ひき逃げ犯、ひき逃げするまでただのひと。


 昨日の記事では、「そとから見たってひとのことなんてそう簡単にはわからないものだよ」ということを書いたわけですが、本当はうちから見たってわからないものはわからないんですよね。

 すべてのひとが自分がどういう人間か、はっきり自覚しているわけではない。それどころか、わかっていないひとの方が多いかもしれない。

 よくひき逃げ犯のことを考えます。ひき逃げ犯は、もう問答無用で犯罪者であるわけですが、しかし、事故を起こすその一瞬まではただの一般市民です。思うに、かれはその瞬間、初めて自分がひき逃げをするような人間であるということをしるのではないでしょうか。

 かれはそのときまで自分が犯罪者になりえるような素質を持っていることをしらないと思うのです。自分は善良で正常な一般市民だと思っているひとが、ひとをはね、逃げ出してしまう――逢魔の瞬間。そのとき、「善良な自分」というセルフイメージは粉々に砕け散り、二度と元に戻ることはありません。

 逆もまたいえます。ひとを助けるため、燃えさかる火のなかに飛び込んでいくようなひとがいます。本物のヒーロー。しかし、かれもまた、まさにそのときまで、自分が火のなかへ飛び込めるような人間であることをしらないのではないでしょうか。

 『花よりも花の如く』という漫画のなかにまさにそういう場面があるのですが、そのモチベーションになっているものは実は子どもの頃、自分じしんがひとに助けられたという仄かな記憶だったりします。

花よりも花の如く (1) (花とゆめCOMICS)

花よりも花の如く (1) (花とゆめCOMICS)

 ひとは自分でも思いもよらぬような顔を隠し持っていて、それが決定的な瞬間に飛び出してくる。いい方を変えるなら、ふだん被っている仮面はいつ壊れるかわからないということ。だから「自分はこういう人間だ」などと決め付けることは良くないのでしょう。

 あなたは本当は犯罪者になりえるかもしれないし、ヒーローにもなりえるのかもしれない。自分自身ですら奥深いミステリに他ならない。ましてや他者はなおさらわからない。この「わからない」という事実をまえにして、ひとは初めて謙虚でありえるのだと思います。

 ひき逃げ犯もひき逃げするその瞬間まではただのひと。殺人犯も殺人するその決定的な一瞬までは普通のひと。本当はだれも自分じしんをしらないのかもしれない。ぼくも、いや、あなただって、あしたにはひき逃げ犯になっているかもしれないのです。

 じぶんはそうならないといい切れるひとが、どれだけいるでしょうか?