地獄への道はいつも善意で舗装されている(とは限らない)。


 ネットの森をさまよっていると、しばしば「地獄への道は善意で舗装されている」という箴言を見かける。検索してみたところ、この言葉、もとはイギリスのことわざであるらしい。さらなる元ネタはシラーだともいうが、よくわからない

 まあ、「善意で行動したことであっても、思わぬ悲劇を生む原因になりえる」という程度の意味だろう。なかなか含蓄が深い言葉ではある。

 しかし、たまにここから「だから善意での行動は信用できないのだ」という結論が導かれているところを見かけると、「ちょっと待ってくれ」といいたくなる。たしかに善意は時に悲劇を生むかもしれないが、やはり悪意で行動するよりは善意で行動したほうがいいと思うのだ。

 そもそも、だれかがある行動に対して「あなたの行動は善意がもとになっているからあてにならない」と批判するとき、その動機もまた善意なのではないか。すべて善意があてにならないなら、善意を批判する善意もまたあてにならないはずだ。メタ善意もまた善意なり。

 もちろん、そんなことはない。ようするに善意から出た行動だろうが悪意から出た行動だろうが、結果が良ければそれでいいと思うのだ。

 たしかに「じぶんの行動理由は善意なのだから悪い結果になるはずはない」というような無邪気すぎる善意は戒められるべきだろう。しかし、それが善意全体の否定に繋がることはおかしい。

 善意が思わぬ悲劇に繋がることは少なくないかもしれないが、だから善意は良くない、とはいえないのである。副作用があるからといって薬を使うことがいけない、とはいえないように。

 これと似たような言葉で、「耳に痛い意見もちゃんと聞き入れるべきだ」というものがある。この言葉じたいはぼくも正しいと思う。しかし、これが「耳に痛い意見だから聞き入れなければならない」となると、やっぱりおかしい。

 意見の正否はそれが耳に痛いかどうかとは関係ないはずだ。じぶんにとって心地いい意見が正しいこともあれば、耳に痛い意見が間違えていることもある。耳に痛い意見を聞き入れたほうがいいかは、ケースバイケースとしかいいようがない。

 その意味では、耳に痛い意見を常に聞かないことも、常に聞き入れることも、両方間違えているということになる。「わたしの意見はあなたにとって耳に痛いものだから正しいのだ」というような考え方は、やはり倒錯している。

 というわけで、「地獄への道は善意で舗装されている(こともある)」くらいが適当な表現なのではないかと思ったりするしだい。絶対流通しないだろうけれど。