議論がハルマゲドン化するとき。


 議論といい、論争という。ようするに言葉による「論」の応酬を指す語であるが、ネットでは議論も論争も不毛に終わることがしばしばだ。いや、ネット以外にも不毛な議論は腐るほどあるが、ネットでは特に多いのではないか。

 その理由は判然としている。互いに面識のない人間同士が、言葉「だけ」で対話しなければならないからである。通常、人間が対話するとき、言葉以外の要素も使われる。

 たとえば、あいてが何かしらいらいらした態度を示せば、ああこのひとは不満があるんだな、と思うし、満面の笑みを浮かべていれば、自分の意見に賛成なんだな、と思う。ごく単純化していえばそういうことだ。

 しかし、ネットではそれらの「非言語コミュニケーション」の要素が一切カットされる。したがって、言葉をきわめて注意深く適切に使わなければならないのだが、ぼくも含めてネット利用者の大半は言葉のプロではない。だから、不毛な議論が発生することは自然だろう。

 この場合の「不毛」とは、対立する意見のいずれもが間違えている、ということではない。仮にいずれかの意見が正しいとしても、論争自体に意味を見出すことができない、ということである。

 たとえば、「タバコはからだに悪い」という意見と「そうではない」という意見がぶつかっているとする。この場合、論理的にいって、いずれか一方が正しいだろう(個人的には前者が正しいと考える)。

 しかし、相互に自分なりの「正論」を投げかけるだけでは、いつまで経っても話は前進しない。ただ同じやり取りがループしながら延々と続くだけである。このような際限なく続く不毛なやり取りを、ぼくは「ハルマゲドン化した議論」と呼んでいる。

ハルマゲドン(アルマゲドン、ハーマゲドンと表記される場合もある、希:Ἁρμαγεδών、英:Armageddon)は、アブラハムの宗教における、世界の終末における最終的な決戦の地を表す言葉。ヘブライ語で「メギドの丘」を意味すると考えられている。メギドは北イスラエルの地名で戦略上の要衝であったため、古来より幾度も決戦の地となった(著名なものに、トトメス3世のメギドの戦いなど)。このことから「メギドの丘」という言葉がこの意味で用いられたと考えられている。また、比喩的に、世界の終末的な善と悪の戦争や世界の破滅そのものを指す言葉としても用いられる。

 ようするにたがいにじぶんを絶対善(あるいはそれは客観的にも善であるかもしれないが)に見立て、あいてを絶対悪(あるいはそれは客観的にも悪であるかもしれない)として永遠に続く戦争をくり広げているようなものだ、ということだ。

 このような論戦ほど無意味なものはないと考える。このような場合、ある意味、敵対する両者は、議論を凍結させるという意味で共犯関係にあると見ることすらできる。互いに責任はあいてにあると考えているだろうが、この場合、そのことは重要ではない。

 いずれに責任があるにせよ、そんなことを問うたところで議論は進展しないのだ。では、議論がハルマゲドン化したときにはどうすればいいのか。いずれかが歩み寄らなければならないのだが、それは「正論」を捨て去ることに等しい。むずかしいところである。

 しかし、思うに、そのようなばあいでも、ロジック以外のところで歩み寄りを示すことはできるのではないだろうか。たとえば、「あなたの意見に賛同することはできないが、そう考えるあなたの気もちは理解できる」というふうに。

 そういう歩み寄りも絶対にしたくない、というのなら、そもそも議論などしないほうがいいかもしれない。ネットであれ、リアルであれ、たがいに最低限のリスペクトがなければ、議論など成立するものではないだろう。

 自らハルマゲドンの口火を切る必要はないのである。