愛という名の毒りんご。

 プレイ中。おもしろい〜。三部作を通して見てみると作り手の意図がわかってくるね。

 この『神様のりんご』三部作は「愛」についての物語だ。アメリカのカルト作家カート・ヴォネガット・ジュニアは「愛は負けても親切は勝つ」といったそうだが、そう、「愛」はそれじたい問題を孕んでいる。

 「食べてしまいたいほど可愛い」というグロテスクな表現は、一面、「愛」の真実を語っているのではないか。つまり、「愛」とは、一面、「あいてを自分の一部にしてしまいたい」という恐ろしい欲望に他ならないのである。

  それを醜悪と呼ぶことも、愚劣と蔑むことも容易だろう。そして、その「愛」を何重にも濾過して汚い部分、見たくない側面をこそぎ落としたものをたぶん「純愛」と呼ぶのかもしれない。

 でも、ぼくは思うのだ。それって「愛」の残りかすに過ぎないんじゃないの? 濾過すればなくなってしまうどろどろぐちゃぐちゃの部分こそ「愛」の本質じゃないの?

 それは煮詰めすぎて毒性を持った蜜のようなものだ。あまりにも甘く、味わわずにはいられない、しかし、舐めすぎれば破滅が待っている――そういうもの。

 このシリーズの第一作『さかしき人にみるこころ』の主役カップルは、互いに適切な距離感を探りながら完全に対等な存在としてあいてを見ることのできる「大人」だった。

 第二作『どんちゃんがきゅ〜』では、そういう「大人」の恋人たちをも破滅させかねない「愛」の毒のしたたりが語られた。そして、この『まじのコンプレックス』の主役真路乃は、「大人」になりきれない少女だ。

 真路乃は愛されることに飢えている。彼女には「適切な距離感」を保ったまま「いちゃいちゃ」することはできない。愛されれば、あいてのすべてを望まずにはいられない。そんな彼女がどんな恋愛をしてゆくのか――ああ、楽しみだなあ。

 「愛は負けても親切は勝つ」。それでも、いや、そうだからこそぼくは「愛」の物語が好きだ。それはたぶん「適切な距離感」とは必ずしも相容れない概念である。でも、だからこそ、「愛」という名の呪われた毒りんごは、ひとを誘惑してやまない。ひと口かじってみませんか、と。

 ぼくは「愛」の物語を愛する。