ここ3日ほど仲間うちで話したことが個人的に非常におもしろかったので、かるくまとめておきたいと思います。何の話かというと、まあ、ヒーローとヒロイズムの話ですね。たぶん同人誌にも載せると思うんだけれど、とりあえずここに書く。
さて、物語のなかの典型的なキャラクターとして、なぜかわからないけれどひとを救いまくっている人物像があります。こういうキャラクターをヒーローと呼ぶことにしましょう。ウルトラマンとか仮面ライダーとか鉄腕アトムとか孫悟空とかルフィとかうしおとかそこらへんのことですね。
そこで、そもそもひとがひとを救うとはどういうことだろうか?と、そのことを考えてみます。いってしまえば、それは、そのひとが抱えている問題を解決するということだと思うのです。
つまり、ここにいじめられている可哀想な女の子がいるとする。「救う」とはただいじめっ子をやっつけることに留まらず、その子が今後もいじめられないようにすることを指すのだと考えるわけです。
このように捉えると、その解決の仕方には大まかに分けてふたつがあることがわかります。まず、ひとつ目は、そのひとに代わって勝手に問題を解決してあげること。いじめの問題でいうと、新しいいじめっ子が現れるたびにぶっ飛ばすとか、そういうやり方ですね。
このやり方には当の女の子の意志を無視しているという大問題が存在します。救われる対象はいじめっ子をぶっ飛ばしてほしいなんて思っていないかもしれない。たとえば、いじめっ子と友達になりたいと思っているかもしれない。それなのに、ヒーローがいじめっ子をぶっ飛ばしてしまうと、一見問題は解決しても、実は「救われる」そのあいてのためになっていないということがありえるわけです。
この「一方的な善意」の問題は、たとえば『紫色のクオリア』とか『借りぐらしのアリエッティ』といった作品で展開されます。
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『クオリア』では、並行世界を何億回も移動し、神に等しい存在へと成長してまで友人を救おうとした少女は、当のその友人に「余計なお世話だ」と拒絶されます。だれも救ってほしいなどと頼んではいないと。
『アリエッティ』では、家の軒下に住む小人たちを助けようとする主人公の少年の善意は、ことごとく裏目に出てかれらを追いつめていきます。これが「一方的な善意」の問題点です。
なぜ、「一方的な善意」は不幸を招くのか? それは結局、「これが幸福だ」「これが最適だ」といった一元的な価値観を押し付けているからです。このことはたとえば、障害児の問題などにも適応できます。
「障害児は可哀想だから生まれない方がしあわせだ」などといって堕胎することもまた「一方的な善意」です。「障害があることは不幸」という一面的な価値観を押し付けていることになるわけです。このとき、ぼくが思い出すのが『SWAN SONG』の主人公、尼子司の台詞です。
「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」。
この台詞の価値観によると、ある人生が不幸だとか、くだらないとか、簡単には決められないことになる。したがって、「一方的な善意」で行動することにも繋がりません。
で、もうひとつが、そのひと自身が自分の問題と対峙し、対決し、解決できるよう導いていくやり方です。たとえば、いじめられていた女の子がいじめっ子と対話するための場を作ってあげるとか、そういうことになるでしょう。「救う」あいての人格を尊重する方法です。
このやり方だと、「救われた」ひとは、しかし自分で問題を解決したことになる。決して一方的にヒーローに助けられるだけではなく、自力によって問題を解決する。これは既に自立した個人です。
つまりこのやり方を採るヒーローは「救済」、いや「善導」を通じてそのひとを自立させていることになる。既に自立しているヒーローがほかのひとが自立することを助けてあげることこそが「救う」ことである、といういい方もできるでしょう。
で、自立すると、その「救われた」ひともまた、他者が自分の問題と対決し解決するというプロセスを通して自立することを助けることができるようになる。つまり、そのひともまたヒーローになるわけです。ヒロイズムは「感染」するんですね。
ここらへん、わかりやすいのが『とある魔術の禁書目録』で、まず上条という最初のヒーローが存在し、そのヒロイズムがどんどん「感染」していって群像劇になるんですね。
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といっても実はぼくは初期の巻しか読んでいないので群像劇になるところはしらないんだけれど(汗)、でもそうなるらしいことは聴いている。『禁書目録』はこの「ヒロイズムの感染」のパターンであるわけです。
となると、理の当然として、最初のヒーローが救った相手に救い返されることもありえることになる。最初のヒーローが何かの事情で挫折しかけたとき、救ったあいてが現れて、かれを助けてくれる。
『うしおととら』でもうしおが助けた女の子たちがうしおを助けるエピソードがあったし、『CLANNAD』でも最終的に主人公は自分が救った少女たちに助けられる。また、それ以上に印象的なのは『まおゆう』の魔王と青年商人のエピソードです。
この物語のなかで、あるとき魔王は青年商人を説諭するのですが、魔王じしんが危機に陥ったとき、青年商人が説教し返すんですね。『まおゆう』のなかでも最も好きなシーンですが、これはある種の「恩返し」といえる。
魔王が青年商人に送ったパスが、時間差で返ってきているところを想像してもらえればわかりやすい。だから、こういう展開をぼくは「救済の壁パス」と呼んでいます。
さて、このようにこの種のやり方でひとを「救う」ヒーローは、自然、救ったり救い返されたり、影響を与えたり影響を与えられたり、ということをくり返すことになる。
『魔法先生ネギま!』を思い出してください。ネギは31人の生徒たちをしばしば「善導」するけれど、かれが危機に陥るたびにかれを救うのはその生徒たちに他ならなかったりする。のどかとか千雨とか亜子がくじけかけたネギを立ち直らせたことが何度もあったはずです。
このような「救済の壁パス」を含むひととひととの影響の連鎖、そのネットワークがつまり社会であるといってもいいでしょう。したがって、このようなヒーローを社会的ヒーローと呼ぶことにします。
ここで思い出すのが漫画『日本沈没』の終盤のやり取りです。「ちゃんとした大人とは何か?」と訊く主人公に、老人は「まっとうに、借りたものを返せるということだよ」と答えます。
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ここまで来ると、これは単に金や物の貸し借りのことをいっているのではなく、「心の貸し借り」まで含めて語っているのだとわかります。つまり、何人ものあいてと「心の貸し借り」をくり返しながら生きていくことができるのが「ちゃんとした大人=自立した個人=他者に影響を与えるヒーロー」であるという等式を成り立たせていいでしょう。
一方、物語のなかにはそういった影響のネットワーク、「社会」とは無関係に、ひとりですべてを解決してしまう正真正銘のスーパーヒーローもしばしば登場します。このようなヒーローを神代の世界の英雄、神話的ヒーローと呼ぶことにしましょう。
ひとりで行動し、ひとりで解決する神話的ヒーローは非社会的な存在です。かれは「心の貸し借り」をしません。だれかに影響を与えることはあっても誰かから影響を受けることはないのです。ある意味、半神の如き存在といっていいでしょう。
『まおゆう』の勇者が仲間たちを必要としなかったことを思い出してください。また、結局はひとりですべてを解決する孫悟空と仲間を必要とするルフィの違いを考えてもいいでしょう。
『ONE PIECE』はいままさにこの「救済の壁パス」の場面を迎えています。いままで仲間たちを救い、かれらを自立させてきたルフィが、くじけそうになったとき、仲間の存在に励まされる――これは『ドラゴンボール』にはなかった展開です。
神話的ヒーローと社会的ヒーローは同じヒーローとはいっても対照的な存在です。神話的ヒーローは文字通り神話や民話のなかの存在であって、社会的ヒーローはより近代的な存在であるといえるでしょう。
しかし、あるキャラクターが神話的ヒーローから社会的ヒーローへ転向する場合もありえます。たとえば『ネギま!』におけるネギの父親、魔法使いナギあたりはそうだと思う。
ナギはその人生の前半で世界の敵、だれも勝てないはずの「はじまりの魔法使い」を独力で倒してしまいます。まさに神話的ヒーロー。ところが、かれはその後、在野に下り、民間で活動を続けるのです。これはつまり神話的ヒーローから社会的ヒーローへの転向といえるでしょう。
一方、初め独力ですべてを解決する神話的ヒーローを目指し、途中でその限界を悟って社会的ヒーローに転向するキャラクターも存在します。ネギがまさにそうですね。かれは何かとひとりで問題を抱え込もうとしますが、周囲からくり返しその非を説得されるうちに周囲を頼ることを覚えます。「心の貸し借り」を覚えるわけです。
それから、『プラネテス』の主人公ハチマキなどもそうでしょう。かれは初めひとりで宇宙飛行士にまで駆け上がろうとしますが、そのうち、その無理を悟り、社会的な影響のネットワークのなかで生きることを選びます。そしてそのネットワークをかれは「愛」と呼びます。
さて、このようにヒーローが人々を救い、次々と自立させてゆくと、社会的ヒーローが無数に現れ、ネットワークを形成することになります。そのような多数のヒーローが存在する社会のなかで、最初のヒーローはもはや特権的な存在ではありえなくなります。
存在の必然性がなくなる、といってもいい。だれもがじぶんでじぶんを救う世界には、特別なヒーローは必要ないんですね。つまり、ヒーローの仕事とは「自分が存在しなくてもいい状況を作る」ことに他ならない。
ここで思い出すのが、曽田正人『め組の大吾』です。この物語の主人公の大悟は、組織力を重視する消防官でありながら、個人で行動し、個人で問題を解決してしまいます。まさに神話的ヒーローです。
しかし、かれはあるとき「自分が地球を背負ったつもりになる必要はないこと」を悟ります。必ずしも神話的ヒーローである必要はない、社会的ヒーローであればいいのだと悟った、ということでしょう。
そして、最終エピソードで、大悟の親友の甘粕は「自分が必要とされなくなるために働く」大悟の苦しみを理解したうえで、いつまでもとはいわないが、それを続けてほしい、とかれに頼みます。つまり、大悟=神話的ヒーローの退場は予告されているのです。
神話的ヒーローは、非社会的な存在であるが故に、社会のなかで生きていくことはできません。かれの存在は社会の秩序を擾乱してしまいますし、いつまでも人々を自立させないことにもなりかねません。
「自分がいなくてもいい状況を作る」ことこそヒーローの仕事。だから、ヒーローは精神的に完全に自立している必要があります。自立していないヒーローは「ひとを救うこと」そのものに依存してしまう。本物のヒーローは自分が退場するその日のために戦うのです。ウルトラマンがゼットンに敗れ退場したように。
だから『まおゆう』の勇者と魔王が最後に消えていったことは、必然です。かれらは仕事をやり遂げ、あの世界に必要ない存在となったのです。つまり、『まおゆう』とは「神話の終わり」を描いた物語であるといえる。
いま、時代は「一方的な善意」ですべてを解決する神話的ヒーローの時代から、「心の貸し借り」をくり返しつつ物語を進めていく社会的ヒーローの時代へと移りつつあるようです。
さて、ここまで書けば『ドラゴンボール』と『ONE PIECE』が正反対だという理由もわかるはずです。『ドラゴンボール』があくまで「神話」であるのに対し、『ONE PIECE』は「社会」を描いています。その意味で両者は対照的なのです。
しかし、考えてみれば、『ドラゴンボール』もさいごにはミスターサタンという社会的ヒーローの登場をもって終わっている。あれは必然だったのでしょう。悟空という神話的ヒーローはいずれは退場しなければならないということ。
神話が終わり、社会が始まる――歴史のターニングポイント。この先に何が待っているのか、期待しながらこの論を終えたいと思います。ご一読ありがとうございました。