槇村さとるのフェミニンな世界。

Real Clothes 1 (クイーンズコミックス)

Real Clothes 1 (クイーンズコミックス)

「ずっと選んできたわ 選ぶって捨てる事 あたり前の安全な会社を捨てて 家を捨てて 好きだと言ってくれる人も捨てて 生きなきゃ 生きることだけを選んできたわ」

 肩が凝ってくると、槇村さとるの漫画を読む。何か張りつめたものが、ほっと緩む。不必要な力が抜けて、からだが柔らかくとろけていく。

 たとえば『おいしい関係』。同じ「食」をテーマにしていながら、ここには『美味しんぼ』のような闘争はない。競争も、世代間の対立もない。ただ「美味しく食べることの喜び」「生きていくことの賛歌」だけがある。

 どこどこまでもヒューマンでフェミニン。それが槇村の世界だ。それはひとによってはものたりなく感じられるかもしれないけれど、でも、そこにはひとを救うやさしさがある。

 もちろん、槇村作品には 自分にきびしく、他人にもきびしく、自立、独立、独歩を重んじる、そんな一面もある。しかしやはりそれだけではない。それだけならぼくはあえて読みたいとは思わない。

 ぼくが槇村の作品を片端から求めて読んでいるのは、そこに女性的に柔らかな救済があるからだ。四角四面の完璧さではなく、人肌のぬくもりがある優しさ、あたたかさ。

 もしエロスの作家とタナトスの作家というものがいるとすれば、牧村は確実に前者に属するだろう。彼女の作品には「生」のエッセンスがぎゅうぎゅうにみなぎっている。

 食べること、踊ること、働くこと、そしてまたお洒落をすること。「生」の限りない歓び。女であることの楽しみ。槇村の漫画はその賛歌だ。

 槇村は男性をめざさない。競争原理の勝者をめざさない。そこにはたしかにある種の上昇志向、成長志向があるけれど、しかし、それは他人と比べてより上をめざす、という男の価値観をなぞってはいない。

 より高く、よりたしかに、より精緻に――それでも彼女は柔らかさを忘れない。情熱を忘れない。エロスを忘れない。彼女は作品を通じて、一本一本なめらかにひかれた線を通じて、ごらん、生きることはこんなにもすばらしいと呼びかけてくる。

 エロスの作家。しかし、そう、エロスとタナトスはうらはらである。槇村の作品には、ひとかけら、ふたはらりほど、タナトスの香りがただよう。

 もう生きていたくない、その倦怠、早く、死んでしまいたい、その絶望。とまらない頭痛にも似た生きることの苦しみを彼女は正面から見つめる。そう、死があるからこそ生もまたありえる。タナトスをしらないエロスなどほんの紛い物。

 槇村の世界が本物だとすれば、それは、生きることの歓びだけではなく、死に惹かれていくことのけだるい魅惑が描きこまれているからだろう。それでも、槇村はさいごには「生」を選ぶ。快楽を選ぶ。だから、彼女の作品はどこまでも健全なのだ。

 初め、ひたすらにビジネスのきびしい現実を描くかと見えた『Real Clothes』は、ふたをあけてみれば、いままで以上にキュートでユーモラスでフェミニンな作品になった。槇村の作品は一作ごとに柔らかに変わっていくようだ。まるで、なべに煮込んだ野菜が時間とともにとろけていくように。

 あまい、というひともいるだろう。現実はこんなものではないと。一面の事実。けれど、もちろん槇村の作品は単なる砂糖菓子の夢でもない。あまい夢。きびしい現実。男性的な上昇志向。女性的な柔らかさ。そのあいだにバランスを取って、槇村さとるはきょうもあたらしい作品を生み出しつづける。

 いつか訪れる死を正面から見据えて、歓びに満ちた生を生きる。食べる、踊る、お洒落をして街を歩く、そしてまた恋、あるいはまたセックス。肉体を持って生きていることの、観念的ではない歓び。

 槇村さとるを読む。するとぼくもまた、何かから解放されるのである。