ボツ原稿。


 序文のボツ原稿です。中身が取っ散らかりすぎ。

 序文「あなたならエヴァンゲリオンに乗りますか?」

 そう――それは、たとえば、こんな話にたとえられるだろうか。あなたは駱駝にまたがり果てない大砂漠を往来する行商人、ひとよりほんのわずか血が熱く、ひとよりほんのわずか命を安く見る、そんな男。

 九割の退屈と一割の冒険で満たされた日々の中、あなたはとあるオアシス都市で珍奇な壺を手に入れる。珍奇といっても、何も特別の魔力があるわけではない。見た目はただの平凡な壺、そして中身も空っぽだ。

 否――そうとも云いきれぬ。あなたにこの壺を売りつけた男が云うことには、この壺のなかにはある邪悪なジンが眠っていて、しかるべき魔法の手順に則って壊せば目を覚ますというのだ。

 ジンは解放の代償にひとつ望みを叶えてくれるだろう。しかし、そのため世界は大いなる災厄に見舞われることになる。ジンを解放するか、否か、それはあなたの気まぐれひとつ。つまり、あなたは世界の運命を手中に収めたことになる。

 むろん、あなたはこの下らぬ話を信じたわけではない。それこそ気まぐれに金を出してみたまでのこと。このような子供だましのお伽噺、歯牙にもかけるようなあなたではない。

 しかし、それでいてあなたは、心の片隅で、この話を気にかけてもいる。いざとなったらじぶんには切り札があるのだと、わずかにそう考えてもいるのである。それはあなたが培ってきた鉄の合理主義といささかも矛盾せぬ。なぜなら何かほかに手段がある限り、決してこの壺を割ったりしないからだ。

 あなたの心は十分に若く、つよく、妖しい幻術に頼ることをしらない。ただ、同時に、あなたは精神の一角に小暗い神秘を飼っておく余裕を持ってもいるのだ。

 おそらく、十年、二十年、いや四十年の時が過ぎたある日、死神の青白い横顔を目前にしたそのとき、あなたは初めてその壺を割ってみることだろう。そのなかから出てくるものは、山のごとき魔人か、はたまた白茶けた埃に過ぎぬのか、いずれにしろ、あなたはその結末を平然と受け容れるに違いない。

 神秘の壺か、ただの骨董品か、あなたにはどちらでも同じことだからだ。あなたにとってこの壺の価値は、それが内包する夢にある。中身などそもそも問題ではないのだ。

 随分長々としたたとえ話になったが、ぼくにとって物語とは、この「あなた」――砂漠の行商人にとっての壺のようなものだ。世界にひとつの秘宝とも、他愛ないガラクタともなりえ、そしてそのいずれであっても問題ではない、そこに見出せる夢にだけ価値がある、そんなもの。

 だからぼくは物語を読み、あるいは見る。それは既に日常の習慣となって久しいが、しかしその憧憬はいまも失われてはいない。物語があるからこそぼくは生きていられるのである。

 あるいはまた、別のたとえを持ち出すこともできる。ぼくは少女漫画が好きで、無慮数千冊は読んでいる。そのなかには格別の名作もあれば、個性あふれる傑作もあるのだが、もし特に一冊を選べ、といわれたなら、おそらく、めるへんめーかーの『森にすむ人々』を挙げると思う。

 有名な作品ではない。通好みの渋い佳作というわけでもない。いってしまえば、ごくありふれた漫画である。しかし、ぼくはこの作品が愛しくてならない。

 物語は、売れっ子バイオレンス作家森住海樹のもとに上宮紗良という若くふしぎな女性が舞い込んでくるところから始まる。ふしぎといっても、何か魔法の技を使いこなすわけではない。めるへんめーかーの他の作品と異なり、この物語には魔法の類は一切登場しない。ただ、彼女にはどこか浮世離れした雰囲気があるのである。

 初め家政婦に間違われて家に引きこまれた紗良は、その誤解が解けたあとも、自然とこの家に住み着くことになる。その素性は不明。ただ料理の腕前は達人並で、それまで無残だった森住家の食生活は、一気に花やかな彩りを帯びる。紗良はまるでメリー・ポピンズのように、灰色だった森住家を変えていく。

 この作品のどこがおもしろいのだろう? たしかに特別傑出した作品というわけではない。どこがどう優れているのか、言葉にして説明することはむずかしい。しかし、それでいて、この作品がぼくにとっての最高傑作であることは揺らがない。

 思うに、これは現実(リアル)と幻想(ファンタジー)についての寓話なのである。紗良はこの世のすべてから五センチほど浮遊しているように見える女性だ。彼女が訪れることで、それまで灰色の現実そのものだった森住家はファンタジーの空間として再生する。

 この漫画のタイトルにある「森」とは、森住家の一角にある小さな庭を指しており、かつてこの庭は森住海樹によるロマンティックな純文学作品の舞台となって紗良を魅了したのだが、この場合、この言葉が隠喩的にファンタジーそのものを指していることは自明だろう。

 その昔、ロビン・フッドがシャーウッドの森に立てこもって反乱の軍を生み出したように、古来、森とは、人知が及ばぬ空間であり、あらゆる妖しい生きものと生きものならぬものたちが潜む聖域であった。

 物語のなかで森住家の小さな庭がその「森」に見立てられるとき、退屈な現実はファンタジーの彩りを帯びる。

 めるへんめーかーは本来、平凡な日常からふと魔法の世界に迷い込んでしまう人々を主人公に物語を綴る作家であった。しかし『森にすむ人々』においては、この構造が逆転している。物語は、ファンタジーに限りなく接近しながら、あくまで現実のなかで推移していくのである。

 つまり、めるへんめーかーの他の作品が「現実の隣のファンタジー」を描いているとするなら、この作品は「ファンタジーの隣の現実」を描いているのだといえる。

 いい方を変えるなら、ファンタジーとは何か、という問いを突き詰めた先にある、ある種のメタファンタジーであるといってもいいだろう。

 むろん、「森」は、一瞬の幻想に他ならないのだから、現実世界に永続的に存在しつづけることはできない。それは、いってしまえば紗良の頭の中だけにある世界なのである。その裏側にはどうしようもない「現実」がある。

 たとえば紗良にとって理想の家族とも見える森住家の住人――「森にすむ人々」――は、じつはほとんど血が繋がっていない。

 海樹の息子の衿久は離婚した先妻の連れ子であり、娘の桐絵は本当はただの姪子である。そしてまた、衿久の母、紗良が若くして亡くなったと思い込んでいる海樹の先妻は、ただ離婚して離れ離れに暮らしているだけであったりする。

 紗良から見える世界の裏にはこういう「現実」が厳然と存在しているのだ。しかし、紗良の思い込みはそんな現実を上塗りしてしまう。森の住人たちは紗良の幻想を受け入れ、支持し、「現実」ではなく「幻想」のなかに生きることを選択するのである。

 その結果、どうなるか。掃除も行き届かぬ埃まみれの洋館に過ぎなかった森住家は、まさに「森」へ、ファンタジーの空間と変わるのである。「森にすむ人々」とは、「ファンタジーのなかに生きる人々」という意味だと受け取ってもいいだろう。

 この作品には、初期のテレビゲームがくり返し登場するのだが、このゲームもまた非現実の象徴であると考えていいと思う。本質的にファンタジーの住人である紗良は、天才的なゲーマーなのである。

 また、現実と幻想の境界である「森」よりもっとファンタジー寄りな人々も登場する。たとえば、紗良の母がそうだ。紗良は彼女をこう語る。「おっとりしていてお人形さんのようにきれいではかなげで 大人なのに少女のような人でしたわ 母って… 子供のわたしから見ても浮世離れしてた」。

 しかし、このようなひとはただ思い出のなかで語られるだけで、物語のなかには登場しえない。文字通り彼岸の住人なのである。

 衿久の親しい友人である夏生という少女が「森」のお茶会に招かれる話がある。そこで夏生は「森」の住人を『不思議の国のアリス』にたとえ、こんなふうに考える。

「それは何だか不思議なお茶会 紅葉しかけた〝森〟は少し道から入っただけなのにしんと静まり時々葉ずれの音――― あとはカップの触れあう音 人の声も少なくやっぱりまた葉ずれの音――― 夕方の淡い金の光が不思議なメンバーを染めてゆく――… わたしはまるでワンダーランドに迷い込んだアリスの気分 (紗良を見て)でもやっぱりアリスはこの人かしら 永遠の少女―― (桐絵を見て)年齢からゆくとこの子なんだけど どう見ても三月ウサギ あの人は眠りネズミで先生は帽子屋 案内人のエリーは白ウサギ 王子さまが出てこないのがちょっと残念だけど 結局わたしは傍観者〝本を読んでる一少女〟かしら」。

 「森」が灰色の現実のなかにスポット的に発生したファンタジー空間であることを端的に表現した独白だ。この夏生の想いにぼくは激しく共感せずにはいられない。

 そう、「森」は、ファンタジーの世界は、ぼくにとってどれほど憧れても届かぬ彼方の世界である。畢竟、ぼくも「本を読んでる一青年」に過ぎないのであり、ワンダーランドはどこまでも遠くにあるのだ。

 しかし、それでもぼくは不思議の国に憧れずにはいられない。『森にすむ人々』がぼくを惹きつけるのは、その魔法の国をあくまで「現実」に密着したかたちで描ききっているからだ。

 むろん、すべてが現実のなかで推移していく以上、幻想の日々は長くは続かない。「そしていつまでも森の住人たちはしあわせに暮らしました――」、そんなお伽噺のハッピーエンドはこの作品にはありえないのだ。

 物語のクライマックスでは、紗良が父の再婚に耐えきれず家出してきたのだという「現実」的な真相が明かされ、彼女は家に帰っていく。ファンタジーはリアルの圧力のまえに崩壊してしまうのである。

 しかし、最後の最後で紗良はふたたび森住家を訪れ、またもファンタジーの日々が再現されることを思わせて物語は幕をとじる。あるいは、作品の構成という意味では、この紗良が帰るところは蛇足であるかもしれない。いつか帰ってくるかもしれない、とそう匂わせる程度で終わったほうがエレガントであるかもしれない。

 しかし、ぼくはこの結末を愛する。この色あせた現実のなかで、これが望みうる最高のハッピーエンドだと思うからだ。ここにおいてファンタジーはあくまでも肯われる。

 ぼくはここにもうひとつのマイベストである川原泉笑う大天使』の最終話「夢だっていいじゃない」に似たものを見出す。

 「夢だっていいじゃない」では、まさに夢のような非現実な展開が語られ、それが「夢でもいいではないか」と肯定される。それは非現実の賛歌であり、シンデレラの夢の肯定だ。

 ある種の人々にとっては、それは現実を否定する退嬰の思想とも見えるかもしれぬ。しかし、夢のなかにしか生きていけない人々がじっさいに存在することは紛れもない事実なのだ。そしてぼくもそういう人間のひとりなのである。

 随分長々と『森にすむ人々』について語ったが、それで何がいいたいのかというと、ぼくにとっての理想の物語とは、この「森」のようなものだということである。

 事実である必要はない、夏の夜の夢、泡沫の幻、そうであってかまわない、しかし、徹頭徹尾真実でなければならない、そういったもの。かわいた人生に潤いを与え、時には失われた輝きを取り戻させる、そういったもの。

 ジンが入った壺、あるいは光射す「森」、このようなたとえでどれほど理解してもらえることか大いに不安だが、とにかくぼくにとって物語は命に等しいかぎりなく重要なものなのである。

 本書『ランナーズハイ(上)』にはそういった物語に対するぼくなりの雑感を多数収録した。本書は上下巻の上巻であるが、内容的にはこの一冊だけで完結している。従って、あなたがこの上巻を読み終わったとしても、続けて下巻を読んでもらう必要はない。

 また、仮に下巻だけを読んだとしても問題なく読めるはずである。ただし、上下巻を通して読んでいただければ、さらに面白いとは思う。可能なら、上下巻通読をお願いしたいところだ。

 さて、この上巻のテーマは「役割と責任」である。だからこの序文のタイトルは「あなたならエヴァンゲリオンに乗りますか?」と題されている。

 「エヴァンゲリオン」とはいうまでもなくテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に当叙情する汎用人型決戦兵器のことである。このエヴァを擁するなぞの組織ネルフの首領である碇ゲンドウの息子シンジは、この世界にわずか数人というエヴァパイロットして選ばれる。

 しかし、かれはエヴァに乗ることを恐れつづけ、最終的には拒絶する。つまりかれは与えられた「役割」、あるいは「責任」を放棄するのである。これはやはりロボットアニメの主人公としては斬新というべきだろう。

 むろん、それまでにロボットに乗ることを逡巡する主人公がいないわけではなかっただろうが、それにしても物語のクライマックスで乗ることを拒絶する主人公はやはり異端である。そして、その姿が90年代の世相を反映していたことも真実と思われる。

 それから十数年の時を経て公開された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』では、また違う展開を辿るのだが、とにかくこの碇シンジという人物像は当時きわめて斬新であった。そして、それからの作品にとって、「役割」を巡る葛藤は大きなものになっていく。

 あなたは選ばれた、世界を救うためにたたかう戦士なのです、そういわれて果敢にエヴァに乗るひともいれば、乗らないひとも、乗りたくても乗れないひともいるだろう。

 じぶんがエヴァに乗らなければ人類が亡びるかもしれない、世界は終わるのかもしれない、それでも乗れないひとも存在するということ。その事実は幾度でもくり返し認識しておくべきだと思う。

 しかし、それでもなお、「エヴァに乗れない」人々の物語はやはり物語としてメインストリームではありえない。本書ではその傍流の物語を丹念に拾っていきたいと思う。

 本書第一章「『AIR』と『Angel Beats!』の距離」では、十年の時を隔て同じクリエイターによって生み出された二つの作品について語ることによって、この十年間をさらってみたい。

 『AIR』は2000年に発表されたアダルトゲームの里程標的傑作であるが、その構成、その骨格はエンターテインメントとしては異形であるともいえる。この作品はのちに京都アニメーションによって映像化され、よりソフィスティケートされたかたちでふたたび我々の視界に入ってくるのであるが、そのとき、失われた「何か」があったように思う。

 そしてまた、今年(2010年)発表された『Angel Beats!』は同じライターによって生み出された作品であり、『AIR』とはまた違った意味で注目に値する。

 第二章「それでもぼくたちは『らくえん』を求める」では、月面基地前によるパソコンゲームらくえん』を素材に、「ダメ人間として生きること」を語る予定である。

 この場合の「ダメ人間」とは、「役割にコミットできない人間」「責任を全うできない人間」といっていいだろう。『らくえん』はその意味で「ダメ人間」の賛歌である。

 しかし、この物語は決してひたすら責任から逃げ惑う生き方を称揚しているわけではない。ある意味ではこれもまた「エヴァに乗るまでの物語」なのであり、主人公は物語を通して「成長」していく。この「成長」の意味を考えてみたい。

 第三章「乙一の優しい世界」では、17歳でデビューし、以来十数年、珠玉の作品を発表してる天才作家乙一の作品について語る。乙一の主人公もまた、「エヴァに乗れない」人々である。

 乙一はかれらが何らかの希望を見出すまでを淡々と、しかし切々と描き出す。かれは個人的にも最も注目する作家であるが、ここ数年はほとんど作品を発表していない。この章では乙一の複数の作品を比較検討することによって、その作家性を丹念に見ることになるだろう。

 また、乙一の倫理観が「壊れた」人々を扱った傑作『GOTH』は本格ミステリの傑作として本格ミステリ大賞を受賞している。この受賞は何を意味しているのだろうか。「壊れた」作品と「端正な」作品の差異とは何なのだろうか。そのようなことについても二三、語ってみたい。

 第四章「殺戮者ナウシカ」では、宮崎駿風の谷のナウシカ』の主人公ナウシカをまな板に乗せ語るつもりである。ナウシカの行動ははたして正当なものなのか。あるいはそもそも正当、不当ということにどれほどの意味があるのか。真剣に検討してみたいと思う。

 第五章「『攻殻機動隊』から『東のエデン』へ」では、神山健治監督によるテレビアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』と『東のエデン』を比較し、そのなかに次世代への希望を探りたい。

 『攻殻機動隊』はある種の絶望のなかに幕をとじたようにみえるが、『東のエデン』は正しくそれを超克することができたのか。一考の余地はあることだろう。

 第六章「欺瞞の帝国――〈グイン・サーガ〉小論」では、「エヴァに乗れない少女」であるケイロニア帝国皇女シルヴィアについて語り尽くす。

 のちに主人公グインの正妻となるシルヴィアは、ひとりのなかなか愛らしい少女として物語にすがたを表す。しかし、そのさきに待つものは、悲惨な、あまりに悲惨な運命であった。

 いったいシルヴィアをここまで追い詰めたものは何なのか。それはケイロニア帝国という一見健やかに見える帝国の欺瞞そのものではなかったのか。ある種『エヴァ』の惣流・アスカ・ラングレーを思わせるシルヴィアというキャラクターを通じて、丹念に描きこまれたケイロニア帝国の欺瞞に迫っていくつもりである。

 第七章「『まおゆう』という奇跡の物語」では、ネットの片隅に奇跡のように生み出された物語『魔王×勇者』を読み込んでいく。これはある意味で「エヴァに乗る」の物語と見ることができるだろうが、『エヴァ』とはまた違う魅力がある。『まおゆう』を通して2010年代を展望することができるかもしれない。

 第八章「希望の系譜――『SWAN SONG』解読」では、アダルトゲームの傑作『SWAN SONG』について書きたいと思う。この論考は既にネットに発表したものであるが、改稿したうえで本書に収録するだけの価値があると信じる。

 この章において「絶望を超えた希望」を見出すことができたなら、本書は成功したということができるかもしれない。

 そしてその全八章を駆け抜けた後、後記「たとえあなたがエヴァに乗らなくても」では何かしらの結論を示すことができるだろう。さて、長々とした序文にお付き合いいただき感謝する。

 さいごにひとつ訊ねることでこの文章を終わることにしたい。あなたならエヴァンゲリオンに乗りますか? 世界を救いたいと思いますか? この世界に、救われるだけの価値があるとそう信じますか?