自由を名乗ることが不自由を生む矛盾について。


 ぼくが「ノーボーダー」という概念を提唱してからしばらく経ったので、ここらへんでまとめておきたいと思います。

 まあ、「ノーボーダー」という概念については既にいくつか批判が集まっているわけですが、そのなかで最もクリティカルなのは、「ノーボーダー」という概念そのものがボーダーじゃん、というものでしょう。

 この矛盾については、当然、ぼくも考えました。「ノーボーダー」という言葉が新たな優越感ゲームを生み出す可能性はあるよな、と。それはたしかにその通りなんです。ただ、それでもぼくは「ノーボーダー」という言葉を新たに生み出す意味はあると考えた。

 なぜなら、仮に「ノーボーダー」という言葉がなかったとしても、ひとはやっぱり優越感を抱いたり、劣等感を感じたりするからです。それは「趣味を越境しているオレ様かっこいい」かもしれないし、「ぬるい趣味しかもたないぼくはダメだ」かもしれないんだけれど、とにかく言葉さえなければ差別しないで済むということにはならない。

 どうやったって、確実に優越感ゲームを避ける方策なんてないんです。常にそうならないよう注意しているしかない。

 だったら、あえて「ノーボーダー」というボーダーを抱えることで、ボーダーを抱えてしまっているじぶんに対して意識的である、というやり方もあるんじゃないか。

 つまり、おれは「ノーボーダー」とかいうスカした言葉を使っている、下手すると優越感ゲームにはまりかねない、という意識を常に抱いていることで、逆説的に優越感ゲームから自由でありつづける、ということもできると思うんですよ。

 反対に、おれは何者でもない、おれはだれともつるまない、おれは自由だ、と口先で主張していたところで、じっさいには優越感で満ちていたり、ベタベタに依存しあっていたりということもありえる。

 そうなるくらいなら、常にじぶんのボーダー、じぶんの差別に自覚的であることによって、それ以上の差別をしない、という道が最善なんじゃないかと思うんです。

 あのmixiコミュニティもそうで、そこが依存と排斥の空間になる可能性はある。しかし、その可能性に常に留意し、注意していれば、ただ無自覚であるよりも安全であれるかもしれないと思うんだよね。いくぶんパラドキシカルですが、それがぼくの結論です。

 もうひとつの考えられる批判としては、ノーボーダーとかいっていても、結局、ある程度オタク的な趣味しかやっていないじゃん、スクーバもやっていないじゃん、ウィンドサーフィンもやっていないじゃん、ストバスもやっていないじゃん、というものがあります。

 これもその通りで、なんだかんだいってぼくの趣味はやはり偏っているとは思うんですよ。それはぼくの「無様」です。でもね、いままではそうだったけれど、これからずっとそうだとは限らないんですよね。

 とりあえず、ぼくはそういう趣味に手を染める可能性は排除しないでおこうと思う。だから、「それはぼくとは無関係の世界だよ」とはいわない。ただ、たまたまいままで縁がなかっただけだと考える。

 もちろん、人間には時間と能力の限界というものがあるので、あらゆる道を同時に極めることはできません。だから、どうしてもボーダーは生まれる。でも、そのことを踏まえた上で、可能な限りそのボーダーを超えていきたいと考える意志、それが「ノーボーダー」だと思います。

 つまり、ノーボーダーなんていっても、完全にボーダーを作らず、差別しないで生きていけるような万能の超人では全くなく、ただのひとなんです。逆にいうと、そのただのひとの限界に常に挑戦しつづける、それがノーボーダーだともいえるでしょう。当面はそれで十分ではないでしょうか。