天然ノーボーダーと意識的ノーボーダー。

 毎度楽しく拝見しております。

 ”ノーボーダー”が「(オタクの枠を越える)名前のない集団」なのか、「自分の限界にとどまらない意志」のことなのか混乱してきたのですが、ひとまず”境界”というものについて考えさせられました。

 能力的な限界については限界に対するスタンスが人それぞれなので特に論じようとは思いません。
 私が意識したいのは他人に対する判断の姿勢です。

 個人的には

・カテゴリーやジャンルに優劣をつけない(個人の好みは置いといて)
・他人を”いちカテゴリー”や”一側面”で知ったような気にならない。いつでも意外性の余地を残しておく。

 という2点に気をつけて自制をしてます。

 人は他人を差別(あるいは区別)します。見た目や話し方、もちろん”萌え属性”といったカテゴリーも判断材料の一つになります。その意味では境界は常に存在するのでしょう。

 ただし、その時に安易に線引きをせず様々な属性の濃淡(グラデーション)を確かめるような気持ちで臨もうと心がけてます。あくまで私個人の心得です。

 海燕さんの記事からは「自分はジャンルを区別しないノーボーダーだ!」と主張する姿勢を感じるのですが、私の心得とは少し方向が違うのではないかと思います。
 何というか、そこまで強く言うと別の誤解を生みそうというか・・

 私は”壁の存在自体が思い込み”と思っていますが、壁はなくとも境界はあると思います。
ただしその境界はただの目安です。道路に線を描いて県境を表しているようなもんですよ。
そこにオタク仲間やノーボーダーの概念を持ちだすとベルリンの壁ができそうな気がするのです。

 別に強く主張しなくてもいいのではないですか?
 他人から属性提示を求められた時の対処だけ注意すればOKだと思うのですが。
ちなみに私は「オタクですか?」の質問に対して「確かにオタク寄りだとは思うけれど、どのレベルなのかはよくわからないしそもそも私、割と雑食だしね(笑)」と答えてます。

 長々と失礼しました。

 今朝のメールに加えて連投になり、申し訳ないです。

 3月7日(日)のノーボーダー記事を拝見しましたが、いだいた感想は以前と同じです。
私が違和感を感じるのは

>そうなるくらいなら、常にじぶんのボーダー、じぶんの差別に自覚的であることによって、それ以上の差別をしない、という道が最善なんじゃないかと思うんです。

 という部分です。自分の差別に自覚的なのは良いと思いますが意識しすぎじゃないかと思います。それが壁を無駄に高くしているのではないですか?

 私にはオタクと一般人(に限りませんが)の差を明確につけようとする人も、あえて「差別をしない」と宣言する人も同類に見えます。どちらも差を高く持ち上げ過ぎです。

ノーボーダー論がどこへ行くのか、とても興味があります。
では。

 お答えします。

 ”ノーボーダー”が「(オタクの枠を越える)名前のない集団」なのか、「自分の限界にとどまらない意志」のことなのか混乱してきたのですが、ひとまず”境界”というものについて考えさせられました。

 両方の意味で使っています。いわばノーボーダー集団とノーボーダー精神ですね。先週、今週のニコ生では後者のノーボーダー精神について話をしましたが、来週は前者のノーボーダー集団について語ることになると思います。混乱させてしまったようなら申し訳ありません。

 自分の差別に自覚的なのは良いと思いますが意識しすぎじゃないかと思います。それが壁を無駄に高くしているのではないですか?

 それは個人のスタイルの問題ではないでしょうか。内心で注意するだけでよいとするひともいる。大勢に向け宣言して初めて公正であれると考えるひともいる。どちらがより良いか、という問題ではないと思います。

 たしかに、これからの時代、ぼくのようなスタイルは流行らなくなっていくでしょう。ぼくより下の世代は、もっと軽やかなステップで壁を超えていくに違いない。しかし、ぼくはそうはできないのです。だとすればじぶんのやり方でやるしかない。

 天然自然で一切の差別なく、少しも壁を作らず世界を横断していけるならそれはすばらしいことだと思います。けれど、それはぼくにはできないのです。良くも悪くも、ぼくは意識し、言語化し、理論化することによってしか実践できない。「天然ノーボーダー」ではあれない。

 「意識的ノーボーダー」であることは、既にオタク的に自己言及する自意識を抱え込んでしまったぼくにとって、ある意味、次善の策です。それはいかにも鈍重な足取りであるように見えるかもしれませんが、それがぼくのスタイルなのです。これはもう、仕方ないですね。じぶんを「オタク最後の世代」と呼ぶのはそういう意味です。