そういうわけでパソコンで音楽をランダムに再生しながらこの文章を書いていたりします。何を書こうか――などと、書きはじめてから考えている辺りがおそろしいところですが、まあ、それもいいでしょう。どうせぼくから出てくるものといえば、好きな漫画の話くらい。
そうですね、少しまえに最新刊が出て話題になっている『3月のライオン』の話でもしましょうか。いわぞとしれた羽海野チカの最新作であるわけですが、この第4巻が、これが、でたらめにおもしろい。
- 作者: 羽海野チカ
- 出版社/メーカー: 白泉社
- 発売日: 2010/04/09
- メディア: コミック
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それまでの3巻もまあ、さすがに羽海野チカの作品だけあって、稀有な品格と、諧謔と、魂の深さとを備えてはいましたが、この巻にいたっていよいよ「時」が動き出してきたという印象があります。
思えば前作『ハチミツとクローバー』も、クライマックスにいたって急速に「時」が動き出すという構成の作品でした。あるいは、羽海野さんには、「停滞」と「前進」というテーマがあるのかもしれません。
とにかくこの巻は圧巻の内容であります。未読の方はぜひ第1巻から読んでみてください。現代漫画の豊穣の一端がここにあります。
で、ぼくがおもしろいな、と思うのは、この主人公の少年、零のこと。まだ十代でありながらひとり暮らしを送る将棋の天才という設定で、この歳にして絶望的な孤独感と裏腹の人生を送っています。この物語は何も持っていないかれがすべてのものを手に入れていくという内容になるのだと思われます。
でも、実は、じっさいには、既に何でも持っているんですよね、こいつ。何しろ、じぶんのことを気遣ってくれる恩師もいるし、友達もいれば仲間もいる、家族だっている、師匠もいる、仕事もお金もあって一応自立してすらいる、人生に必要なものはたいてい備えている。
それなら、なぜ、それにもかかわらず、かれがこう孤独な、空虚な、哀切な人生を送らなければならないのか。そう、かれにはたったひとつ致命的に欠落しているものがあり、それがすべての財産を無に等しくしているのです。
たったひとつ、かれに欠けているもの――それは自己肯定感です。かれは十代にして将棋のプロにまで成り上がった天才的才能の持ち主でありながら、自負や自信を徹底的に欠いています。
いや、将棋の技量にかんしてはそれなりのプライドを抱いてはいるでしょう。しかし、もっと深いところで、己の存在に対する確信を抱ききれていないようなところがある。この世に生きていていいのだ、というあたりまえがあたりまえでないような、そんな翳りが、かれの精神の骨格にはたゆたっている。
この自己不全感はどこから来るのか、おそらくは、幼くして本当の家族を失うという経験から来ているのでしょう。しかし、あるいは、それも表面的な理由かもしれない。ようするにかれがそういう人間なのだという、それだけのことなのかもしれない。
思う。たやすく自己肯定できる人間と、そうできない人間と、いったいどこで何が違っているのだろうかと。一見、それは実績や努力や、そういうことの積み重ねの問題であるようにも思える。しかし、違う。それをいうなら零は実績も努力もひとの数倍、重ねているはずなのですから。
それなら、愛され、祝福されて育ったかどうかという差なのかとも思うけれど、それもやはり真実の一端しか捉えていないように思う。愛されて育たなかった者は自己を肯定しきれないものなのだとすれば、救いがないですからね。
結局、どこまでじぶんの存在を許せるかという、その差なのかもしれないと思います。零はどこかでじぶんを許せていない。じぶんの弱さと、未熟さと、悲しいような脆さを許せていない。
しかし、それは本人が許せないというだけのことで、他者から見れば、かれがだれよりも必死に懸命に生きていることはあきらかで、だからこそかれは多くのひとを惹きつけていきます。そうです、かれは好きにならずにはいられないような少年で、そのことに気づいていないのは本人だけなのです。
かれの本質にふれたものはだれも皆、決して同情などではなく、尊敬と、親愛とで接するようになります。ぼくたち読者がかれに注目せずにいられないのもまた、かれのその青春のあがきが、だれよりも真摯で切実なものであるからではないでしょうか。
たしかにそれは愚かしく無駄が多いあがきではあるけれども、しかし、その切ないまでの生真面目さは熱くぼくたちを惹きつける。そう、ある意味、かれが自己肯定しえずにもがいているからこそ、ぼくたちはかれを肯定してあげたいという想いに駆られるのです。
ぼくは見ていたぞ、といってあげたいような、そんな気もち。ぼくは見ていたぞ、お前のあがきを、もがきを、いまにも絶望の黒海に溺れそうになりながら、なお、あがいてあがいて遂にはその海を泳ぎ切ろうとする、そのさまを、たしかに見ていたぞ、と。
おそらくは、それが、「読む」ということ。いつの日か、かれがじぶんの存在を抱きしめ、心底からいとおしく思うその日まで、ぼくはかれを見守りつづけるでしょう。