ブログを読んでもブロガーのことはわからないと思うよ。


 ひとつの亡霊がインターネットを徘徊している――ブロガーという名の亡霊が。どういうことでしょう。つまりまあ、ぼくの場合でいうと、「海燕は××だ」という意見を見るたび、それが賞賛であれ批判であれ、非常に奇妙な気分になるということです。逢ったこともなければ話したこともない全くの他人に、いったいぼくの何がわかるんだ、と思うわけですね。

 ぼくについて語るかれ、ないし彼女がぼくにかんして知っていることといえば、ぼくがこのブログに書いたことがほとんどすべてでしょう。でも、このブログはべつだんぼくの人格を正確に投影していないと思うんですよね。

 全く無関係ではないにしろ、これこそぼくじしんだといえるものでは全くない。ぼくの人格の破片の残像であるに過ぎない。それを根拠に人格を語られてもなあ、と思わずにいられません。

 もちろん、だからじぶんの発言に責任を取らなくていい、ということにはなりません。虚言であれ、軽口であれ、じぶんの言葉に責任を持つのは当然のこと。ただ、それは必ずしも「本当のじぶん」を表したものではないよ、ということです。

 そもそも「本心」を正確に表現することは困難です。仮に素直かつ率直にじぶんの思ったことを話そうと思っても、言葉に変換した時点でどうしようもなく「本心」とはずれていってしまう。書き終えたあと、「こういうことをいいたかったわけではないのだが」と消沈することは良くあることです。

 そういうわけで、ブログを読んでもブロガーのことはよくわからないと思うわけです。いや、まあ、究極的にいえば、べつだんブログでなくリアルであっても、「本当のそのひと」など、そとから見てわかるものではないでしょう。

 ぼくたちにできることはただその言動なり行動から人格を推測することだけであって、本当はあの凶悪な殺人鬼も、聖者の如く清らかな心を持っているかもしれない。本当はあの人格者も、蛇のように狡猾であるに過ぎないかもしれない。

 その意味では、ネットであれ、リアルであれ、人格の断片に過ぎないものから人格を測られることは仕方ないことだといえるかもしれません。ようするにすべては程度問題であるに過ぎないのです。ぼくたちには虚像とダンスを踊ること以外できない。

 ただ、そこで「じぶんは虚像を見ているに過ぎないのだ」という認識を持っているかどうかで、やはり何かしら違ってくるだろうとは思います。人間という存在の底しれない複雑さ、その究極のなぞに対する謙虚さが必要だと思うんですね。

 そうでないと、あいつはいい奴だ、あいつは悪人だ、あいつはバカだ、あいつは間抜けだ、と適当に割り振ってわかったつもりになってしまうことに留まることになる。決して理解できないと心底思い知りながら、なお理解する努力を放棄しないこと、人間性のなぞを探る方法があるとすれば、それ以外にはないでしょう。

 あるいはまあ、わかったつもりになっていいかげんなことをばらまいているほうが本人は幸せだし、満ち足りていられるかもしれませんが。しかし、かれがしあわせそうにシンプルな世界観を披露しているのを見ると、何だかいたたまれない気分になってしまうのはぼくだけではないでしょう。

 ぼくは不幸でも正気のほうがいいや。まあ、それもやはりそとから見た印象に過ぎませんが……。