それは「甘え」ではない。


 漫画『ピアノの森』が佳境を迎えている(以下、今週号のネタバレあり)。佳境といっても、まだ連載は何年も続きそうではあるのだが、とにかくひとつのクライマックスにたどり着いたことはたしかだろう。

ピアノの森 1 (モーニングKC (1429))

ピアノの森 1 (モーニングKC (1429))

 ショパンコンクール予選で、主人公カイの小学校時代からの友人でライバルである雨宮が落選してしまったのだ。決勝でカイを打ち破り、長年のコンプレックスに決着を付けるつもりだった雨宮は激しく落胆する。人生そのものが否定されたかのような苦しみ。

 そこでカイは雨宮を慰めようとするのだが、雨宮はそんなカイに向け、小学生の頃からかれが嫌いだったと告白してしまう。

 小学生時代からかれらを見つめてきたものにとっては印象的な展開である。ただ、考えてみれば、雨宮もそれほど絶望しなければならないような境涯ではない。ショパンコンクールでこれほどの演奏をなしえた時点で、かれの評価は上がっているはずだ。

 しかし、それでも雨宮は絶望するのである。なぜなら、雨宮はカイにコンプレックスを抱いているからだ。雨宮の比較対象はあくまでもカイであり、かれを打ち破らなければ演奏に意味を見出せないのだ。

 それでは、カイと比べて雨宮は全くの凡才なのか。そうではない。かれは間違いなく日本の若手で屈指のピアニストであり、もう一歩でショパンコンクール決勝までたどり着けたかもしれないという俊才なのである。

 それはたしかにかれのピアノは天才カイには及ばないかもしれない。しかし、当のカイじしんが、ほかのだれのものよりも雨宮のピアノを評価している。カイはいう。雨宮はなぜひとの才能はわかるのに、自分の才能には気づかないのか、と。

 全くその通り。ただ、それが人間というものなのかもしれない、とも思う。ひとの主観と客観はときに激しく乖離する。他人が見て幸福そうだからといって本人が幸福だと感じているとはかぎらない。そして、雨宮はいわば主観の牢獄に繋がれた囚人なのである。

 かれはじぶんの主観的孤独のなかでもがいている。カイを含む他人が、どれほどかれの演奏を賞賛しても、自分じしんでその価値を信じることができなければ無意味なのである。

 客観的に幸福そうに見える人間の主観的な不幸は「甘え」などではない。貧困や難病といった「客観的に確認できる不幸」だけが不幸ではないのだ。客観的に見てどれほど恵まれていても、主観的に絶望しているのでは意味がない。

 羽海野チカ3月のライオン』などを読んでいても同じことを感じる。『3月のライオン』の主人公零は、客観的にみればごく恵まれた才能の持ち主である。将棋の歴史上数人めという傑出した才能の持ち主であり、友人にも、恩師にも、家族にも愛されている。しかし、かれの心を占めるのは未だにどす黒い感情だ。

3月のライオン (1) (ヤングアニマルコミックス)

3月のライオン (1) (ヤングアニマルコミックス)

 雨宮や零たちだけではない。ある意味では、ひとは皆、主観の牢獄の囚人である、ともいえる。「じぶんは不幸だ」と思っている人間は、他人が見てどれほど幸福そうであっても、やはり不幸なのである。その逆もまた然り。「甘え」という言葉は、注意して使うべきだろう。