『東のエデン』とは何だったのだろうか?

 たったいま、劇場版『東のエデン』完結編を観てきた。既に小説版を読んでいるので粗筋は承知していたんだけれど、それでも面白かった。

 たしかに、傑作!とひと言で持ち上げるには色々問題点もある作品ではあるけれど、ここ最近のアニメのなかではいちばん注目していたものだし、その期待に見合うクライマックスだったと思う。

 物語が終わり、劇場の暗やみが明けていくときの、あの何ともいえないものさみしさ――それこそ、いい映画を見たという証拠に他ならない。とはいえ、ネットでは賛否両論あふれる作品でもある。いったいこの映画の何がひとを惹きつけ、あるいは反発させるのだろうか。

 ひとついえることは、この作品は神山健治監督初のオリジナル作品という情報とともに制作が発表されたときに期待したものとは違う方向を向いていたということだ。その意味では、非常に「肩透かし」が多いアニメであった。

 さいしょの設定を聞いて思い浮かべるのは、『DEATH NOTE』や『バトル・ロワイアル』みたいなサスペンスタッチのサバイバルゲームものだろう。

 しかし、そういった物語を期待すると拍子抜けすることになる。なぜならゲームのルールは決して厳密ではないし、そもそも何をどうすればゲームクリアとなるのか、それすら明瞭ではないからだ。

 全編通してサスペンスとはあまり縁がない展開が続く。初め、無作為に選ばれた十二人のセレソンたちの生きのこりゲームと見られていた物語は、しかし、そういったベクトルには向かわない。

 また、一○○億円の電子マネーが何でも願いを叶えてくれるノブレス携帯というキャッチーなアイディアも、サバイバルゲームのキーとしてはあまりに万能すぎる印象を与える。具体的に何ができて何ができないのか、いまひとつ不明瞭な感があるのだ。

 では、『東のエデン』は企画倒れの駄作なのか。そうではない。たしかに未来日記ならぬノブレス携帯を持ったセレソンたちが生存を賭け戦い合うセレソンゲームの物語としては本作は期待はずれだろう。

 しかし、しばらく見ていると、そもそもこの作品は、実はそういった方向性を志向していないのだということがわかってくる。そして物語が進むにつれて、この作品の現代的なテーマがあきらかになってくるのだ。

 それは、だれもがヒーローを信じないこのシニカルな時代にあって、それでもなおヒーローであるとはどういうことか、また何者であればその任に耐えうるのか、ということである。

 作中、まさにヒーローとして「二万人のニート」たちを救おうとした滝沢は、かれらに裏切られ、記憶を消すことを選ぶ。現代日本ではヒーローは成立しないのだ。あらゆるヒーローのあら探しをし、その欠点を見つけ、批判し、攻撃し、足をひっぱるのが現代日本の大衆の姿に他ならないからだ。

 神山監督は以前の作品で、登場人物のひとりに「水は低きに流れる」といわせている。ひとの心は安易な方向に流される。もはや、ヒーローへの信頼が成り立つ時代ではない。

 それでは、自らの指導者のあら探しにしか興味がない「一億人のエゴイスト集団」をそれでも指導していくにはどうすればいいか。そのひとつの解答を示しているのがセレソンのひとり、物部である。

 かれは影からそれと悟られないように国民の自由を奪ってしまおうとする。表に立てばあら探しされ、足をひっぱられ、退場させられる。ならば、そもそも国民の目にふれるところに出なければいい。「黒幕」たらんことをめざすかれのやり方は、「王様」になろうとした滝沢と対照的である。

 物部は現代において首相など、生贄に過ぎないという。これの言葉は正鵠を射ていると思う。そもそも、この社会において何らかの目立つ行動を取る人間はすべて大衆の生贄であるといえる。目立てば目立っただけ攻撃されるのが現代だからだ。

 思うに、神山監督のなかには、たぶん滝沢と物部が共存しているのだろう。「消費者最強」を楯に、かぎりなく無責任な当事者性皆無の批判しかしようとしない大衆。それに対する絶望と、それでもなお、そういった人々を信じたいという思い。

 そして滝沢は「火中の栗を拾う」道を選び、セレソンゲームの勝者となる。滝沢が示す道は甘い砂糖菓子の夢かもしれないが、それでもなお、希望を示すものだ。

 折りしも現実世界では管新政権が発足したばかりである。次々と新しい首相が就任し、そのたびに期待を集めては短期政権に終わるという異常事態は、現代日本がまさに『東のエデン』的な問題を抱えていることを示している。

 たしかに、あらゆる批判や攻撃を受け止めて立つのが「救世主」もとい指導者の役割である、という意見は正論に聞こえる。しかし、無数の指導者が短命に倒れていく展開は、現実にそういった正論が成立しない通用しなくなっていることを示してはいまいか。

 指導者個人の超人的な資質に期待するシステムは無理があると思う。もちろん、それはクリエイター(劇場アニメの監督!)であれ同じことだ。スポーツの代表監督(作中、セレソンのひとりはノブレス携帯を用いてサッカーの代表監督になるが、最終的に失脚する)であれ同じことだ。

 ノブレス・オブリージュ。国民ひとりひとりが、当事者性を失わず、自らの戦場を戦い抜く救世主たらんことを。