本当に死んではいけないのだろうか?

 私は昔から思っている。死ぬ、死ぬ、っていう奴に限って、必ず、自殺すると。

永沢光雄『声をなくして』

 さて――オフを翌々日に控えて、ひさしぶりにシリアスな記事を書きたいと思っているのだが、書き出しを思いつかない。そこで、思いつかないなりに書いてみることにしよう。

 前々回の記事で、ぼくは、槇村さとるを称して「エロスの作家」と呼んだ。生きることの喜びに対して肯定的な作家、という程の意味だ。

 当然、エロスの作家がいるならばタナトスの作家もいることになる。その作品のなかに否応なく死を孕んでしまう作家。じっさい、ある種の物語にはひとを死に導くような昏く妖しい力がある。

 ウェルテル症候群という言葉をご存知だろうか。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に影響されて幾人かの自殺者が出たとされることに由来する言葉である。

 あまりにも美しいタナトスの物語は、読むひとを甘美な死の世界へひきずり込んでいく。「精神的インフルエンザ」と呼ばれるほどの負の力がそこにはある。

 現実的に考えれば、この上なく危険な代物。しかし、文学的にはそのような作品を否定することはできないだろう。否、むしろ、タナトスを孕んでいるからこそどこまでもやさしく読むものを惹きつける作品は存在しうる。

 激しく貪欲で猥雑な生に対して、死はどこまでも静謐でやさしい。そう考えることは退嬰だろうか。しかし、ひとは死んでもいい、亡んでもいいのだ。そう思うと、何かホッとするものがある。それは事実である。

 食べ、歌い、踊り、働き、愛する――生きることの喜び。それは何とも鬱陶しくないだろうか。生きていくことそのものに対して、何ともけだるい倦怠を感じることはないだろうか。

 こう書くと、いかにも退嬰的な思想に思えるかもしれないが、そうではない。死や、亡びを受け容れることと、すぐさま死ぬということは、同一ではないのだ。

 死を受け容れたからこそ生きることに前向きになれるといういこともまたありえる。ひとはいつか死ぬ、その普遍の心理を思うとき、初めて人生に対して前向きになれる、そういう人間は決して少なくないだろう。

 たとえば、森恒二の『自殺島』を読むとき、ぼくはそこに生の活力を見る。しかし、作者は必ずしもこの作品を通して「生きろ!」といってはいないように思える。

 ここにあるものは、自殺の否定と、生命の賛歌ではない。むしろ、現実の死を目の前にして初めて生まれるちいさな生のともし火、そのおずおずとした確認であるように思える。

 北風と太陽の話ではないが、いくら「生きろ!」と命じてみせたところで、生きることが苦しく、辛いと感じている人間にとっては何の救済にもならない。

 生きることそのものにアレルギーであるような人間もじっさいに存在するのだ。そういうひとにとって、死は親しくもやさしい友人のようなものにすら思えるかもしれない。死はどこまでも静謐だから。

 だが、そのことを認めたうえで、生きていくことに価値を見出すこともまたできるのではないか。エロスとタナトスはうらおもての兄弟のようなもの。死を思えばこそ、生きることにのぞみを見出すこともできる、それは決して矛盾ではないと思う。

 だから、きっと、ひとは死んでもいい。いや――どれほどつよくもっと生きていたいと願ったところで、いつかは必ず死の抱擁が訪れる。タナトスを否定することはできない。その事実があるからこそ、いまを生きることに対して真摯であれるのではないか。

 死、鬱、滅亡、敗北――そういった負の価値とされるものに対して寛容な作家には、「生きろ!」「もっと努力しろ!」と強要する作家にはないふしぎなやさしさがある。

 死はやさしく奪う。いつか訪れるその日を想いながら、いま、目の前の一歩を踏み出す。それが生きるということなのではないか、とすら、ぼくは考えるのである。

自殺島 1―サバイバル極限ドラマ (ジェッツコミックス)

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