平凡は非凡より非凡なのだということ。


 ペトロニウスさんの最新記事が例によっておもしろい。ほんと、「物語三昧」の記事は長ければ長いほどおもしろいですね。

 で、ここらへんの「並行世界」の話を読んでぼくが思い浮かべるのは、実はチェスタトンなんですよね。

 偉大なるブラウン神父の生みの親、推理小説の大家の一人としてもしられるG・K・チェスタトンは、一面で当時を代表する思想家、エッセイストでもあり、いまから一○○年ほどまえに『正統とは何か』を物して「正統(orthodoxy)」の意味を語りました。

正統とは何か

正統とは何か

 そのなかでかれはニーチェトルストイH・G・ウェルズを批判し、正統なるカトリック信仰の価値を高らかに謳いあげています。それならカトリック教徒以外は読む価値がないのかといえば、さにあらず、21世紀を生きるぼくたちが読んでも十分におもしろく、ためになる教訓がそこには記されているのです。

 そして、「おとぎの国の哲学」と名づけられたその思想は、現代を生きるぼくたちにも通じるものがあると思うのですね。

 「おとぎの国の倫理学」は、チェスタトンのこの『正統とは何か』のなかでも、最も刺激的なエッセイで、まさにおとぎの国の論理によって自然科学を批判しています。

 非常に要約しづらい文章なのだけれど、そこをあえてまとめるなら、この世は魔法で動いている、科学が示す法則などセンチメンタリズムに過ぎない、ということになるでしょうか。

 チェスタトンはいいます。木に実がなるのは、それが魔法の木だからだ。水が低きに流れるのは、それが魔法の水だからである。太陽があんなにきらきらと輝くのも、実は魔法の力にほかならぬ、と。

 他愛ない戯言と聞こえかねない言葉ではありますが、かれにいわせれば「法則」などという言葉のほうが戯言なのです。なぜなら、地球が自転することも、太陽が毎日のぼることも、実は必然などでは全くない、奇跡なのですから。

 確率としてはどれほど低いとしても、巨大な彗星がやってきて地球を打ち砕いてしまう可能性もある。太陽が突然爆発してしまう可能性もある。ぼくたちがあたりまえだと思っている日常とは、実は、その可能性をかいくぐってたどり着いた奇跡に他ならないのです。

 また、チェスタトンは書きます。

 第一に、現代世界全体が科学的宿命論を語っているのを私は発見した。あらゆるものが常にそうなるに決まっているまさにそのとおりの姿であり、はじめから一つの欠点もなく、進化の法則に従って展開してきたというのである。木の葉が緑の緑であるのは、それ以外の色では絶対にありえなかったからだというのだ。ところがおとぎの国の哲学に従えば、木の葉は絶対に真紅でもありえたのであり、だからこそ、木の葉の緑であることが無常の喜びとなるのである。おとぎの国の哲学者の目から見れば、木の葉はいつでも、彼の目がそこに止まるその一瞬前までは真紅であったように見えるのだ。雪が白いのを喜ぶのは、それが黒でありえたかもしれぬという、まさにその厳密に合理的な理由のためである。あらゆる色彩には、単にそうでしかありえないからそうであるのではなく、その色でなくてもよいのにとっくにその色になったという不敵な力強さがある。庭のバラの紅い色は、単に決然としているばかりか劇的でさえもある。突然ほとばしり出た血潮のようだ。おとぎの国の哲学者には、物はただそうであるからそうであるのではなく、誰かがそうしたからそうなっていると思えて仕方がないのだ。

 木の葉は真紅だったかもしれないし、雪は黒かったかもしれない。無限の可能性が存在しえたなかで、信じがたいような奇跡として、いま、木の葉は緑で、雪は白いのだということ。

 いいかえるなら緑の葉は緑以外のあらゆる色を含んでいるのであり、白い雪は白でなかったあらゆる可能性を内包しているといえる。それはまさに無限分の一の奇跡であり、魔法。ぼくたちが白く降る雪を美しいと思うとしたら、それは、その背後にある無限の色を同時に見ているからなのです。

 つまり、我々は白い雪を通して黒い雪が降る世界をも覗いていることになる。それを単なる自然現象、必然にして当然の現象と観るかぎりあたりまえの退屈な光景に過ぎないものも、実は奇跡であり魔法なのだと知ること。それがチェスタトンの思想です。並行世界の考え方もこれと近いものがあるのではないでしょうか。

 要はいかにね、陳腐で当たり前のことをね、ひとつひとつ積み重ねていくのが難しいのかっていうことの、強度を試す物語になっているんですね。並行世界の物語っていうのはそういう側面もあって。

 なんかね、陳腐な答えになるじゃないですか、骨太の物語っていうのは。「好きな女の子と結ばれる」とか「わーいみんなが助かったー」とか。物語っていうのはそういうものなんですよ。

 こんなのは勧善・懲悪って良く言われますけれども、物語っていうのはもう、あるべき姿に落ち込んでいくっていう「型」が決まっているものなので。決まっているっていうのはね、骨太のとても強いエネルギーがあるんですよ。なぜならみんなが望むことだからなんですね。

 ところが、今の僕らの世界の人っていうのは、妙に頭が良くてですね、類型をいくつも経験してしまっているがゆえのことだと思うんですけど、先を読んで「なんだよまたこの終わり方かよ。みんなが救われるとかわかってるんだよ、全員死ぬ所とかが見てーんだよ」とかみたいなやつが出てくるんですよ。

 人間ってね、ものすごく、イヤな生き物でしてね。当たり前の結論というのを嫌がっていくんですね。退屈と繰り返しに飽きる生き物なんですよ。これね、人間の……現代哲学の大テーマ、ですよね。退屈の生き物なんですよ。一回性の強度が失われていく生き物なんですよ、人間っていうものはね。

 その人達に、「当たり前にみんなが助かりました」っていう物語を、……でもそれが一番いい物語なんですよ? 一番感動する物語なんだけど……、一番感動できるはずの物語に感動しなくなってしまった消費者に「どうやって体験させますか?」っていう問題に対して、並行世界っていうのは良く出来てるわけですよ。

 つまり、「こっちの分岐を選んだら、こんな悲劇が待っているんだ」……その悲劇も、「そんじょそこらの悲劇じゃねぇぞ」くらいの悲劇が起こるわけじゃないですか。むしろ『ひぐらし』っていうのは、最終的に最後まで行くと「なんだそんな話か」って話なんですよやっぱりね。

 あたりまえの陳腐な物語――それが実は無数の膨大なそうではない可能性(並行世界)の結論としてあると知ること。そのとき初めてぼくたちはあたりまえの物語をあたりまえではないものとして享受できる。

 90年代の美少女ゲームを経て、ゼロ年代、「空気系」とか呼ばれるような作品が流行しました。おたがいがおたがいを傷つけないことを前提とした「仲良し空間」、退屈な日常の楽園。しかし、退屈してしまう時点で、実はそれは「楽園」じゃないんですよね。

 チェスタトンが語るように、本当の日常とは、あたりまえの生活が決してあたりまえではないという認識があって初めて成立する。平凡なことが本当は平凡どころではない、奇跡であり魔法であると知って初めてただの生活が魔法の国となるのです。

 平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。人間そのもののほうが個々の人間よりもはるかにわれわれの畏怖を引き起こす。権力や知力や芸術や、あるいは文明というものの興味よりも、人間そのものの奇蹟のほうが常に力強くわれわれの心を打つはずである。あるがままの、二本足のただの人間のほうが、どんな音楽よりも感動で心を揺すり、どんなカリカチュアよりも驚きで心を踊らせるはずなのだ。死そのもののほうが、餓死よりもっと悲劇的であり、ただ鼻を持っていることのほうが、巨大なカギ鼻を持っているよりもっと喜劇的なのだ。

 平凡は非凡より非凡である。チェスタトン一流の逆説(パラドックス)ですが、これはまさに真実をついている。平凡な物語のほうが、一見非凡な、奇を衒った物語よりもおもしろいんですよ。

 もちろん、ただ平凡なだけではだめで、その平凡さの奥にあらゆる非凡を秘めていなければならない。そう、ひとつの平凡なハッピーエンドが無数の非凡なバッドエンドを棄却した先にあるように。

 ただの白い雪が、黄色や、黒や、七色であった可能性を秘めているように、あたりまえのただの物語は、そうではない、あるいは悲惨な、あるいは残酷な物語の可能性を秘めて美しい。

 そういう意味で、最もそれが物語的な納得性を持って解決策を見出しているのは、『ねぎまる』だと思う。それは、ある種現実と自分の妄想で壊れ得て追い詰められて世界を拒否した時に、、、つまり、楽園から追放されるときに、「もう一度日常に戻る」という選択を持つことです。たしかに千雨は記憶を失っているかもしれませんが、感情移入する側である読み手のわれわれは、その日常が、楽園から追放される可能性や、楽園を壊された記憶とともに体験する日常であることを、、、二重に世界を見ること知っている、という構造をとります。これは、この楽園の追放を描くも物語類型の最終的な答えの一つだと思います。そういう意味では、その萌芽は、『あずまんが漂流教室』でも描かれています。答えの方向性としては、これが正しいんだとおいます。禅の十牛図という概念というか物語がありますが、この最終的な悟りへの道は、「日常へ戻ってくる=山を下りて俗世に戻る」ということで完成します。どんな悟りも、それを人に知らしめてこそ、ということがこの宗教概念の中には込められています。それと同じ。楽園の追放とは、いったい、読み手に何を伝えたいのか?。この世界の苦しさを、なぜ強く認識させ刻みつけたいのか?それは、このだれた退屈な日常の中で、この腐った世界で、汚れても戦い抜け、楽園の安住することは人として間違っている、ということを言いたいためでしょう?。であれば、楽園から追放されて、この世界の厳しさを知ったのならば、その「厳しさを知って上で」日常に戻らなければならないのです。もちろん、その最終的な結実が、『RETAKE』となるわけです。

 そうやって回帰した日常は、もはや単なる退屈な楽園ではない。あらゆる悲劇の可能性をかいくぐってたどり着いた、奇跡的な世界なのである。そこには、orthodoxのかぎりない感動がある。

 平凡は非凡よりも非凡である、とチェスタトンはいいました。あらゆる非凡を知った上で平凡に回帰したなら、その平凡はもう単なる平凡ではないのだということだと思う。それが「物語の復権」。「先」の可能性はそこにあるのでしょう。