感情のキャパシティが足りない。


 昨晩、というかさっきまでいずみのさん(id:izumino)と敷居さん(id:sikii_j)のラジオに出演していたんだけれど、いろいろ宿題を持たされたかんじで、考え込んでいる。考えるなといわれても考えてしまう。「批判をより分ける」ということについて。

 一般論として、じぶんに対する批判を受け容れようとしない人間は独善の罠に陥る。理想を抱いた独裁者がやがて腐敗していくように。だから、的確な批判を受容する度量を持たなければならない。正論。

 しかし、当然、すべての批判を受け容れることもまたできない。そのなかには、単なる悪言罵倒に過ぎないものも、また誠意から出たものであっても内容的に間違えているものも含まれているだろう。そこで批判をより分ける必要が出てくる。じぶんの意思で、じぶんの基準で、批判の正否を分けるのだ。

 しかし、思うに、ぼくには無理だ。その程度の人間といわれればそれまでだが、どうしても無理。その成否を考えるまえに「言葉にあてられて」しまう。特にはてなブックマークなんか見ていると、もう内容以前のレベルで、気持ち悪くなってくるんだよね。

 これはもう、じぶんへの批判だから耐えられないというのではない。それもあるが、ひとのブックマークでも耐えられない。結果、最近、ぼくはほとんどはてなブックマークを使っていない。はてなブックマークとか、mixiとか、2ちゃんねるあたりは、その空気そのものが、ぼくには耐えられない世界なのだといえる。

 というか、ネット自体に向いていないんだろうなあ。ネットスラングなんてたいていきらいだし。しかしたしかに昔はそれでもはてブを使っていたわけだから、傾向がひどくなっているかも。だんだん心が弱く、あるいは過敏になっているのかもしれない。

 畢竟、感情のキャパシティが足りていないということなのだろう。この機会に「Something Orange」をとじてしまうのも良いかもしれない、とも思うのだが、まあ、さすがにここまで大きくなったブログを閉鎖するのはもったいない。

 逆にいうと「Something Orange」を維持する理由は「もったいないから」というだけなんだよね。持っていれば告知や集客に役に立つ、ネットの世界の看板。しかし、その程度のものだ、ともいえる。

 基本的に多大なコストを払ってまで維持するべき理由はないし、そろそろ潮時が来ているのかもしれない、とも感じる。コメント欄にしても、ぼくのキャパはオーバーしてしまったけれど、より心に余裕のあるひとなら、オープンにしたまま運営していけるだろう。

 けっきょく、ぼくにはそこまでの対人処理能力がないのだ、ということか。元々、社交的な人間ではないし、必然の結末であるのかもしれない。それほどの器量がなかったのである。

 ネットというか、社会そのものが、ぼくには向いていないようにも思える。だったらどこに向いているんだ、といえば、どこにも向いていないのだけれども。

 ただ、このブログをとじてしまったら、ぼくにはもう、ほとんど社交の回路がない。「Something Orange」があったればこそ、さまざまな人たちとも知り合え、交流することができた。その意味では、閉鎖してしまうことはざんねんではある。

 冬のコミックマーケットに出す同人誌を最後の花火として、それで閉鎖することにしようか、とも思う。冬コミ当日でちょうど十周年。いい機会ではないか。そうなると寂しくなることはたしかだが――何事にも、区切りというものはあるものだ。

 年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。いつのまにか、それと気づかぬうちに、ぼくの心も、年老い、うるおいを失い、青年の日とは変わってしまっていたのかもしれない。いつのまにか時は過ぎ、いつのまにか歳をとった。もう、あの日は帰ってはこない。

 迷うところ。