希のやり取りを、苛立ちもあらわな目付きで眺めていた純二が、食卓の禁忌を破って父に話しかけた。
「教えてください。どうして悠希を呼び戻したりしたんです? こんな、生まれたときから孤児院育ちで、上流階級に馴染みのないような男、神楽の家にふさわしくありません。こんな奴、この家の財産めあてにのこのこやって来たに決まって――」
「純二」
 息子の長広舌を、父はひと言で黙らせた。
「わたしはお前に、食事時に無駄口を叩くようには教えていなかったはずだが」
「はい」
 純二は悔しそうに黙り込んだ。
 決して好意を持っているわけではないが、それでも悠希はかれに仄かな同情を感じた。プライドの高いこの男にとって、このようにあしらわれることはさぞかし屈辱だろう。そして、決して玄宗に向かうわけにはいかないその怨みは、おそらく自分へと向くことになるに違いない。気が重いことだった。
玄宗さま」
 そのとき、そう口に出したのは、それまで誰もが注目のそとに置いていた男――玄宗の車椅子のうしろに端然と佇んでいた相馬裕であった。
「差し出口をお赦しください。無駄口は良くありませんが、これは良い機会です。いま、純二さまと桜子さまに事情を説明されてはいかがでしょうか」
「ふむ」
 純二の言葉を一蹴した玄宗が、今度は考え込む態度を見せた。そして、数秒ののち、かれは大きくひとつうなずいたのである。
「よかろう。純二、いいたいことがあればいってみるがいい。聴こうではないか」
「は、はい、お父さん」
 成り行きについていけなかったのだろう、一拍置いてから純二はしゃべりだした。
「さっきいいかけた通りです。悠希は――この子は神楽家の後継者たるにふさわしくありません。神楽の資産がどれほどあるかご存知でしょう。それに株や関連企業も膨大なものがあります。とても十七やそこらの子どもが受け継いでいいものじゃない。せめてあと十年のあいだは、もっと識見のある大人がその資産を管理するべきです」
「ふむ」
 玄宗の瞳の虹彩を皮肉な光が飛び交った。
「それなら、お前は誰がわたしの後継者にふさわしいというのだ」
「それは――」
 純二は答えようとしたが、玄宗はその先をいわせなかった。
「まさかお前がその器だと思っているわけではないだろうな。お前のような小心者にこそこの神楽をやるわけにはいかん。お前の兄はそれは優秀な男だったがな、それでも自分が神楽を継ぐにふさわしいか否か、ずいぶん悩んでおったようだぞ。増してお前など、兄の足もとにも及ばぬ凡才ではないか」
「お父さん、それは――」
 純二は何か反駁しようとした。しかし、それに頓着せず玄宗は続ける。
「おお、そういえばお前にも息子がいたな。しかし、あれではどうにもならんことはお前にもわかっているだろう。あれに自分じしんの人生ですらどうにかする才覚があるのか、どうか、怪しいものだ」
「お父さん!」
 純二の貧相な顔から見る間に血の気がひいていった。悠希は、ひとの顔がこれほど青ざめるところを見たことがなかった。その瞳に、何か溶岩のような激しい感情が浮かび、そして、悔しそうに消えていった。いくつもの激情がよぎったあと、最後にその表情にのこったもの――それは、沈痛な、あまりに沈痛な絶望だった。
「もう、食べられません」
 かろうじて感情を抑えていることがありありとわかる声音で、純二は呟いた。
「どうも気分が悪いようです。これで失礼させていただきます」
 純二はふらふらとよろめきながら、玄宗の許可を得ることもなく、その場から去っていった。それは、何重もの意味でこの家では赦されないはずの態度であったが、止めるものはいなかった。最もかれに近しい立場であるはずの桜子を見ると、その瞳には冷ややかな軽蔑が浮かんでいた。玄宗は興ざめだ、といわんばかりの視線で息子が立ち去った扉を見つめている。
 たしかに美味であるはずのローストビーフを砂を噛むような気分で噛み締めながら、悠希はふたたび自問していた。なぜ、この家に来たのか。この家に何を期待していたのか、と。自分を捨てたことに対する謝罪や、家族としての愛情を期待していたわけではないことはたしかだ。そして、ここに来なければならない事情があったことも。しかし、まさかこれほど冷え切った家族関係を見せられるとは思っていなかった。
 否――これは家族などと呼べるようなものではない。悠希があこがれた家族とは、もっとあたたかで、人間的で、七割の親愛と三割の倦怠で満たされているものだ。この家に集まった人間たちは、決して家族などではない。
 自分には家族などいなかったのだ。
 その苦すぎる実感をローストビーフとともに呑み下しながら、悠希は思い出していた。身寄りのない孤児だった自分に運命が変わった、その日のことを。

 ◆

 いまからひと月近く前のことだから、七月半ばの出来事ということになる。
 暑い日だった。悠希はその日、酷暑に耐えながら一日の授業を終え、いつものとおり施設へ帰宅するため自転車に乗った。自分で働いて買ったその自転車は、悠希にとって貴重品だ。かれが通う高校では本来アルバイトは禁止されていたが、悠希は特別の許可を得て働いていた。かれが孤児であること、また成績優秀であることがその優遇措置の理由になっているらしい。つまり、迂闊に成績を下げるような真似はできないということだ。もっとも、学業にかんして悠希に不安は少なかったけれど。
「さよなら、高坂」
「うん、さよなら」
 友人と別れ、気ままに自転車を漕いで校門へ向かったときまでは何も変わったことはなかった。異変が起こったのは、門からそとへ出ようとした、そのときだ。一台の、黒塗りの高級車が突然にあらわれて、かれの行く手をふさいだのである。
 否――もちろん、どこからともなく車が出現するはずはない。あとになって悠希は、その車はかれの下校を待ち伏せしていたのだと気づいた。しかし、そのときは、そうともしらず、ただ迷惑な車が進路を遮ったと感じただけだった。当然、注意深くその車を避け、先へ進もうとする。何しろ高級車だ。うっかり傷つけでもしたらどんな金額を搾り取られるかわからない。
 と。
「お待ちください」
 低い男性の声が、悠希の足をとめた。
 まさか自分にかけられたものではないだろうとそう思いながら、それでもかれは背後を振り返り、ひと組の男と少女が車から降りてくるところを見た。途端、周囲からざわめきが起こる。それほど鮮烈な一対だったのだ。いや、男のほうは格別の印象を与える風采ではない。どこにいてもおかしくない平凡な中年男性だ。しかし、少女のほうは、これは、あきらかに傑出した容姿のもち主であった。ただ、繊麗、とひと言でいうだけでは、そのどこか少年めいた硬質の美貌を表現しきれないだろう。唇をかたくひき締め、つぶらな瞳で悠希を見つめている。ほとんど男装に近いような色気のない格好であったにもかかわらず、強烈に視線を惹きつける娘であった。悠希は思わず呆然と見惚れた。
「お待ちください、高坂悠希さま」
 そのようすを見ながら、となりの男性がくり返した。今度こそ悠希はそれが自分に対する言葉だと理解せざるをえなかった。まさか、同名の別人に話しかけたという落ちではないだろう。しかし、このようなひと組に呼び止められる理由など、何も思いつかない。
「えっと。ぼくですか?」
「そうです。あなたに用件があって参りました」
 男は車をとめたまま悠希に歩み寄った。そして、貴人に対するように深々と一礼する。
「突然お呼び止めする無礼をお赦しください。わたくしは神楽家の執事で相馬裕と申します」
「神楽――」
 そのひと言は、悠希の耳のなかで爆発を起こした。かれはそれまでかすかな好奇しか感じていなかったあいてに対し、強い反発を覚えた。相馬と名乗った男を睨み据えると、吐き捨てるように答える。
「なるほど。しかし、神楽の執事さんが何の御用です? ぼくのほうには何の用事もありませんよ」
 悠希をしっているものがその態度を見たなら、驚いたことだろう。かれはいつもどのような人間に対しても、穏やかに、教えを説く教誨師のように話す人間だった。その少年らしくない老成した態度をからかわれることも頻繁にあるくらいだ。しかし、いま、相馬と名のる男に食ってかかるその態度は、ただの生意気な子どものようだった。
 相馬は動じなかった。むしろ、興味深そうに悠希の顔を覗き込む。
「申し訳ありませんが、わたしにはあるのです。さて、このような場所で話し込むのもはた迷惑でしょう。車に乗っていただけますか」
「お断りします」
 悠希は即答した。
「ぼくは神楽とは関係がない。それに、あなたたちが本当に神楽の人間かどうかもわかりません。そんなひとの車には乗れません」
「困りましたね」
 相馬の態度には、言葉とはうらはらに少しも困ったようすがなかった。若者の客気を鷹揚に受け止める大人のように、かるく小首を傾げて悠希の顔を覗き込む。
「わたしはあなたをお連れするよう命令を受けているのです。悠希さまに断られてしまうと、仕事を果たせないことになってしまいます」
「ぼくには関係ありません」
 悠希は相馬に背を向け、そのまま自転車で走りだそうとした。かれが何をいっても振り返らないつもりだったが、それでも結局、足をとめることになった。凛とした少女の声が背中に響いたからだ。
「悠希さま」
 見ると、あの少女がこちらに寄って来ていた。どう行動したものか、悠希がわずかにためらっていると、彼女の姿がすっと消えた。その場にひざまずいたのだ、と悟ったのは一瞬あとのことだ。彼女は汚れたアスファルトのうえに片膝をつき、深く頭を垂れたのだ。
「わたしたちの非礼、どうぞお赦しください。悠希さまがお怒りになることはあまりに当然です。しかし、わたしたちにとってもどうしようもない事情があるのです。どうか、話を聴いていただけないでしょうか」
「きみは――?」
「相馬窓花と申します」
 ふたりの視線が交錯した。火花が散った、というわけではない。しかし、何かが行き交い――そして悠希は小さくため息を吐いた。何かがかれのなかで溶けたのである。
「ぼくが行かないと困るんですね?」
「はい」
「わかりました。仕方ない。行きましょう。だから立ってください。こんなところでそんな格好をされると困ります」
「はい」
 窓花はざわめく周囲の声も気にしていないようすで立ち上がり、かるく埃を払った。並んでみると、悠希より頭半分背が低いことがわかった。その硬質な態度がなければ、可憐という形容が似合う少女だろう。
「それで、何があったんです? 話せないことじゃないんでしょう?」
 悠希が訊くと、窓花はためらうように見えた。しかし、相馬がひとつうなずくと、ぽつりと呟くように答えた。
「どうか、驚かないでください――清照さまが亡くなられたのです」

 ◆

 窓のそとを景色が色とりどりの流線と化して流れてゆく、その光景を見るともなしに見ながら、悠希は、追憶に沈んでいた。
 神楽清照。
 それは、悠希の双子の兄の名前である。といっても、いちども逢ったことはない。写真で自分とそっくりの顔を見たことはあるが、それが面識のすべてだった。生涯逢うことはなく終わるだろう、と思っていた。そして、じっさいにそうなったわけだ。あいての逝去という、思わぬ出来事に断ち切られるかたちではあるが。
 双子でありながら直接あいての顔を見たことがないことには、むろんそれなりの理由がある。悠希は生まれたとき、ある孤児院に捨てられたのだ。否――この形容は正しくないかもしれない。かれはあの施設に正式に「預けられた」のである。施設のまえに産着のまま捨てられていたというわけではないと聞いているし、神楽家からは施設に毎年送金が行われているらしくもあった。しかし、どう言葉を粉飾しようと、両親が、家族が、生まれたばかりの悠希を捨てたことに変わりはない。
 その理由を、悠希は長いあいだしらなかった。自分の何が悪かったのか、いったいどんな理由があって、富裕だという両親が自分を捨てるにいたったのか、散々に思い、悩み、そのためにかれは暗い打ち解けない性格の少年に育っていった。あることがあってようやく吹っ切れたが、それでも、神楽の家を赦したわけではない。時折り、その噂が耳に飛び込んでくることがあったが、自分とは無関係な世界の人間たちだと割り切ることにしていた――いま、このときまでは。
 いま、運命は遂にかれに追いついてきた。もう逃げ切ることはできそうにない。どんなにそうしたくても。
「悠希さま」
 と、いやみなほど柔らかな座席に並んで座った窓花が声をかけてきた。
「このたびのことは本当に申し訳ありません。あなたさまのお気持ちはお察しいたしております。その、このように突然に、当方の事情だけでお呼び出しするなんて」
「かまいませんよ」
 悠希は苦笑した。
「きみの責任じゃないんだから。それにしても、どうしてきみはお父さんに付いて来たんですか? きみはあの家の何にあたるのかな?」
「わたしは神楽の執事見習いです」
 薄くふくらんだ胸を誇らしげに逸らして、窓花は答えた。
「執事――女の子なのに?」
「それは性差別です」
 悠希が率直な疑問を口にすると、窓花はきびしい目付きでかれを睨みつけた。
「女が執事になってはいけないという法はありません。わたしはそのために幼い頃から努力してきたんです。誰よりも立派な執事になって、神楽を守ってみせます」
 その言葉は、悠希の耳には、半ばじぶんに云い聞かせているように聞こえた。あるいは言葉ほどには自信がないのかもしれない。かれは素直に謝ることにした。
「ごめん。きみを侮辱するつもりはなかったんだ。ただ、そのその齢で既に道を決めているということが意外だったから」
 少女は首を振った。
「謝らなくてけっこうです。あなたが主人なんですから」
「主人?」
 聞きのがせないひと言だった。
「ぼくはきみの主人になった覚えはないよ。どういうこと?」
 悠希が訊ねると、窓花はじっとかれを見つめてきた。彼女のような秀麗な少女に正面から真っ直ぐ見つめられると、よく感情が淡いとか老成しているなどといわれる悠希のような人間でも、思わず心臓がひとつ大きくはずんだ。
「本当はわかっておられるんでしょう?」
 窓花は小さく息を吐きだした。
「清照さまがお亡くなりになり、あなたさまが呼び出された――考えられる理由はひとつです。それはあなたさまが清照さまの代わりに神楽の後継者として選ばれたということ」
「ばかばかしい」
 悠希がいうと、窓花はいくらか憂鬱そうに視線を逸らした。
「そう思われることも無理はありません。玄宗さまや百合さまは長いあいだあなたさまのことを放っておいたのですから、いまさら、というお気持ちもおありでしょう。しかし、玄宗さまの意思に逆らうことはできません。だから、あなたはわたしの主人です。そう」
 窓花は小さく笑った。
「ご主人様、とお呼びしてもいいんですよ」
 悠希は何も答えなかった。
 ばかばかしい、と心底思う。十数年も放置しておいて、いまさら死んだ兄の代わりに家を継げだと? 正気の人間の考えることではない。そもそも、もし自分に家を継ぐ資格があるのなら、なぜ捨てたりしたのだ? 経済的困窮が原因では、絶対にないはずだ。
「もうすぐ着きますよ」
 車を運転する相馬がそう告げると、悠希は奇妙な圧迫を感じた。考えてみれば、いまから連れていかれるところには、自分が何度となく夢みた「家族」が待っているのだ。自分を捨てた祖父、そして母親。父親が既に亡くなったことは聞かされているが、祖父や母とはどんな人物なのだろう。一時、かれらを深く怨んでいた頃は、冷酷非情な悪鬼を想像したこともあった。しかし、本当にそんな人間なのだろうか。興味がないといえばうそになる。
 そして、また、恐怖もあった。いったいどんなひとが自分を呼び出したのか、悠希はたしかに恐れていた。胸の奥から、何かひどくどろどろした泥のような感情が湧き出してくる。それは、あの日捨てたはずの憎悪のようでもあり、期待のようでもあった。
 自分はまだ見ぬ「家族」に希望を抱いているのだろうか。自問してみたものの、答えは出てこない。何かしらの期待なり希望を抱くことなど愚かしさの極みであると、そうわかってはいたが、心のどこか奥底で、いまでもまだ泣きじゃくりつづける少年が、家族が恋しいとわめいているのかもしれなかった。
 そして、車は止まった。
 目のまえに広がるのは広壮としかいいようがない敷地だった。その一方がひとの足にして何百歩ぶんあるかわからない。そしてそのすべてが石の壁に覆われていて、そとからは内部を窺いしることができなかった。いくら地方都市とはいえ、不可解なほどの広さである。相馬が車を降りてインターフォンを押すと、その扉が開き、車は中に入っていった。
 そのとき、少女の白く繊細な指が、そっと、自分の指に絡みついてきたことに悠希は気づいた。
「大丈夫です」
 窓花はささやいた。
「大丈夫ですよ」
 それで、かれはようやく自分が震えていたことに気づいた。
「ありがとう」
 われながらこわばった声音で礼をいい、大きくため息を吐き出してから、車を降りる。夏の花ばなが佳麗に咲きほこる見事な庭もほとんどかれの視界には入らなかった。ただ、目の前の古めかしい洋館だけが目に映っていた。それはかれが育った施設よりはるかに大きい建物であった。窓全面に青い硝子が嵌められており、さながら青の宮殿とも見える。たしかに古めかしい建物ではあるが、しかし衰微を感じさせるところはすこしもなく、むしろ、その歴史と、威厳でもって、ひとを圧倒するような建築物であった。
 悠希は相馬に指図されるまま、その豪壮な建物のなかへ入っていった。あるいはかれの顔は既に青ざめていたかもしれない。その手を、窓花はただ優しく握っていてくれた。悠希もまたその柔らかな指を振りほどこうとは思わなかった。
 相馬は長い廊下を歩き、何度も曲がり角を曲がり、ひとつのいかめしい扉のまえでとまった。二度ノックしてから、室内へ語りかける。
「お連れしました」
「入れ」
 低い、冷厳な声が入室をうながした。裕が、悠希のほうをちらと見てから扉をあける。そこに、銀いろの車椅子に座り、その人物はいた。まるで長いあいだ風雪に耐えてきたとでもいうような、厳しく、隙のない顔。髪は白く、ひげもまた白かったが、それでも老耄している印象はない。何より炯々と輝くその瞳が、意思の勁さをしらせて余りあった。
 悠希はひと目で悟った。この人物が自分の祖父、玄宗だと。
「お前が、悠希か」
 玄宗はひとつうなずくと、指先で近くへ来るよう指示した。悠希はその指示に従いながら、幼いころから溜め込んできた何種類もの感情が爆発しそうになるのを抑えた。
 かれが近くに寄ると、老人は満足そうにその全身を見上げた。
「清照によく似ている。いや、生き写しだ。どうだ、相馬、清照が生き返ってきたようではないか」
「はい」
「成績も優秀だと聞いている。これなら、神楽の家を継ぐのに問題あるまい」
 やはり、そういうことか――。
 苦い、あまりに苦すぎる失望を噛み締めながら、悠希は老人から視線を逸らした。
 これが十数年ぶりに再会した孫にかける言葉なのか。ほかにいうことは何もないのか。いちどはぼくを捨てたことをどう思っているんだ。いまさらぼくを必要とするなんて、あまりにも虫がいい話じゃないか。
 いいたいことは百もあったが、悠希はそのすべてを抑えこみ、ただひと言、答えた。
「ぼくは神楽の後継者になるつもりはありません。自分の進路は自分で決めます。これ以上、ぼくにかまわないでください」
「ふむ」
 老人の双眸がおもしろそうに光った。血のつながった孫を見る視線ではなかった。宝石か、絵画か、何かそんな高価で価値のありそうなものを品定めする目付き。
「なるほど。そうか、それもいいだろう。しかし、そうすると、お前を育ててくれた夫婦が困ることになるな」
「それは」
 悠希は思わず声を荒らげそうになり、かろうじて自制した。
「それはいったいどういうことです?」
 老人は余裕綽々の態度でうなずいた。
「言葉通りの意味だ。わたしには力がある。この国を揺るがすほどではないが、それなりに大きな力だ。わたしがその気になれば、あの程度の孤児院など、どうとでもなるということだ。悠希よ、お前は、自分を育ててくれた人間に感謝しておるのではないか? だったら、それなりの態度を採るべきだと思うがな」
「ぼくを脅迫するつもりですか」
「違う。交渉しているのだ」
 老人はかすかに唇を歪め、笑ったように見えた。しかし、それは暴君の笑顔に他ならなかった。悠希はぞっとして、立ちすくんだ。いますぐこの場から逃げだしてしまいたい。だが、それはできなかった。
「すべてはお前しだいだ」
 玄宗は続けた。
「お前がその気になれば、この神楽の莫大な資産をその手にすることもできる。本来は清照が継ぐはずだった資産だがな。ほしいものは何でも手に入るぞ。車も、女も、屋敷も、何もかもだ。お前が一生かけてどんなに努力しようと手にいれようがないものが手に入るはずだ。どうだ、ほしくはないか?」
「ひとつだけ教えてください」
 きつく唇を噛み締めて激情を抑制しながら、悠希は訊ねた。
「なぜ、ぼくを捨てたんですか?」
「双子が不吉だからだ」
 玄宗は一瞬の躊躇もなく答えた。
「双子の兄弟は、長じればひとつの椅子を巡って争うようになる。そうなれば、神楽そのものがふたつに割れるかもしれん。そうならないように、あらかじめひとつの芽を摘んでおく。それが賢いやり方というものだろう」
「そんな――そんなくだらない理由で!」
 悠希は唇をかみしめた。
「そうだ」
 玄宗は少しも動揺を見せない。
「お前にはつまらない理由に思えるかもしれんが、決してそうではない。この世で、争いの芽を摘み取ることは何よりも大切だ。わたしはこう見えて平和主義者なのだよ。お前もいずれわかるだろうが、争いはすべてを灰燼に帰す。そうならないようにすることが、神楽の当主の義務というものだ。そうやって神楽は何代も続いてきたのだ」
「わかりました」
 悠希は吐き捨てた。
「考えさせてください。そう長いあいだはお待たせしません」
 口に出してはそういったが、かれの心はほとんど折れていた。
 この老人に逆らうことはできない。ただ向かい合って立っているだけで、そのことが骨身に染みてわかった。かれがいっていることは端的な事実に過ぎないのだ。かれは支配者であり、自分は奴隷だということ。自分にはかれの意志をくつがえすような勁さはない、ただ粛々と従うことだけが自分にできるすべてなのだ、そう悠希は悟らずにいられなかった。
 幼いころには、もし逢えたならどのような怨み言をいおうかと、散々に考えたこともある。しかし、じっさいに逢ってみると、ただ苦い失望しか湧いてこない。
「期待しておるぞ」
 玄宗の皮肉めかした言葉に、悠希は、ただ力なくうなずくことしかできなかった。

 ◆

 そうしてひと月の時が経ち、悠希はいま、高坂の名を捨て、神楽悠希としてこの屋敷に住んでいる。神楽の姓を受け入れてから、生活は一変した。生活に伴うあらゆるものが十倍も豪勢になり、そして同じくらい不快になった。何もかも、魂を差し出した代償として与えられたものに過ぎないと思うと、日常のすべてが腐っていくようだった。
 悠希は元々陽気な性格ではない。猫といっしょに一日中日向ぼっこをしているところが似合うといわれるような、おとなしい少年である。そのかれがなおさら鬱々として楽しまなくなり、ただいままで以上に勉強に励むようになった。もう、アルバイトを続ける必要もないのだ。その時間のすべてを学習に費やすことができる。ただ――いったいそれは何のための勉学なのだろう。その疑問がときに脳裏を掠めた。神楽の家を継ぐためか。本当に一生をあの老人の意のままに動くつもりなのか。このさきの生涯を単なる奴隷として、傀儡として、終えるつもりなのか。理性ではそうするより仕方ないとわかっていたが、それでもときに何もかも投げ出してどこか遠くへ逃げてしまいたくなった。どこにも逃げる処などないということも、わかってはいたが。どんなに逃げても鎖は付きまとうと、しりつくしてはいたのだが。それでも、この屋敷の生活は耐えがたいものがあった。
 唯一、その桎梏から解放される場所は、学校だった。ただ高校に通っているときだけ、悠希は神楽の圧力から解き放たれ、自分じしんとして生きているという実感を得ることができたのだ。しかし、クラスでもいままでどおりとはいかなかった。かれが富裕な家を継いだという話はどこからか広がり、幾人かのクラスメイトから羨望と嫉視を受けることになったのだ。むろん、あいかわらず同じ態度で接してくれる友人もいなくはなかったが、それでも気疲れすることは少なくなかった。
 少しずつ、少しずつ澱のような疲労が肩にたまっていく。
 このまま、どこまで行けるのだろう。どこまで行かなければならないのだろう。そう不安に苦しみながら、悠希はそれでも少しずつ新生活に慣れていった。
「ねえ、高坂くん」
 そんな、ある日。
 ひとりの同級生の少女が、悠希に話しかけてきた。七瀬楓という名のその少女は、悠希にとって親しい友人のひとりである。いかにも女の子らしい優しげな容姿の少女で、男子に非常に人気がある。しかし、どこを気に入ったものか、よく悠希に話しかけてくるのだった。
「何?」
 悠希が応じると、楓は柔らかに微笑んだ。
「あのね、高坂くん、映画とか、興味ないかな? その、実はね、お姉ちゃんからチケットを二枚もらったんだ。えっと、良かったらね、本当に良かったらでいいんだけれど、いっしょに行けないかな、と思って」
「何だよ、七瀬。デートのお誘いか?」
 同級生のひとりがからかい混じりの声をかけてきた。途端に楓は頬を火照らせ、その男子生徒のほうへ振り向く。
「そんなんじゃないの! ただ、悠希くんは最近、気がめいっているみたいだから、何か悩みがあるなら気分転換になればと思って――」
「ありがとう」
 なるべく優しく、柔らかく聴こえるようにと気を付けながら、悠希は答えた。
「でも、ごめん。今日も早く帰らないといけないし――」
「ばか」
 その悠希のうしろ頭を教科書で叩いてきたのは、級長の崎守陽子だった。すらりと背の高いスレンダーな少女で、バスケットボール部に所属している。何かと気がまわり、また気にかかる性格のもち主で、ふだんおっとりしている悠希はよくこうして頭をはたかれることがあった。それにしても、今日は叩く力が強い。
「痛いな、崎守」
「うるさい。お前のような気の利かない男には制裁が必要だ。いいか、女子から誘いをかけるのがどれほど勇気がいることかわからんのか、お前は? いいから、行け、級長命令だ」
「横暴だな」
 かすかに苦笑して、悠希は呟いた。
 後頭部は痛かったが、陽子のうらおもてのないさっぱりした態度は心地良かった。自分の身の上が一日にして激変してからも、この級長の態度は全く変わらない。誰に対しても同じように毅然とした態度で接する少女なのだ。何しろ自宅では日々、虚々実々のやり取りを目にしているから、このような少女に対しては、好感を抱かずにはいられない。楓もそうだが、自分のような、若くして心だけ年老いてしまったような人間に対し、よくこうも率直に対してくれるものだと思う。
「わかったよ」
 悠希はかるくうなずいた。
「ありがたく一緒に行かせてもらうよ。映画か。ひさしぶりだから楽しみだな。いま、何をやっているんだっけ?」
「ほんとに?」
 七瀬の顔が輝く。
「ありがとう、高坂くん」
「いや、お礼をいうのはこっちのほうだよ。たしかにちょっと気がめいっていたかもしれない。気にかけてくれてありがとう」
「そんな――」
 楓はもじもじと両手の指先を絡め合わせた。
 こんなときは、悠希も素直に可愛いな、と思う。異性に興味がないわけではないのだ。
「おうおう、楓は可愛いのう。高坂先生のどこがいいのかのう」
 何かと横槍をいれてくる陽子を無視しながら、悠希は携帯電話を取り出した。つい何日かまえに購入したばかりなので、まだ使い道をよくわかっていないところはあるが、さすがに電話をかけるくらいは問題ない。そして神楽家、即ち自宅の番号を選ぶと、今日は遅くなるから送迎の車には帰ってほしい旨を伝えた。楓に早く帰らないといけないと伝えたことは方便である。じっさいには何も用事などなかった。
 悠希は少女に微笑みかけると、同じ携帯で映画館の情報を調べはじめた。

 ◆

 けっきょく、陽子の勧めてくれた恋愛映画を観ることになった。その映画は幾人かの恋びとたちが交錯しながらそれぞれの恋を育んでいくという内容で、それなりにおもしろかったし、よくできていると感じた。そのうえ、ふだん見ないたぐいの映画なので、なかなか興味深い。しかし、正直、悠希は映画の内容よりもとなりに座る少女に目を奪われていた。
 七瀬楓はおそろしく真剣な表情で映画を観ていた。映画の展開にしたがって、わかりやすく表情が変わるところがおもしろい。ときに笑い、ときに涙ぐみ、彼女は誰よりも映画を楽しんでいるように見えた。悠希など、こんなに映画を楽しだことがあるかどうか怪しいものだ。
 その顔を見ながら、悠希は、これもまたデートというのかな、と考えた。
 かれは見た目ほど鈍い人間ではない。楓が自分に好意を抱いてくれていることは以前から察していた。その行為は嬉しいし、可愛い子だとは思う。しかし、彼女といま以上の関係に発展することは避けたかった。自分の重荷を楓にまで背負わせることに繋がりかねない。
 もし、自分が神楽ではなく高坂のままだったなら、と悠希は考える。もしそうだったなら、彼女の好意に応えることができたかもしれない。しかし、それもまた考えても詮ないことであった。既に選択肢は選ばれてしまったあとなのだから。
 映画館を出ると、既に日は暮れていた。
「食事でもして帰ろうか?」
 悠希が誘いかけると、楓はおどろいたような表情のまま硬直した。
「いいの?」
 恐る恐るといったようすで訊ねてくる。悠希は思わず笑ってしまった。
「いいよ、もちろん。ぼく、いまはお金があるから、映画のお返しに奢るよ」
「そんな――」
「いいから、奢らせてよ。よくしらないけれど、こういうときは男に格好つけさせてくれるものじゃないかな。もっとも、あまり高いお店は無理だけれどね。パスタでもたべて帰ろうか」
「うん!」
 じっさいには、いまの悠希はそれなりのレストランに入っても支払えるだけの金額を持っている。玄宗は決して吝嗇ではなく、かれに神楽の一員にふさわしい額の小遣いを渡してくれたからだ。しかし、その金を、自分のものだとは思えなかったし、また思いたくなかった。何より学生には学生の分というものがある。そんなふうに悠希は考えていた。
 はねるように歩く楓を連れてある路地を曲がったときだった。前方に、ひとりの男が立ちふさがった。壁に手をつき、悠希たちの進路を遮る格好だ。
 悠希は思わず眉根を寄せた。この時世に、荒れた、不穏な雰囲気をただよわせる男だったからだ。薄汚れた骸骨もようのTシャツとクラッシュジーンズを身につけ、口のなかでくちゃくちゃとガムを噛んでいる。そしてその視線は、あきらかに悠希と楓に据えられていた。
 しまった。
 悠希は内心で悔やんだ。
 女の子と一緒にいるときに、このような裏道を通るのではなかった。ひと目のあるところならば、絡まれても避けられるだろうが、ここでは誰にも見つかれないかもしれない。
 そして、悠希がさらに深刻な事態に気づいたのは次の瞬間だった。背後にべつの気配を感じたのである。首だけまわして確認すると、それも最初の男と同じ、見るからに不良然とした格好の若者たちだった。かれらは後方からの視線を遮ろうとするように横に並んでいた。悠希たちは挟み撃ちにあったのだ。
 悠希は怯えたようにからだを寄せてくる楓をさらに引き寄せた。自分に何があっても、彼女を守らなければならない。そう考える程度の侠気は、かれにもあった。
「何だい?」
 つとめて冷静に悠希は話しかけた。
「そこを通してほしいんだけれど」
「だめだね」
 悠希の前後の男たちは、何かひどくおもしろい冗談を耳にしたというように、一斉に笑いさんざめいた。不快な、悪意にあふれた笑声だった。となりの楓が不安そうに腕をまわしてくる。前方の男はひゅうと口笛を吹いた。
「仲がいいじゃねえかよ。妬けるな。おれたちにも少し分けてくれよ」
 悠希はさりげなくあいての人数をたしかめた。前方にひとり、後方にふたり、合わせて三人。一対一ならともかく、三対一では勝ち目はない。それにしても、なぜ、こんなところで絡まれるのか。身に覚えはない。いや――悠希の脳裏にひとつの名前が浮かんだ。
「まさか、純二叔父さんに頼まれたのか?」
 悠希がいうと、前方の男はすっと眸を細めた。それが言葉よりも雄弁に悠希の質問を肯定していた。悠希はちいさくため息を吐いた。怨まれているとは思っていたが、まさか、こんな行動に出るとは。かれはとなりの少女の肩を抱いた。
「わかったよ。もし金がほしいなら払う。だからいまは見逃してくれ。頼む」
「だめだ、といっているだろうが」
「どうしても?」
「どうしてもだよ! てめえのその面が気に入らねえ」
「わかった。そのかわり、彼女だけは逃がしてくれ。きみたちだって、ただ金で雇われただけなんだろう?」
「悠希くん?」
 悠希の腕に抱かれた楓が心配そうにかれを見あげる。しかし、悠希はあえてそれを無視した。
 男はそのさまを不快そうに眺めながら、壁に唾を吐き捨てる。
「だ、め、だ。へっ。可愛い面しているじゃんかよ。女みてえだ。反吐が出るね。おれはお前みたいなイケメンさまがいちばん嫌いなんだよ。お前みたいな野郎にはおれみたいな恵まれない人間の気もちは絶対にわからねえ。だから、少しはわかるように傷めつけてやるよ。わかったか」
「そうか――七瀬さん、大丈夫だから、心配しないで」
 悠希はそっと楓に耳打ちした。自分が合図したら逃げるよう前へ逃げるように、と。楓はおどろいたように悠希を見あげてきたが、もはやかれはその視線を頓着しなかった。
「いまだ!」
 叫んで、悠希は男の足にめがけタックルした。
 男は予想外の行動にあわてたように見えた。もし、かれが全く油断していなかったら、悠希のタックルは空を切っていたかもしれない。しかし、狭い路地で、壁にもたれかかる男は自由に動けなかった。悠希はかろうじて、避けようとする男の左足を捉えた。ふたりもみ合いながら倒れこむ。男は倒れる際に強く背中を打ったらしく、悶絶した。
「七瀬さん、逃げて!」
「う、うん!」
 悠希の言葉をどう捉えたのか、楓はかれの方へ向けて走りだした。ようやく事態の展開に追いついた後方の男たちが追いつかけくるが、楓が悠希の横を走り去る方がわずかに早かった。路地を抜け、曲がり角を抜けると、あっというまに少女の姿は見えなくなる。
 よかった。
 男ともつれ合いながら、悠希がそう思ったとき、男の膝が、悠希の腹を捉えた。強烈な苦痛と吐き気に見舞われて、思わずからだを離してしまう。その瞬間、後方のふたりが追いついた。たちまち、悠希の顔面に殴打が見舞われる。同時に蹴りが入った。
 あとは一方的だった。悠希はただ、本能的に亀のように身を縮めて身を守ることしかできなかった。しかし、男たちは悠希のからだの柔らかい部分を狙って執拗に攻撃を加えてきた。顔を殴られ、腹部を何度となく蹴りつけられる。
「野郎!」
 見ると、男たちの目は異様に血走っていた。あるいは、何か薬物にでも手を出しているのかもしれない。それとも、ただ暴力の恍惚がかれらの神経に異常な快楽物質を駆け巡らせているのか。いずれにしろ、かれらは歯止めが利かなくなっているようだった。
 たえまない苦痛の連鎖のなかで、悠希の意識はゆっくりと溶暗していった。

 ◆

 と。
 悠希は、ふしぎとすべての痛みがひき、異様に明晰な意識で、ひとりの少年を見上げていることに気づいた。既に男たちは殴り、蹴ることをやめて離れている。だから、かれが見あげる少年は男たちのひとりではない。奇妙に思ってよく見てみると、見覚えのある顔だった。そう――なんと、それはかれじしんの顔だった。悠希じしんが興味深げな顔をして、倒れこんだかれを見下ろしているのだった。
「やあ」
 もうひとりの悠希――おそらくはその幻影はそう話しかけてきた。
「きみに逢うのも、ひさしぶりだね」
「そうだな」
 悠希は答えた。あるいは、そのつもりになった。
「もう逢うことはないと思っていたよ」
 少年はふしぎそうに小首をかしげた。
「なぜ、あんな奴らにやらせておくんだい」
「放っておいてくれ。三対一じゃ、勝ち目はない。仕方ないだろう」
「そんなことはない。きみは、その気になれば、こんな奴ら、一瞬で倒してしまえるはずさ。何せ、きみは神楽の血を継いでいるんだから。きみが本気なら、こんな連中、あいてになるはずもない。この連中が憎くないのか? こいつらはきみの誇りを暴力で穢したんだぞ」
「憎い?」
 悠希は考えた。
 そう考えると、昔、かれはさまざまなものを憎んでいたことを思い出した。それは世界を焼きつくす火、ありとあらゆる騒乱の根元にある感情であった。いまは? そう、かれは気づかずにはいられなかった。克服したように見えて、実はいまも何も変わらず心の奥底で憎しみがうごめいていることに。
 どくん、と心臓がひとつ大きく打つ。
 そのとき、悠希のなかで、何かひどく凶暴なけだものがのそりと目を覚ました。やけに大きく聴こえる心音に合わせて、そのけだものもまた次第に覚醒していくようだった。視界が赤黒く塗り替えられていく。心の奥から、いいようのない怒りと憤懣が沸き上がってくる。
「それでいい」
 もうひとりの自分がささやく。
「自由になれよ。きみが本当に自由になったなら、無敵だ」
 殺す。
 その、もうひとりの自分がどこかへ消えて行くのを感じながら、悠希は心中で呟いた。かれの心の奥底、おそらくは心臓から、その想いは血の噴水のように吹き出てとまらなかった。それは憎しみのようでもあり、怒りのようでもあり、そしてそのいずれでもあるもの――かれが生まれて初めて覚える、本物の殺意だった。
 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す――必ず、殺してやる。それも、生きていることを、この世に生まれてきてきたことをたっぷり後悔できるほど嬲ってから、ゆっくりと息の根をとめるのだ。まずは歯を折り、その爪を剥ごう。頭髪を引きぬき、骨という骨を折ろう。その濁った双眸を抉り、耳を削ぎ――そして、ゆっくりと心臓を抉り出してやろう。あるいは、その途中で苦痛のためにショック死するかもしれないが、そのときは次の獲物を嬲れば良いことだ。
 ひとりも生かして帰さない。
 悠希は、憎悪よりも昏く憤怒よりも激しいその感情に恍惚と身を委ね、からからと高笑いしながらその場に立ち上がった。いまや、からだじゅうから苦痛は失せていた。ただ、殺意と、暴力の渇望と、力の感覚だけが満ちていた。
 殺す。
 おれには殺せる。
 かれが後ろでゆらりと立ち上がったことに気づいた男たちが、嘲笑のかたちに唇を歪めようとし――そして、その唇を開いたまま閉じられなくなった。かれらは悠希の背後を指さして何か叫び、その顔が恐怖と驚愕とにひきつった。それはありえるはずのないものを見たものの顔であった。
 刹那、悠希は男たちに飛びかかっていた――ひとには不可能なはずの動きで。かれは数メートルを超える距離を夢魔の如くひと飛びに跳躍していたのだ。
 男たちは大きく悲鳴をあげた。しかし、その声はすぐに苦痛の呻きへと変わり、やがてそれもやみ――あとにのこるものは遠く往来する車の音や、人びとのざわめき、そうした都市の雑音のかすかな残響ばかり。