ぼくが表現規制に反対する理由。


 東京都青少年健全育成条例改正問題(長い!)について何か書こうと思うのですが、いざ書くとなると何を書いたらいいのかさっぱり思いつきません。というか、書きたいことが多すぎてうまくまとまらない。仕方がないから、思いついたことをつらつら書いていくことにしましょう。

 さて、この条例改正問題、いわゆる「非実在青少年」問題にかんしては、既に多くの読者がご存知だと思います。だから、概略をここでくり返すことはしません。もしくわしく知らない方がいらっしゃったら、「東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト」をご参照ください。

http://mitb.bufsiz.jp/

 また、この件では既に業界の有識者の方たちのものを含むさまざまな意見がネットに挙がっていますので、同じことをくり返しても無意味でしょう。

 だとしたら、何を語るべきか――そう、この条例改正案を考え出した東京都青少年問題協議会のどうしようもない権威主義に対する違和を語ることにしましょう。

 「第28期東京都青少年問題協議会議事録」を読むと、東京都小学校PTA協議会会長の新谷珠江さんという方がこんなことを仰っておられます。

 この前も感じたんですが、出倫協の方が仰った、文学でこういったふうになっているから漫画もいいんだと。漫画と文学は全く違うと思います。
 アニメ、漫画と言っているので、文学の世界でどういう表現が認められて、世界的な作家がどうとかいうのは全く関係がない。今回はアニメ、漫画に特化していますので、文学として性表現がどうのということとは全く違うと思います。そこは分けて、それは違うとはっきり言えると思うんですね。文学の問題を、アニメ、漫画の問題に持ってくるのは、この前もおかしいなあと思ったので、それは違うと思います。

 おかしいのはあなただ、としかいいようがないんだけれども、この人は本気でこう思っているんですね。文学と漫画は別物なのだから、別に語らなければならないと。明白な差別なのですが、本人はそうとは自覚していない。この人のなかでは文学と漫画をいっしょにはできないということは自明な事実なのです。非常に幼稚な芸術観だと思います。

 早稲田大学文学部大学院教授の高橋敏夫は、文学を含む芸術の根幹は「他人には絶対に言えないこと」にあるとし、こう語っています。

「他人には絶対に言えないこと」の大半は、自分じしんもまたあまり見たくないもの、考えたくないものであるはずです。さびしさ、むなしさ、無関心、嫌悪、憎悪、嫉妬、うそ、虚栄心、孤独感、性的関心、破壊欲、消滅願望……こんな心理、感情、欲望にうながされた暗い体験の数々。もしかすると、そこには「犯罪」に近接する体験もあるかもしれない。ネガティブなものだけでは、けっしてない。過剰な理想追求、未知の善や美への渇望といった、並はずれてポジティブなものもふくまれるはずです。
 こうならべてみると、自分じしんが見たくない考えたくない、そして「他人には絶対に言えない」ことは、わたしたちの生の大きな部分を占めているのがわかります。これをないものとみなしたら、わたしたちの生はとてつもなく痩せてくるでしょう。
 にもかかわらず、世間的常識では「有用」と「実用」にはつながらないばかりか、邪魔で、いとうべきものになる。だから、有用な学問である経済学や政治学、法学や教育学などでは排除されるか、または矯正の対象になってしまうのです。
 文学をふくむ芸術は、自分じしんが見たくない考えたくない、そして「他人には絶対に言えない」ことをまるごとすべて、たしもせずひきもせず、あるがままに肯定するところからしかはじまらない。

『ホラー小説でめぐる「現代文学論」』

ホラー小説でめぐる「現代文学論」―高橋敏夫教授の早大講義録 (宝島社新書 250)

ホラー小説でめぐる「現代文学論」―高橋敏夫教授の早大講義録 (宝島社新書 250)

 ひとには絶対にいえない精神の暗黒の半面――それをどこまでも直視し、受け入れ、そこを通して解放されること。それこそが芸術だというのです。

 ぼくは高橋のこの芸術論に全面的に賛成します。心のなかの後ろ暗いもの、おぞましいもの、それこそが芸術の根幹にあるものなのです。その意味で、芸術とは、「世間的光明のただなかに突き出た暗黒の砦」なのであり、決して無垢無害なものではありません。

 そう、芸術とは、そも、おそるべき毒薬であり、麻薬なのです。決してただの綺麗なお花畑のようなものではない。

 したがって、芸術から暗黒の一面を切り取ろうとしたところで無益なことです。それこそが芸術の根であり、本質なのですから。東京都青少年問題協議会はこのことを理解していないとしか思えません。

 かれらにとって、芸術や文学とは単なる権威であり、健康で無害な、毒にも薬にもならないようなものでしかないのでしょう。かれらは己のなかの闇を凝視することをしません。だからこそ、安易に規制検閲に走ることができるのです。自分じしんを疑うということをしらないのですね。

 かれらは青少年の健全な育成を唱えますが、そもそも「健全」とは何でしょうか? 心にひとかけらの闇をも持たないことでしょうか。「他人には絶対に言えないこと」を全く持たないことでしょうか。

 そうではないでしょう。どんな社会であれ、そんな悟りすました聖者のような人間ばかりあふれているはずがない。多くのひとは悩み、惑い、ときにはひとにはいえないような危険な思いを抱えながら、それと向きあって生きているのです。それが健全ということ。

 逆説的ですが、不健全を内包しない健全など健全であれるはずもないのです。それこそ東京都青少年問題協議会の面々の発言を見ていればわかることですが、どこまでも己の正当を信じ、疑うことをしらない心は、健全ではありません。

 そこにあるものはつまり裁きの視点であり、責める心です。そこにはじぶんと同じく暗黒を抱えた心弱い人々に対する共感が致命的に欠けている。だから、マイノリティの権利を踏みにじることができる。

 先述の新谷委員はこんなこともいっています。

 規制とか法律というのは、公共の福祉の全体の、国民全体にマイノリティとマジョリティがあると思います。マイノリティに配慮しなくてはいけないということは当然ですが、それのプラスとマイナスが相反する場合が多い。そういったときにどっちをとるのかというと、全体の福祉というかプラス、それをとっていくというのが、行政というか、全体のスタンスではないかと思うんですね。

 こういう考え方を全体主義といい、過去、何千万という人々の命を奪いました。その過ちをまたも繰り返そうというのでしょうか。

 かれらはおそらく、善良で、正常で、健全な人たちなのでしょう。しかし、自らの善良さを、正常さを、健全さを信じきって疑わない人ほど危うく、迷惑なものはないのです。善良で、正常で、健全で――そしてどうしようもなく頭が悪い。いったいどう扱ったものやら。

 それにしても、日本人はあいかわらず外圧に弱いですね。日本には日本の特殊事情があるにもかかわらず、「欧米では常識」「先進国のなかでやっていないのは日本だけ」とかいわれると、「そうか、日本もやらなくちゃいけないのか」となる。

 もちろん、「日本の文化なんだから関係ない」と突っぱねればいいといっているわけではありません。この場合、必要なのは、あくまで独自のスタンスを保ったうえで、諸外国に対し日本の事情と文化を理解してもらうべくきちんと説明することでしょう。

 既に海外では日本の漫画を持っているだけで逮捕されるなどという悪夢のような事態が現実になっています。日本でこのような事態をくり返してはならない。それは全体主義への一歩であり、地獄へと続く坂道の始まりです。