なぜぼくは偉そうで性格が悪いのか? あるいは親切にかかるコストの問題。


 先日の記事について儀狄さんとスカイプで話した内容が、なかなかおもしろかったので、本人の許可を取って記事にする。ぼくが骨惜しみしない人間だったら、話した内容を的確にまとめてみせるのだが、面倒なので、該当箇所をコピー&ペーストしてしまおう。

 なお、この会話は誤字などを直し、会話が前後した部分を修正してあるほかは、基本的に話したときそのままである。話はぼくが「乱暴な言葉づかいの人間は差別する」といった、その話題から始まる。

儀狄:ただ、このての排除ってのは怖いですよ。
海燕:まあね。
儀狄:例えば、「東京都が職員採用試験に乗馬を導入し、乗馬が一定のレベルに達していない人はいくら他の成績が良くても落とす」ってやるのは、たぶん特定層の優遇だと思う。
海燕:うむ。
儀狄:同意しました? 其の理由は何ですか?
海燕:乗馬をする能力をもつ特定層を優遇していることには間違いないんじゃないですか。
儀狄:『乗馬をすることは乗馬クラブに行けば誰にでもできる。排除ではない。今後も続けていく』と言われたら?
海燕:いや、それはほかの条件でも同じでしょ。簿記一級だって英検だって同じ。ただ、乗馬という技術が仕事に関係ないなら不条理だと感じますが。
儀狄:SPI(一般教養)ってどこまで仕事に関係あるんですかねー。
海燕:なるほど。それもそうだな。
海燕:まあ、学生が感じる不満ですよね。「こんなこと勉強して、社会で何の役に立つんだよ!」。もっともな不満ではある。
儀狄:で、上の乗馬の例は本当は何を排除しているかというと、「馬に乗れない人」ではありません。「貧乏人」です。
海燕デジタルディバイドとかと同じ問題ですね。
儀狄:誰にでもできると言いましたが、乗馬を習える人はやっぱり家がそこそこ以上に裕福な人に限られます。なので、乗馬により東京都が職員採用するのは、貧しい人の排除であり、(公務員のように)元々家が裕福な人への優遇になります。
海燕:それはそうですね。
儀狄:乱暴な言葉遣いはあらためられるか。周囲が皆、乱暴な言葉遣いをしているような環境で育ち、2chを見てたような人だったらたぶんそれは『本人に染みついた文化』だ。改めようと思って簡単に改められるようなものでもない。
海燕:そうかなあ。仮にリアルではそうであるとしても、ネットでは考える時間がありますよ。
儀狄:いや、考えても無理でしょう。習慣なんだから。
海燕:人間には自由意志というものがあると思いますが。
儀狄:人間は育った環境の影響を大きく受ける物だと思います
海燕:影響を受けはするにしろ、支配されるものではないでしょう。親が暴力をふるう人間だったとして、子どもがそうなるとは限らない。
儀狄:それはむしろ、8割方『あらゆる理不尽な暴力に怯える人』に育つと思います。
海燕:まあ、たとえ話するとまた話がそれますが、周囲が乱暴な言葉づかいで育ったからといって乱暴な言葉づかいになるとは限らないでしょう。その可能性は相対的に高いとはいえるにしろ。
儀狄:そうですね。そこで乱暴な言葉づかいになるひととならない人の差って何だと思いますか。
海燕:最終的には個人の問題だと思いますけど、そこにいたるまで、周囲の影響とか、教育の問題とかはあるでしょうね。
儀狄:まぁそうですね。で、私は思うわけです。「乱暴な言葉づかいの人を差別するというのは、周囲が乱暴な言葉づかいをしていて、そしてそれを直してくれるような教師・友人・大人たちに恵まれなかった少数者(1〜5%くらい?)の排除ではないか?」と。
海燕:ある意味ではそうですね。
儀狄:それは「教養がないやつは差別する。2,2,2,2の間に四則記号を入れて10にできないヤツは差別する」とどう違うのでしょうか?
海燕:違わないと思いますよ。でも、教養がない奴とは付き合えないというひとは現実にいますよね。
儀狄:違わないんですね。では、その差別は「正しい」「正しくないがやむを得ない」「正しくない」のどれに分類されますか?
海燕:「正しくない」。正確には「好ましくない」。
儀狄:では、海燕さんの「乱暴な言葉づかいの人間は差別する」も好ましいことではないのですね?
海燕:ええ、ぼくはそう書いているはずですよ。「大人」なら乱暴な言葉遣いの相手にも相応の態度をとるはずだって。ただ、ぼくはそこまで大人にはなれない、と。
儀狄:なるほど。よく分かりました。

 以上である。どう思われただろうか。個人的には、ぼくの論に対するかなりクリティカルな指摘になっていると思う。

 儀狄さんが指摘するのは、こういう内容である。あなたは乱暴な口調のひとを排除するという。それは乱暴な口調のなかで育ち、丁寧な口調を学習しなかった少数者の排除にも繋がるのではないか。あなたはその行為を正しいと思うのか、と。

 で、ぼくの答えは「好ましくない」である。正しいか正しくないかというと、また問題が変わってくるが、好ましいか好ましくないかといったら、好ましくないと思う。

 たしかに、ぼくに絡んでくる何とも気にくわない乱暴な口調の人間は、実はその人生において丁寧な口調で話しかけるほうがより大きなメリットを生むことを学ばなかった可哀想なひとなのかもしれない。

 そして、ぼくにはかれを善導し、より丁寧な口調で話すことを学習させることができるのかもしれない。そう考えると、乱暴な口調の人間でも、丁寧に対応してあげることが親切というものであろう。

 そういう人間を自分のまわりから排除してそれでよしとするのは、かれが立ち直るチャンスを奪うことになるわけで、社会的な不公平を放置することに繋がる。

 それはわかる。わかるのだが、ただ、そこまでわかっても、ぼくはそんなふうに親切になるつもりはない。なぜなら、ひとに親切にするにはコストがかかるからである。

 この場合でいうと、乱暴な口調のひとに丁寧に対応することにはストレスが伴う。そしてかれの考えを変えさせ、かれの人生を良い方向に導くにはさらに膨大な時間と労力がかかる。ぼくにはそのコストを払う意思はない、ということである。

 もちろん、それはある種の差別であり、排除である。ぼくが十分に親切であれば、そのような態度は取らないであろう。その意味で、ぼくはその程度の人間だ、といえる。しかし、見方を変えるなら、誰もがその程度の人間なのである。

 ここにぼくより親切なひとがいるとして、そのひとはあいてがひとりなら乱暴な口調にも我慢できるかもしれない。しかし、十人ならどうだろう。百人なら? 一万人なら? どこかでかれにも対応し切れないときが来るはずだ。これは人間の限界である。ひとりで万人を救うことはできない。

 だから、問題はどこで線をひくか、ということになる。だから、ぼくは「乱暴な口調の人間は差別する」というところで線をひく。それが正しいと思っているわけではないし、他のやり方もできるだろうとは思う。しかし、いずれにせよどこかで線をひかなければならないのだから、そこにひいても最悪とはいえないだろう、と考える。

 これがぼくの答えだ。さらに考えを進めてみよう。先の記事のコメントで、こういうものがあった。

>丁寧なあいてには丁寧に、乱暴なあいてには乱暴に、相手にしていられない内容には無視を。

無視は構わないですけど、乱暴には乱暴で返すのは人からの評価を下げるだけですよ。
敵意持った人達からの的にもなりやすいし損しかしない。
乱暴な言葉を使うのをカッとなってやってんなら未熟としか言いようがないですが、意図的にやってんだから簡単に抑えられるでしょ。
さっきも書いたけど屑だと思ってる連中の相手をするよりは、好意を持ってくれてる人達に対し可能な限り返信してあげるのが大事なんじゃないの?

 全くもってそのとおりである。では、なぜ、ぼくはそれがわかっていて時折り、乱暴な口調に対し乱暴に応じるのか。それは結局、ぼくの性格が悪いからである。

 ぼくは乱暴な口調で攻撃されて「ご意見ありがとうございます。これからの参考にさせていただきます」と答えるような善人ではないのだ。そしてそのことを隠すつもりもないのだ。だから、ぼくは自分じしんを公開するのである。

 もちろん、それもまたある種の演技なのだけれど、ぼくはそういうキャラとして自分を受け止めてもらうことを希望する。間違えてもいい人だなどと誤解してほしくない。

 ぼくはよく偉そうだといわれる(そういうときは大抵、「それはお前に比べれば歴然と偉いからだ」と答える)。しかし、もちろん、謙虚にふるまってみせるのは簡単なことである。何も本当に謙虚になる必要はないのだ。ただブログに文章を書くときだけ、そう見えるようにすればいいだけのことなのだから。

 しかし、ぼくはそうしない。いやなのだ。そんな態度を取りたくないのだ。そこに感じる欺瞞が耐えられないのである。結局のところ、一種の露悪に過ぎないし、ぼくの性格がつむじ曲がりの天邪鬼だということではある。

 でも、ぼくはそういう奴なのである。それはもう、善悪の問題ではない。こういうぼくが気に食わないひともいくらでもいるだろうが、べつにそういうひとと友達になる必要もないことだから、それは放置する。ぼくの文章はこういうぼくを受け入れられるひとだけ読んでくれればいい。

 なぜ海燕は偉そうで性格が悪いのか? それはつまり、そういうこと。まあ、ほんとは素で偉そうなんだけどね。