乱暴な言葉遣いの人間は差別する。


 先日、Twitterにこのようなことを書いた。

特にネットでは、ぼくは意見の正否「だけ」で相手を判断するつもりはもはや全くない。下品な人間の相手をすることはいやだし、ひとの悪口を安全なところから吐く人間にかかわるのもいやだ。しらないひとと不毛な議論をする意欲もない。それで当然だと思っている。そうすべきでない理由はあるだろうか?

「意見と人格は切り離して考えるべき」「嫌なやつのいうことでも正論は正論」という考え方があることはわかるけれど、逆にいうと「いくら正論をいっていても嫌なやつは嫌なやつ」であるわけで、そういう人間は遠ざけたい。遠ざけることが逃げだとは思わないし、閉塞だとも感じない。精神衛生上の問題。

まあ、「意見だけはとりあえず受け入れて、その人物は遠ざける」というのがいちばん適切な対応かな……。「批判は受け容れるべき」という言葉には条件付きで賛成できるけれど、「批判は無条件で受け容れるべき」には全く賛成できないということ。だから、ぼくはブロックが悪いとは全然思いません。

 この三つのツイート(呟き)は合計16のお気に入り登録を受けた。それなりに注目されたツイートであるといっていいだろう。

 ここに書いたとおり、「人格と意見は切り離すべきである」、つまり「いやな奴の言ったことでも意見は意見として受け容れるべきだ」という考え方を、ぼくは拒絶する。正確には、「受け容れつづけること」を拒絶する、というべきか。

 なるほど、それは一見、「成熟した大人の態度」に見えるし、尊敬すべきあり方には違いない。しかし、現実にそのような態度を一貫させようとしたら、はてしなくストレスが溜まっていくだろうし、ぼくは(労働ならともかく)ネットにそこまでの労力を割くつもりはない。

 それが未熟だ、非論理的だという非難は甘んじて受けよう。しかし、一時的にせよ数千、数万という読者が存在するとき、そこから無数に投げかけられてくる「意見」を、純粋にその内容のみで受け止めるということは、ぼくには不可能である。大半のひとにも不可能だと思う。

 「いやな奴の言ったことでも意見は意見として受け容れるべきだ」という意見は、実は自己正当化にも使われる。この意見は主語が「わたし」に変換されたとき、次のように変わる。「わたしがどんなに乱暴な文調を使おうと、わたしの意見を受け容れるべきだ。なぜならそれは正論なのだから」。

 この言い分は正しいだろうか。ぼくは一面正しく、べつの面では正しくないと思う。なぜなら、「意見」を寄せるひとには、ごく丁寧な文調でそれを指摘することも可能であり、その選択肢を選ばなかったことは、当人の問題であるからだ。

 「あまりにもばかばかしい主張に対しては乱暴な文調を使わざるをえない」? そんなことはありえない。どの文調を用いるかはあくまでその当人の問題であり、指摘/批判/非難されるあいての問題ではない。ここを混同してはならない。

 たとえば、「1+1=2」という問題に対して、「1+1=3」だと主張するひとがいるとする。これは間違いを指摘されて当然である。しかし、その指摘の際、「1+1=2だと思います。ご注意ください」と丁寧に書くこともできれば、「1+1=2に決まっているだろ。ばかじゃねえか。死ね」と乱暴に書くこともできる。

 両者は「主張」の中身は同じである。しかし、あきらかにその文調は異なる。むろん、その「主張」が正当である以上、それは受け容れるのが「大人の態度」ではあるだろう。しかし、後者のような文調で「意見」を受ければ気分を害することは当然だ。

 「間違えたのは自分なのだから、正しい指摘を受けて気分を害することはおかしい」? そうは思わない。なぜなら、このとき、気分を害する原因は、その「主張」ではなく「文調」にあるからである。

 ただ丁寧に伝えることもできることを、揶揄、皮肉、罵倒を交えて書くのは、敵意や悪意、もしくは何らかの負の感情の発露でなくて何であろう。そのような情緒を交えた文章に不快を感じることは、あまりにも当然のことではないか。

 同じ内容を書くにしても、「届きやすい言葉遣い」と「届きづらい言葉遣い」が存在するということ。そして「届きやすい言葉遣い」を使ってもかまわないときに、あえて「届きづらい言葉遣い」をする人間はそのような意思の持ち主であるということ。

 以上の理由で、ぼくは「届きづらい言葉遣い」をあえて用いる人間を差別する。そのような人間の意見も意見として受け入れはする程度には「大人」になるにせよ、かれに対し労力を払って対応する意思は全くない。それで当然だと思っている。何か問題があるだろうか?