『ファイブスター物語』と悪のラスボス問題。


 「『バトルスピリッツ少年激覇ダン』ラスト・ボス、その男、異界王」

 LDさんの記事があいかわらずおもしろいわけですが――いつものことながら、よくもまあこういう有名でもなければ、とりたてて傑出しているわけでもないであろう作品を見ているなあ、と思います。ふつうチェックしきれないよなあ。

 しかも、LDさんの記事を読んでいると何だかすごくおもしろそうに思えてくる。たぶん、じっさいに見てみたらそれほどでもないんだろうけれど。

 内容は最近LDさんが取り上げる「ラスボスをたおしちゃってそれでどうするの?」という問題にかんしてなんだけれど、まあ、『魔法先生ネギま!』とかもこの「命題」を扱っているわけですよね。『ネギま!』の場合はネギくんにはプランが存在するらしいのですが――もちろん、もっとシビアな状況も考えられます。

 そういう状況を描いているのが、たとえば、永野護の『ファイブスター物語』です。この物語の舞台は四つの恒星と五つの有人惑星からなるジョーカー太陽星団なのですが、物語が開始した時点で、その惑星のひとつ、カラミティ星は崩壊の危機に瀕しています。

 どういう理由で崩れ去るのかはよくわからないのですが、とにかく「惑星の寿命が来ている」ということで、崩壊を避ける手段はないらしい。

 この作品の場合、さらにシビアなことには、単行本巻末に付された年表によって、じっさいにカラミティが崩壊してしまうことはわかっています。惑星崩壊を回避する方法は存在しない、いや、「存在しなかった」のです。

 物語が進むにつれて、このカラミティ星崩壊の物語にスポットライトがあたってきます。この星が崩れることは、どうやら国家の指導者レベルには、その数百年まえからしられていたらしいのですね。

 そこでカラミティの大国のひとつ、フィルモア帝国の若き皇帝エニューラス・ダイ・グ・フィルモアは、ほかの惑星への侵略を企てます。そのために魔導大戦と呼ばれる大戦争を拡大させ、星団を疲弊させてまで、フィルモアの民を救おうとするのです。

 ダイ・グの心中は複雑です。かれはすべてがフィルモアのエゴであり、自分が星団の歴史に悪の皇帝として記憶されるかもしれないことをわかっています。それでもなお、フィルモア帝国の皇帝として、己にできることを行なおうとするのです。

 何というノブレス・オブリージュ。年表を見るかぎり、結局はこの侵略計画も失敗に終わるようなのですが、何億という人々の命を背負い、ぎりぎりのところで決断を下すダイ・グの姿は印象にのこります。

 さて――しかし、仮に、ここに、ダイ・グの深意をしらず、ただかれの侵略者としての顔のみを見て、かれを打倒しようとする少年が現れたとしたらどうなるでしょう。そのとき、まさにダイ・グは「悪のラスボス」に見えるのではないでしょうか。

 そして、仮にその少年がダイ・グを打倒してしまったとしたら? かれは一時的に星団に平和をもたらすかもしれませんが、畢竟、より大きい災いをもたらすことになるかもしれません。そういう意味では、無責任な奴だなあ、ということになる。

 そう考えていくと、「正義」と「悪」の問題とは、一面、「視点」の問題なんですよね。ダイ・グは悪の侵略者であるかもしれませんが、かれの視点で物語を見るかぎり、単なる悪役には見えません。

 そういう意味では、悪役とは、反視点人物というか、決して内面が描写されない役割なのでしょう。視点人物になってしまえば、内面が描写されてしまえば、かれはもう純粋な悪役には見えなくなってくるのですから。

 正義に正義の事情があるように、悪には悪の事情がある――そこまで考えていくと、もはや勧善懲悪はむずかしくなります。で、そこからどういう物語が展開するのかというと、ようするに『三国志』が、群像劇が始まるのだろうなあ、と。

 それはそれでとてもおもしろいわけですが、しかし、その種の物語は果てしなく複雑化/長大化していく傾向があります。そしていつまでも終わらない。まあ、ようするに『ファイブスター物語』とか『グイン・サーガ』になるんですね。

 それはそれで厄介な話で、まあ、やっぱり『銀英伝』とか『まおゆう』はすごいなあ、と思ったりします。物語を終わらせるということが増々困難になりつつある昨今、きちんと作品を終わらせた作家はそれだけで評価されて良いでしょう。

ファイブスター物語 (1) (ニュータイプ100%コミックス)

ファイブスター物語 (1) (ニュータイプ100%コミックス)