作家の評価は最高傑作で決めるべき?


 最近のこのブログの記事は、昔から思っていたことをあらためて形にする、というものが多い。これもそうである。ある作家を語るとき、その評価は全盛期の最高傑作で決めるべきだ、という話。

 間違えても「あんな駄作があるからたいした作家じゃない」などというべきじゃないし、全作品の平均で評価することもあまり意味がないと思う。まあ、よほど平均的に出来が良ければそういう点を評価することもできるかもしれないが、基本的には最高傑作で評価することが妥当なのではないか。

 ようするに、最低点でも平均点でもなく、最高点で評価することが好ましい、といっているのだが、どうだろう。

 個人的には、最低点で評価を決めることは論外だと考える。たとえば山田風太郎はいわずとしれた戦後を代表する天才物語作家だが、ひとつだけどうしようもない退屈だと評判の作品がある。『忍法相伝73』。ひと呼んで天才の駄作である。

 ぼくは読んだことないのだが(そもそも入手が困難なのだ)、とにかくつまらない内容らしい。よほど調子が悪かったのか、やる気が起きなかったのか、それはわからないが、いわゆる「忍法帖」の順位最下位の作品だと聴いている。

 しかし、この『忍法相伝73』の存在を根拠に、山田風太郎もたいした作家ではなかった、などということはできないだろう。作家も人間だから、調子がわるい時もある。そのときの作品で評価するのは、どう考えてもフェアではない。

 では、平均点で考えることはどうか。山田風太郎のばあい、平均点をとってみても異様に高い点が出るのだが、それでもやはりいくらか落ちる作品もある(本人がそう評価している)。

 しかし、その最高傑作群と来たら、これはもう神の如き傑作が並んでいるわけで、ぼくはやはりその傑作のほうで評価することが正しいと思う。つまり、この不世出の大作家の評価は、やはり、『甲賀忍法帖』か『くノ一忍法帖』、そうでなければ『警視庁草紙』あたりで決めるべきだと思うのだ。

 森博嗣さんだったかがいっていたけれど、天才とは、人物ではなく時期を指す呼称だ、と。つまり、ある人物がずっと天才であるわけではなく、ある時期、ある人物に天才は宿る、ということだと思う。晩年にいたって衰え、晩節を涜す作家は少なくない。しかし、そういう作家でも全盛期に最高傑作をのこしえた、という栄光が消えるわけではない。

 たとえばアレクサンドル・デュマなどは、多作であることもあり、相当失敗作ものこしているらしい(翻訳されていないので確認はできないわけだが)。しかし、だからといって『ダルタニアン物語』や『モンテ・クリスト伯』を書きえたという栄誉がなくなることはない。作家とは、そういう仕事である。

 畢竟、「あんな駄作もある」「こんな愚作もある」というひとたちは、ただその作家を嫌いだから貶めたいだけなのではないか、とぼくには思える。最高傑作をこそ注目するべきだ。その最高作がダメなら、それはまあ、仕方ないかもしれないけれど。